カノン

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 今にも雪が降り出しそうな秘色ひそくの月の空を仰ぎ、葵はため息を白く上空へ上らせた。肌を刺すような冷たい外気に晒されながら彼女が佇んでいる場所は、トリニスタン魔法学園の敷地内の東北端にある塔の真下である。時計を嵌めこんだらピタリと合いそうな空洞からは今日もバイオリンの音色が流れ出していて、塔の内部にハル=ヒューイットがいることを証明していた。

(ダメだって分かってても、来ちゃうんだよね)

 ハルがこの塔でバイオリンを弾いているのは、放課後や早朝よりも授業中のことの方が多い。そのことを知ってしまってからというもの葵はたびたび授業をさぼるようになり、こうして人目を忍んでこの場所へ通うのが日課になりつつあった。しかしハル=ヒューイットがマジスターの一員であると知って以来、葵は彼に声をかけていない。会話をしたのはたった一度、それもごく短い時間である。それでも葵がこの場所へ通ってしまうのは、元いた世界とこの世界を繋ぐ音色を聞いていたいからだった。

(だって、他につながりを感じられるものってないし)

 二月の浮かぶこの世界にもバイオリンという楽器が存在していることは判明したが、未だにハル以外の者が弾いている姿を目にしたことはない。そうして理由をつけてみてもアルヴァの言いつけに背いているという後ろめたい気持ちを完全には拭い去ることが出来ず、どう思えばいいのかすら分からなくなってしまった葵は開き直ってふんぞり返った。

(大体、何で私が肩身の狭い思いをしなくちゃいけないわけ?)

 葵はれっきとした被害者である。だがこの世界は被害者に対して冷たすぎる。何故自由が認められないのかと憤った葵はアルヴァに気を遣っている自分をバカらしく感じてしまい、鼻息も荒く塔に向かって歩き出した。

「授業中ですよ」

「うわあ!!」

 背後から突然かかった声に驚いた葵は振り向きざまに倒れてしまった。すぐに起き上がろうとしたのだが、新雪に尻がはまって抜け出せない。仕方なく、葵は間の抜けた姿のまま目前にあるスラリと伸びた足の持ち主を見上げた。

「アル……」

 この学園で唯一葵の秘密を知っている彼は、葵が今一番会いたくなかった人物だった。いつものように白衣姿のアルヴァは特に表情を変えるでもなく葵を見下ろしている。

「大丈夫ですか、ミヤジマ?」

 心配しているかのような科白を吐いておきながら、アルヴァの口調は平静そのものだった。さらには突っ立っているだけで手を差し伸べようともしない彼の態度は実はまったく心配などしていないと体現しているようなものであり、腹が立った葵は八つ当たり気味に声を荒らげる。

「大丈夫じゃない! 起こしてよ!!」

「はいはい」

 葵が伸ばした腕を掴み、アルヴァは軽々と彼女を引っ張り上げた。立ち上がった葵は新雪まみれになったローブをはためかせ、雪を落とす。葵がそうしている間に、アルヴァは彼女がつくった窪みに目を落とした。

「それにしても、お尻だけが雪にはまるとは余程……」

「重いって言いたいの?」

「いえいえ、滅相もない。ただ、器用な転び方をなさると思っただけです」

 アルヴァは女好きのする極上の笑みを浮かべ、さらりと毒を吐いた。これが授業をさぼったツケなのかと、真っ向から嫌味を言われた葵は嘆息する。アルヴァに対しては後ろめたい気持ちもあったので、葵は気まずさを感じながら本題を切り出した。

「何でここが分かったの?」

「ミヤジマの嵌めている指輪リングには僕の魔力がこめられていますから」

 不意にリングが話題に上ったので葵はとっさに右手を持ち上げ、アクロアイトの指輪に視線を注いだ。つまりはこの指輪がレーダー代わりというわけなのだ。

「監視されてるみたいでやだ。外す!」

「そのリングを外すと魔法が使えなくなるということをお忘れなく」

「あ、そ、そうだった……」

 このところクラスメートと出かけることを控えていたので魔力を補充してもらう機会もなく、葵は指輪の効能を失念していた。指輪の力だけでは不十分だが、この世界では何をするにも魔法が必要なのである。そのことをすでに体験として知っている葵は唸ることしか出来なかった。

「それと、ミヤジマ。言葉遣いが乱れていますよ」

「うっ……はい、分かりましたわ」

 完膚なきまでに叩きのめされた葵は肩を落としてアルヴァの言いつけに従った。葵がしょげたのを見て、アルヴァはつと彼女の手を取る。

「では、行きましょうか」

 有無を言わせぬ調子で告げた後、アルヴァは『アン・ルヴィヤン』と呪文を紡いだ。この呪文は帰還を意味するもので、特定の魔法陣が描かれている場所へ戻ることが出来る。アルヴァの場合、それは簡易なベッドが並ぶ保健室風の部屋だった。

 いつもの場所へ移動するとすぐ、アルヴァはきっちり締めていたネクタイを緩めた。拘束されていた手が解放されたので葵はアルヴァから離れ、ベッドに腰を下ろす。シャツの裾を中途半端に引っ張り出したアルヴァはどっかりと椅子に腰掛け、長い脚をこれ見よがしに組みながら葵に視線を向けた。

「で、あんな所で何をしていたんだ?」

 アルヴァからさっそく本題を投げかけられた葵は答えに窮して視線を泳がせた。葵に話しかけながら引き出しをあさっていたアルヴァは煙草を一本取り出し、まだ火をつけていないそれを葵に向ける。

「ミヤジマ、嘘をつこうとしているね?」

「そんなつもりは……」

「ないなら、何で口実を考える?」

 口実を考えていたことまで見透かされているのなら、いくら否定しても説得力がない。そう思った葵は苦い表情をし、素直に本当のことを話すことにした。

「あの塔でハルって男の子がバイオリンを弾いてるの。それを聞きに行ってただけ」

「ハルって、ハル=ヒューイット? マジスターじゃないか」

「知らなかったんだから仕方ないじゃん。でも、話をしたのは一度きりだよ」

 アルヴァが呆れた顔をしたので葵は必死になってハルと出会った時の状況を説明した。アルヴァは眉根を寄せ、無言のまま話を聞いている。それは葵が苦しい弁解を終えてからも変わりなかった。

「会わない方がいいと解っているのに通ってしまうなんて、恋してるみたいだね」

「違っ……! 何でそうなるの!?」

「普通、そうなるだろう? それにムキになってるところも怪しい」

 火をつけた煙草の代わりに今度は指を突きつけられ、葵は返す言葉を失った。確かに、ムキになっているのは怪しい。自分でもそう感じた葵は深呼吸をし、アルヴァのペースに乗せられないよう慎重に言葉を探した。

「私がハルの所に通っちゃうのは、帰りたいからだよ」

「……何故そうなる?」

「だってバイオリンを弾いてるの、彼くらいしか知らない」

 葵がバイオリンという楽器に対する思い入れを語るとアルヴァは再び眉根を寄せた。しばし間があった後、アルヴァは小さく首を振ってみせる。

「なるほどね。ホームシックというやつか」

「フツウ、そうなるよ。何もかもが違う世界にいきなり連れて来られたら」

 さっきの仕返しとばかりに葵が嫌味を言うと、アルヴァはさりげなくそっぽを向いた。この様子では、未だレイチェルからの連絡はないのだろう。そう感じた葵が失意のため息をつくと、アルヴァもまた息を吐いた。

「僕が弾いてあげるよと言いたいところだけど、生憎バイオリンは習ってなかったんだよね」

「いいよ、別に。期待してないから」

「でも、ミヤジマ。マジスターと接点を持つのは本当にやめた方がいい」

「分かってる。私だってイジメになんかあいたくないもん」

「そう思うのなら校舎の東へは行かない方がいいよ。全面ガラス張りの建物を見ただろう? あの辺りはマジスターの領域なんだ」

 校舎の東にあるドーム周辺でハル以外の人影を目撃したことがないのにはそうした事情があったのかと、葵は一人で納得した。学園内に一般人を排除した空間を所有するなど、まるでVIP扱いである。

「マジスターってすごいんだね」

 独白した後、葵は「色んな意味で」と胸中で呟いた。心の呟きまで聞こえてしまったのかアルヴァは苦笑いを浮かべている。

「まあ、マジスターの称号は権力の証だからね。彼らは暇と金と力を持て余してるんだよ」

「なんか、セレブな芸能人って感じ」

 葵が発した不必要な一言に、アルヴァが目を輝かせた。しまったと思ってももう遅く、アルヴァは席を立って葵に詰め寄る。

「せれぶ? ゲイノジン? 何を意味する言葉なんだ?」

 知識欲に駆られたアルヴァは見境なく、葵に質問を投げかけた。こうなってしまえば彼の気が済むまで質問に答え続けなければならない。今までにも幾度か経験しているだけに、葵は彼の質問に答え続ける苦労を知っていた。

(あーあ、やっちゃったよ)

 すでにげんなりしてしまった葵は人知れずため息をつき、嫌々ながらもアルヴァの質問に一つずつ答えていったのだった。






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