そして闘いの幕が開く

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 小雪が舞うある冬の朝、丘の上に建つトリニスタン魔法学園へと続く急な坂道を重い足取りで上っている者の姿があった。その人物は厚手のケープに身を包み、小脇に重そうな本を抱えている少女である。舗装された通行路の雪は退けられているものの学園までの道のりは過酷であり、彼女はハアハアと苦しげに息をしながら無心に足を動かしていた。苦労の末トリニスタン魔法学園の校門へと辿り着いた少女は、そこで手にしていた本を雪の上に放り出し、脱力するようにしゃがみ込む。目深に被っていたフードをとり、校門に背を預けて足を投げ出した人物の名は宮島葵といった。

(あー、疲れた)

 毎朝のこととはいえ登下校は重労働である。どのくらい険しい道のりなのかと言えば、雪が降りしきるような寒さの中でも丘を上りきった頃には汗ばんでいるほどだ。転移魔法を使えば辺鄙な場所に佇む学園への登校も容易なものなのだが、あいにくこの世界の生まれではない葵にはそのような手段はなかった。ので、葵は毎日この試練を乗り越えて学園に来ているのである。

 乱れた呼吸を整えながら、葵は小雪の舞い落ちる灰色の空を見上げた。冬月とうげつ期最後の月である秘色ひそくの月も終わりを迎えようとしており、間もなく夏月かげつ期に入ろうとしている。葵が異世界へ召喚されてから二月もの歳月が経過したことになるが、未だにレイチェルやユアンからは何の連絡もなかった。

(いつになったら帰れるんだろう)

 元いた世界で迎えようとした夏が、この世界にも巡って来る。まだ雪が降るような寒さなので実感はないが、直面している現実が元いた世界で体感した記憶に追いついてしまうと、どうしても焦りを覚えずにはいられなかった。しかし気ばかり焦ってもどうしようもないことを、葵はすでに知っている。あれこれと考えを巡らせていても気が重くなるだけなので、葵は投げやりに体を投げ出した。

 葵が纏っているケープには防水の魔法がかけられており、雪の上で寝転がっても濡れることはない。だが汗がひいて寒さが凍みてきたので葵は立ち上がろうと思った。しかし葵が行動を起こす前に、事件は起きてしまったのである。肢体を投げ出して寝転んでいた葵の上に、突如として人影が出現した。その人物は葵の足の上に着地し、バランスを崩して見事にひっくり返る。足に人間一人分の体重を乗せられた葵も痛さに悲鳴を上げた。

「っ、てぇ……」

 新雪まみれになりながら起き上がったのは、私服の少年であった。顔を歪めながら痛みに耐えていた葵は涙目になりながら少年の方へ顔を傾ける。そうして目にした人物に、葵は痛みも忘れるほど驚愕した。艶やかな漆黒の髪に、黒い瞳。端正な顔の中でも切れ長の目が印象的な少年は、視線だけで人を惹きつける。彼の顔を、葵は写真のような図画で見たことがあった。

(この人……)

 マジスターだと察した刹那、葵は一瞬にして青褪めた。キリル=エクランドという名の少年はしきりに頭を振っていたが、やがて呆然と座り込んでいる葵に目を留める。無表情で近付いて来た彼は、何の躊躇もなく葵を殴り飛ばした。

「あ、おい! キル!」

 拳で顔を殴られた衝撃で雪の上に倒れこんだ葵は起き上がることも出来ずにその声を聞いた。どうやらキリル=エクランド以外にも近くに人がいたようだったが、彼らの気配は次第に遠ざかっていく。手加減なく殴られたショックが思考を奪うと同時に涙腺を壊してしまったようで、葵は蹲ったまま泣いた。

 ひとしきり泣くと次第に冷静さが戻って来て、葵は目元を拭ってから体を起こした。ズキズキと痛む頬に手をあて、なんとか座る体勢まで持ち直す。そこでふと、視界に誰かの足が映っていることに気がついた。恐る恐る目を上げた葵はそこに信じられない人物がいるのを見て瞠目する。

(何で……)

 この瞬間に居合わせたのが、よりにもよって彼だったのか。葵は自分の運の悪さを呪いながら俯き、垂れ下がる髪で顔を隠した。

「平気?」

 ハル=ヒューイットの声は素っ気なく、口調も儀礼的なものだった。口を開いたらまた泣き出してしまいそうだったので葵は無言で頷く。ハルが声をかけてくれた嬉しさと、ひどい顔を見られたくないという思いと、殴られたショックと痛みとがごちゃ混ぜになって、葵はもうどうしたらいいのか分からなくなっていた。

 涙が零れそうになるたびに唇を噛むことを繰り返し、どれだけの時間が経ったのか。ようやく落ち着きを取り戻した葵は、しかし顔を上げることが出来ないままでいた。ハルは一言発したきり、その後は何も言ってこない。もしかしたらすでに立ち去っているのかもしれないが、まだいたらと思うと顔を上げられなかったのだ。しかしそんなことをしていても寒さにやられてしまうだけなので、葵は意を決して顔を上げる。ハルは、まだそこにいた。

 ハルは常の無表情を崩すことなく、座り込んでいる葵をただ眺めていた。注視されることに気まずさを感じた葵は伏し目がちになりながら声を出してみる。

「あの……」

 それは耳慣れた自分の声ではなく、明らかな鼻声だった。ますますの気まずさを感じた葵は言葉を続けることが出来なくて閉口してしまったのだが、ハルからは何も反応が返ってこない。

(えっと、どうしよう)

 ハルが何故そこに佇んだままでいるのか分からないが、葵としてはもう立ち去ってくれても構わなかった。醜態を晒した後なので顔を合わせづらいし、何より殴られた後の顔など見られたくない。だが泣き止むまで待っていてくれたのだとしたら、追い払うのも気が引ける。ここは自分から立ち去った方がいいと思った葵は気力を振り絞って立ち上がろうとした。しかし手加減なしで殴られた衝撃が予想以上のダメージとして残っていたようで、葵は再び膝を折る。

「立てないの?」

 ハルの問いかけに頷くわけにもいかず、へたり込んでしまった葵は笑って誤魔化そうとした。しかし腫れてきている頬が邪魔をして、うまく笑えない。殴られたのとは別の意味で泣きそうになりながら、葵は深く俯いた。

「そのうち動けるようになると思うから」

「そのうちなんて言ってたら凍える」

 顔を見られたくないという葵の意に反してハルは近付いてきた。彼は葵の腕をとり、無理に立ち上がらせる。そして両足を片手ですくいとり、葵の体をいとも簡単に抱き上げたのだった。

(えっ!? 何!?)

 突然の出来事に葵はパニックに陥った。葵を抱えたハルは平然としたまま校舎に向かって歩き出す。ハルの顔があまりにも近くにあったので、見ていられなかった葵は両手で顔を覆った。

「顔、見せたくないんだったら腕回せば?」

 自分の首を抱いてしがみつけと、ハルはとんでもないことをサラッと口にする。胸中で悲鳴を上げた葵には、ハルの腕の中でさらに縮こまることしか出来なかった。

(そんなの、かっこ良すぎるよ)

 泣いている間は何も言わず傍にいてくれて、なおかつ葵が何を気にしているのか察してくれた上で適切な助け舟を出してくれる。そんな男の子が実在することが夢のようだった。だけど距離が近すぎて、まともに顔を見ることも出来ない。今はただ早鐘のように脈打っている鼓動を隠そうと、葵は必死で息を押し殺した。

 顔を隠している葵には周囲の状況が分からなかったが、しばらくすると校舎の中に入ったようだった。凍てつく空気が和らいだ代わりに、様々な感情を含んだざわめきが耳につく。『何あの女』という誰かの科白が聞こえてきた時、葵は血の気が引く気分を味わった。

 後が怖いと思いながらもどうすることも出来ず、葵は顔を隠したままハルの腕の中で揺られていた。そのうちに強い羨望を含んだざわめきも聞こえなくなったので、葵は恐る恐る腕を退けてみる。やはりもう校舎の中にいて、葵を抱えたハルは緩いカーブが続いている廊下を歩いていた。葵が顔を晒しても話しかけてくるような雰囲気はなく、ハルの視線は真っ直ぐに前を向いている。目線を落としてくれることもなさそうだったので、葵はハルの顔を盗み見た。

(近くで見れば見るほど整った顔してるなぁ)

 ハルはなかなか無表情を崩そうとしないので、動きを止めたら精巧な人形のようである。女生徒に絶大な人気を誇っているマジスターの一人である彼は現実味の薄い存在だが、冷ややかな温もりは確かに人間的だった。太腿に触れている手に、今更ながらにドキドキしてしまった葵は赤くなった顔を見られないようそっぽを向く。

「ドア、開けて」

 ハルが口を開いたので葵は我に返って顔を戻した。ハルもちょうど葵を見ていたので視線が絡み合う。焦った葵は慌ててハルから目を外し、そのままプレートのかかっているドアを流し見た。プレートにはこの世界の文字で『保健室』と書かれている。この世界の文字は象形文字と英語の筆記体が組み合わさったような作りになっていて葵には馴染みがないが、それも編入前にアルヴァから受けた個別授業のおかげで覚えている単語ならば読めるようになっていた。まして校舎一階の北辺にあるこの場所は、一時期毎日のように通っていた所なのである。

 ハルに抱えられた格好のまま、葵はドアを開けようと手を伸ばした。取っ手を掴んでスライドさせると、保健室の扉は葵達の前に道を開く。葵はドアを開けてしまってから、この扉を開くには鍵が必要だったことを思い出したのだが、ハルは特に気にする様子もなく保健室の中へと歩を進めたのだった。






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