金木犀の香りに絆されて

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 金曜日の午後六時、金木犀の横にあるベンチで待ってます。というメールを、結衣は拓海に送った。返信はなかったがメールは届いたようだったので結衣はいつかの公園へと出向いた。

 つい先週まで華やかな香りを振りまいていた金木犀は連日の雨で花を散らせていた。木の下にはオレンジ色の花が散らばり無残な姿を晒している。落ちた花からは香りがせず、結衣の気分も悪くはならなかった。

 ベンチは雨に濡れているため、傘をさしている結衣は金木犀の脇に立った。時計が示す時刻は五時五十分、指定の時刻まではあと十分ほど時間がある。

(来るかな……)

 緊張を感じた結衣は深呼吸をしてみた。脳裏には、拓海と出逢ってからの出来事が蘇る。

 結衣と拓海は知り合ってからまだ二週間も経っていない。だが短い時間のうちに色々なことがありすぎた。

 午後六時、時計は結衣の指定した時刻を指した。周囲を見渡しても拓海らしき人影はない。

(……メール、見てないのかな)

 やっぱり電話にすれば良かったと思いながら結衣はため息をつく。だが今更かけることも出来ないので待つことにした。

 午後七時、小雨だった雨が本降りになってきた。公園には他に人影もなく、結衣は一人きりである。

(来ないのかな……)

 もともと太陽は出ていなかったが日は暮れ、結衣の周囲は暗闇である。秋の夜風は肌寒く、制服姿の結衣は小さく体を震わせた。

 午後八時、雨は小康状態となった。厚い雲間から微かに月光が降り注いでいる。

(電話、してみようかな……)

 夜気と雨にすっかり冷えた体とは裏腹に頭は鈍っていた。携帯電話を取り出したものの結局かけられず、結衣は再び鞄にしまった。

 午後九時、再び雨が降り出した。結衣は濡れたベンチに腰を下ろしており、その脇には開かれたままの傘が無造作に置かれている。

(……もう、来ないよ)

 立ち尽くすことに疲れた足が言うことを聞かず、結衣はベンチにもたれて目を閉じた。

 午後十時、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた結衣は寒さに耐えられず目を開けた。厚い雲が切れ公園は月光に包まれているが求める姿はない。

 腕時計を見た結衣は慌てて携帯電話を取り出した。ディスプレイには不在着信が何件もあり、すべて家からであった。結衣はすぐに電話をかけたが案の定、母親に叱られた。友達の家に泊まることを告げ、結衣は通話を打ち切る。

 ずぶ濡れのままでは家に帰ることが出来ない。こういう時、詮索をせずに慰めてくれるのは響子しかいないと思い結衣はメールを打ち出した。だが足音に気がつき、結衣は顔を上げる。

「何で……」

 結衣が指定した時刻から四時間遅れて姿を現した拓海は二の句が告げられない様子で口を閉ざした。結衣は携帯電話を置いて立ち上がり、呆然と佇む拓海の傍へ寄る。

「ここへ来たのは偶然ですか? それとも、メール見ました?」

 尋常ではない様相の結衣があまりに平然と話しかけたので調子が狂ってしまったのか、拓海は怒り出した。

「何でまだいるんだよ! 四時間も待たされたら帰れよ!」

 雨ですっかり頭を冷やされている結衣は拓海が感情的になるほど冷静になっていった。初めて素顔を見た気がした結衣はじっと、拓海の顔を見つめる。

「メールを見て、ここに来たんですね?」

「見たけど無視したよ! そんなこと分かってんだろ!?」

「でも、来てくれたじゃないですか。来たからには今日こそ、ちゃんと説明してください」

 絶句した拓海から表情が消えるのを結衣は口をつぐんで見守った。拓海は結衣の姿を改めて見下ろした後、忌まわしいと言わんばかりに顔を歪める。

「お前、バカじゃねえの」

 拓海の冷えきった声が静かな公園に響く。結衣は無言で拓海を見据えた。

 拓海は恋人を見るような熱さで結衣を見ることもあれば一転して素っ気なく振る舞う時もあった。その矛盾が何から生じているのか、拓海が何も話さないので結衣には知る由もない。拓海の本音がどこにあり素顔はどの態度なのか、判断に困った結衣は考えることを止めただ拓海を見つめていた。

 睨み合いはしばらく続いたが、やがて耐えかねたように拓海が目を逸らした。

「……頼むから、何も聞かないで帰れ」

 拓海は哀願したが結衣は許さなかった。

「友達のところに泊まるって言ってあるんで時間はあります。話してください」

「また倒れられるのが嫌なんだよ!」

 拓海は顔を戻したが結衣が発する威圧感に口をつぐむ。拓海は苛立っているようだったが怒っているのは結衣も同じなのだ。

「……分かった。ちゃんと話す」

 結衣が大人しく帰ることがないと知った拓海は長い沈黙の末に音を上げた。






 夜の公園で押し問答した後、結衣は拓海の家へ連れて行かれた。拓海は結衣が通う高校の最寄り駅近くに部屋を借りていて一人暮らしだった。

 雨に濡れた結衣は拓海に促されるままシャワーを浴び、借り物のパジャマの裾を引きずりながら室内の様子を窺う。すると突然、金木犀が香った。

「まだ咲いてるんですか?」

 目が合ったので拓海に問いながら結衣は歩み寄った。拓海は無言でテーブルに顔を向ける。花瓶に花を咲かせている金木犀の枝があることを確認した結衣は納得した。

「よっぽど好きなんですね」

 結衣は半ば呆れ気味に言ったが拓海は答えなかった。キッチンへ行ってコーヒーを淹れてきた拓海はベッドに座るよう促しながら結衣にカップを渡す。

「それしかないから」

 ぶっきらぼうな口調で言い置いた拓海は結衣から離れて床に腰を下ろした。渡されたのはブラックコーヒーであり、結衣は眉間に皺を寄せながら口に運ぶ。体裁を保った後、結衣はカップを置いた。

「私、変なもの見たんです」

 この期に及んで拓海が口を閉ざしていたので結衣は自分から話を切り出した。気まずそうに目を逸らしていた拓海は顔を上げ、無言で結衣を見つめる。結衣は幽霊のような男の容貌など、思い出したことを詳しく伝えた。

「友達は前世の記憶なんじゃないかって言ってました」

 響子の見解までをも口にし、結衣は拓海の顔色を窺う。黙って話を聞いていた拓海は観念したように息を吐き、重い口を割った。






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