春眠暁を覚えず、という言葉がある。これは、春の夜はとても眠り心地がいいので朝が来たことにも気付かず、つい寝過ごしてしまうという意味である。春は陽気がいい。特に昼食が終わった五時間目は睡魔との闘いである。経験があるので、マイはこの言葉には賛成だった。
夏は、寝苦しい。朝となく夜となく、気温が下がらなければなかなか寝付けないものである。にもかかわらず、ユウはぐっすり眠る。
春夏秋冬、朝昼晩。ユウはいつでも何処でも眠っている。春は、前述の理由から共感できる。秋は、陽射しが柔らかくて風が涼しいので過ごしやすくて同感だった。冬は、暖かい布団の中であれば頷ける。だが夏だけは、マイには理解できなかった。
「ユウ」
授業が終わっても隣の席で眠りこけているユウをマイは揺さぶった。教室には冷房がないのでマイも汗だくではあったが、ユウの体は寝汗に濡れている。
「ユウ、起きなよ」
少し手荒く、マイはユウを左右に揺する。鬱陶しいと言わんばかりにユウは体を起こした。
「なんだよ」
「授業、終わったよ」
マイがそう教えてあげるとユウは寝ぼけた様子で目を泳がせる。まだ帰りのホームルームがあるのに、彼は鞄に手をかけた。マイは呆れながらユウのワイシャツの裾を引っ張る。
「ユウ、いいかげん起きなよ」
「ああ、まだか」
マイの指摘に気が付き、ユウは浮かしかけていた腰を落ち着けた。椅子の背もたれに体重を預け、ユウはそのまま頭を垂れる。前髪が邪魔でマイからは顔が見えなかったが、ユウは再び目を閉じてしまったようだった。
もう一度声をかけることはせず、マイは無言で帰り支度を始めた。
マイとユウの関係は友達未満の『ご近所さん』である。小学三年生の時にユウがマイの家の隣の隣に越してきてから二人の微妙な関係は始まった。以来五年、友達と言うほど話もせず、ただの知り合いと言うほどお互いのことを知らないわけでもなく、マイとユウは気楽に付き合いを続けている。
学校からの帰り道、マイはたまたま一人で歩いていたところにたまたま一人で歩いていたユウを見つけたので声を掛けた。ユウは眠そうな顔で気怠げに振り返り、マイが追いつくのを待って歩き出す。
「ユウは夏休み、何するの?」
夏休みを三日後に控えていたのでマイの頭は長期休暇をどう過ごすかということでいっぱいだった。ユウは話しかけられたので答えているといった仕種で重い口を開く。
「寝る」
ユウのこの答えは毎年恒例のものだった。彼が寝ると言ったら本当に寝るので、今年も外へ出かけたりはしないのだろう。
「夜、寝られなくならないの?」
この機会に訊いてみようと思い、マイは常々疑問に思っていたことを切り出した。ユウは肩にかけていた鞄を面倒そうに下ろし、息を吐く。
「どうでもいいじゃん」
「……そうだね」
本当にどうでもよかったのでマイはあっさり頷いた。ユウもどうでもよさそうにだらだら歩く。
「じゃあ、また明日」
家の前に着いたのでマイはユウに別れを告げた。ユウは無言で、鞄を持っていない方の手をひらひらと振った。
マイとユウの関係は、微妙である。しかし双方の両親の仲はきわめて良好であった。
「明日?」
夏休みの初頭、マイはグラスの麦茶を干してから改めて母親に向かった。
「そう。明日から旅行に行くから」
前もって言っておいたはずだと母親は言ったがマイには寝耳に水の話であった。詳しく聞いてみると、マイの母親らは二泊三日で伊豆へ行くらしい。
「いいよ。行ってらっしゃい」
マイは自炊をするので両親が家を空けることは苦でも何でもない。むしろ友達を呼べるので好都合である。しかしマイの企ては母親の一声で吹き飛ばされた。
「ユウちゃんのお世話、よろしくね」
ユウは家の手伝いなど一切しない。そのユウの両親を旅行に誘うため、マイがすべてを引き受けると約束したのだと母親は言った。
「勝手に決めないでよ」
マイは憤慨したが母親は一万円札を取り出した。
「三日分の食費とユウちゃんのお世話代。余ったらお小遣いにしていいわよ」
目前に吊り下げられたお札にマイは喉を鳴らした。うまくすれば五千円ほどは手元に残る。
「……わかった」
十四歳の苦学生にとって五千円は大金である。金欲に負け、マイは熟慮することなく頷いた。
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