三年生を送り出し、あとは終了式が終われば春季休みに入るという三月の終わりに、マイは普段足を運ぶことのない渡り廊下を歩いていた。もう授業は終了しているため、廊下には下校しようとしている生徒が溢れている。マイは彼らに逆流する形で昇降口を素通りし、階段を上った。目指す先は一年生の時に同じクラスだった久本のいる教室である。
マイと久本は友人というほど親しい関係でもない。マイがそんな関係の(しかも校舎すら違う)男子生徒を訪ねようとしているのには、ある理由があった。その理由が理由だけにマイは気を張っており、不自然な表情にならないよう軽く頬を叩いてから教室を覗き込んだ。
もう本日の日程自体は終了しているので教室内には生徒の姿もまばらだった。しかし会いに来た人物はしっかり残って、マイは扉のところから声をかけた。
「久本」
窓辺で友人と話しこんでいた久本はマイの声に反応して顔を傾けた。戸口にマイの姿を認めると、久本は驚いたような表情をして席を立つ。友人に一言二言言い置いてから、久本はマイの元へやって来た。
「こっちの校舎で倉科と会うの、初めてだな。オレに何か用?」
倉科はマイの苗字である。マイは小さくため息をつきながら応じた。
「用がなかったら来ないよ」
「そりゃそうだ。というか、怒ってなかったっけ?」
久本が笑ったのでマイは嫌なことを思い出して顔をしかめた。
バレンタインデーの前日、マイはたまたま久本に会ったので義理チョコをあげた。そのお返しとして久本から飴をもらったのだが、これが嫌がらせのような代物だったのである。ホワイトデーからまだ数日しか経っていなかったのでマイの口内には舐めてもいない飴の味が蘇った。しかし今は、そのようなことはどうでもいい。
久本が制服のままだったのでマイは部活がないのかと尋ねてみた。久本はサッカー部に所属しているのだが、春季休みが近いのでもう部活はないらしい。その代わり、新入生歓迎会に向けて出し物を考えていたところのようだった。
「ちょっと話があるんだけど、今はまずい?」
「ここじゃ出来ないような話?」
マイが頷くと久本は「ちょっと待って」と言い残して教室に戻って行った。久本は鞄を持って帰って来たのでマイは驚きながら尋ねる。
「いいの? 抜けちゃって」
「休み中にもミーティングするし。大体の流れは決まったからオレがいなくても大丈夫」
「そうなんだ?」
「行こうぜ」
久本が先導するように歩き出したのでマイは首を傾げながら従った。
マイが連れて行かれたのは校舎の端にある特別教室だった。久本はさらに、特別教室の中からしか行けない準備室に入り込み、内側から鍵までかけた。あまりにも手際が良かったのでマイは呆れながら久本を振り返る。
「何でここ、鍵が開いてたの?」
「この教室、囲碁将棋部が使ってんだ。顧問が武田だからさ、よく閉め忘れてんだよな」
武田という社会科の教師は定年退職間際の年齢である。年寄りというほどではないが忘れっぽくなっているのかもしれないと、武田の呑気な顔を思い浮かべたマイは苦笑した。
「なるほどね。武田先生かぁ」
「それより、話って何? もしかして告白とか?」
久本がニヤニヤしながら言うのでマイはとっさに閉口してしまった。マイの反応を見た久本は一転して不安げな表情になる。
「まさか……そうだとか言わないよな?」
「……言わないよ」
「じゃあ、何?」
久本に問い詰められたマイは言い出し辛いと感じながらも単刀直入に尋ねた。
「久本って彼女いるの?」
「……やっぱり告白する気だろ?」
久本に妙な顔をされたマイは自分の発言を振り返って苦笑した。だが真意を説明しようとすると、友人の貴美子のことをにおわせることになってしまう。マイは少し考えた末、逆ギレすることにした。
「いいから、いるのかいないのかだけさっさと答える!」
「……何でオレが怒られなくちゃならないんだ?」
「彼女いるの? いないの?」
「いや、いないけど……さ」
「……いないんだ」
マイは意外な思いで呟き、久本の顔を見据えた。マイの迫力に押されていた久本も真顔に戻り、真っ直ぐに視線をぶつけてくる。不穏な空気を察したマイは慌てて視線を外したが、時はすでに遅かった。
「で、何だってそんなことを気にするんだ?」
「えっ、それは、その……」
「倉科にその気がないってことは、友達に頼まれたとかそういうことだろ?」
「いや、それは、えっと……」
「オレのこと好きだって言ってくれてる子がいるんだろ? 誰?」
そこまで断定的に言われてしまえば閉口するしかなく、マイは黙り込んだ。しかし久本はマイを見据えたまま答えを待っている。いつものふざけた調子ではなく真顔のままなのが怖いと、マイは思った。
(しまったぁ……失敗した)
改まって密談などせず、教室のところでさりげなく訊いておけば良かったのだ。今更そんなことを思ってみても、久本にはすでに彼のことを好きな女の子がマイの友達の中にいるとバレてしまっている。マイが答えに窮していると久本は不敵な笑みを浮かべた。
「気になるだろ。教えてくれよ?」
脅しまがいの科白を口走ると、久本は扉の前に移動した。久本がその位置に立ってから退路を塞がれたことに気がついても、もう遅い。久本が、何が何でも吐かせるつもりでいることを悟ったマイは白旗を挙げた。
「久本ってさ、実はそうとうモテてない?」
久本の態度は明らかに、告白されることに慣れている。そうでなければこの頭の回転の速さは有り得ないと、マイは本気で呆れながら零した。久本はわざとらしく肩を竦めただけで何も言わない。その反応を不安に思ったマイは念を押した。
「本当に、彼女いない?」
「いない。オレがそんな遊び人に見えるか?」
「見ようによっては見えるから怖い」
「うわっ、ひどい言われようだな。で、誰? オレの知ってる子?」
「……久本さぁ、そういうことって本人のいないところで言っていいと思ってんの?」
マイが真面目に問うと久本は黙り込んだ。これでもし久本が「こっそり教えて」と言おうものなら縁を切ろうと思いつつ、マイは返事を待つ。
「じゃあさ、今その子呼んでよ」
久本の答えが突拍子もないものだったのでマイはあ然とした。
「何でそういう話になるの?」
「え? 普通、そうなるだろ?」
「う、う〜ん? そうかなぁ?」
いまいち納得のいかなかったマイは首を捻ったが久本は大真面目に頷いて見せる。しかしマイは不安を拭いきれず、問いを重ねた。
「今、好きな子とかっているの?」
「いない」
「じゃあ、告白したってダメじゃん。ダメなのが分かってるのに告白しろなんて言えないよ」
「何でダメって決めつけるんだよ? オレはその子の顔も名前も知らないんだし、そんなの会ってみなくちゃ分からないだろ?」
「う、う〜ん……」
久本の言うことも一理あるので、マイは困って視線を泳がせた。
(キミちゃん、あんまり話したことないって言ってたよねぇ。どうなんだろ?)
久本のことを好きな貴美子は、自分から積極的にアプローチするようなタイプではない。そもそもマイが久本のところへ来たのは、彼に彼女がいるだろうと半ば以上思っていたからだった。彼女がいるか聞いてほしいと言った貴美子もまた、マイと同じ考えだっただろう。妙な話ではあるが、マイと貴美子が求めていたのは「彼女がいる」という久本の一言だったのだ。それが何か、今はさらに奇妙なことになっている。
しばらく考えた末、マイは泳がせていた視線を久本に固定した。
「わかった、聞くだけ聞いてみる。でも嫌だって言われたら今の話は忘れてね?」
「りょーかい。倉科、携帯持ってるか?」
「うん」
「じゃあ、オレの番号教えるから。返事が来たら電話して」
久本が携帯電話を取り出したのでマイも鞄を探った。赤外線通信でお互いの電話番号とメールアドレスを交換し、マイと久本は準備室を出る。
「そういえば、小笠原が松丸にフラれたってホントなのか?」
「は?」
久本が何気なく切り出した噂話に度肝を抜かれたマイはぽかんと口を開けたまま、動きを止めてしまったのだった。
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