そして闘いの幕が開く

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 保健室の内部には簡易なベッドが幾つか並んでいて、それぞれがカーテンで仕切られている。中庭に面した窓際にはデスクが置いてあり、それ以外は薬棚があるだけのシンプルな構造である。保健室の中にアルヴァの姿はなく、代わりに白いウサギがデスクの上に陣取っていた。椅子ではなくデスクの上に座っているウサギはずんぐりむっくりな体型をしていて、短い後ろ足で体を支えながら立っている。今まで幾度となく通っている場所で初めて見る生物に遭遇した葵は呆気にとられていたが、ハルは何を言うでもなくウサギの前を素通りする。葵をベッドに腰かけさせてから改めて、ハルは奇妙なウサギを振り返ったのだった。

「じゃあ、後よろしく」

「かしこまりしまたぁ〜」

 窮屈そうに頭を下げたウサギは去って行くハルの背に向かって短い前足を振り回している。何が何だか分からない葵はとりあえず、ウサギが喋ったことに驚いていた。

「はーい、今日はどうされましたかぁ?」

 ハルの姿が消えるとすぐ、ウサギの金色の目が葵に向けられた。ウサギに話しかけられるなど人生で初の出来事であり、状況に対応しきれていない葵はビクッと体を震わせる。しかし葵の反応など意に介した風もなく、ウサギは一人で喋り続けた。

「まずはお名前とぉ、クラスを教えてくださいね〜」

 未知の生物に怯えた葵は小さな声でクラスと名前を告げた。葵の名前を言いにくそうに繰り返したウサギは、そこで何故か宙を仰ぐ。何かと交信でもしているかのようにウサギは時々頷いたりしていたが、幾度かそのような動作をした後、改めて葵を見やった。

「ミヤジマ=アオイさん」

「は、はい」

「大いなるエクスペリメンターからのお言葉を伝えます」

 ウサギは決して早口ではなかったが、発された単語が長すぎて葵には覚えきることが出来なかった。しかしウサギに問い返す勇気もなく、葵は黙ったまま次の言葉を待つ。初めから葵の様子など眼中にないウサギは滑らかに続きを口にした。

「一度この部屋を出て、鍵を使うように。以上、エクスペリメンターからのお言葉でした」

 大いなる人からの伝言を終えたウサギは窮屈そうにお辞儀をした後、先程ハルにしていたように短い前足を振り回した。その仕種はまるで『バイバイ』をしているようである。伝言からも出て行けと言われていることは分かっていたので、葵は言われた通りにした。

(カギ、って……)

 保健室を出て扉を閉めた葵はローブのポケットを探り、アルヴァからもらった鍵を取り出した。いつもそうしているように鍵穴に差し込み、鍵を回す。そして再びドアをスライドさせると、デスクに座っているアルヴァの姿が目に飛び込んできた。今度はウサギの姿がない。

「ようこそ、僕の部屋へ」

 アルヴァに迎えられながら室内へ侵入した葵は『保健室』に入った時に感じた違和感の正体を見つけた。『保健室』には窓があったが、この部屋には窓がないのである。しかしそれ以外はまったく同じ造りであり、混乱した葵は頭を抱えたくなった。

「ま、テキトーに座ってよ」

 煙草の煙を吐き出しながら、アルヴァは気怠そうに言う。葵はケープを脱ぎ捨ててベッドに座ったが、頬が痛むことを思い出してそのまま寝転がることにした。アルヴァに背を向けてベッドに潜り込んだ葵は頭まですっぽりと上掛けで覆う。脈絡のない葵の行動に呆れ顔をしたアルヴァは重い腰を上げながら口火を切った。

「ミヤジマ、僕はまだベッドの使用許可を与えてないんだけど」

「ここ、保健室でしょ。けが人には優しくしてよ」

「どれどれ」

 上掛けを引っぺがされたので、葵は力づくで奪い返して再び頭まで被る。だがアルヴァも強引に、再び上掛けを引きずり下ろした。

「見ないでよ!」

 葵は悲鳴を上げて体を丸めたが、アルヴァは顔を隠すことを許そうとしなかった。肩を掴まれて上体だけ仰向けにされたため、葵も観念して体勢を整える。ベッドの上で仰向けに転がっている葵を見下ろしたアルヴァは顎に手を当てながら口を開いた。

「これはまた、女の子の顔とは思えない有り様だね」

 殴られた頬が腫れているだろうということは葵自身にも分かっていた。だがアルヴァにそういう反応をされると改めて、苦々しい気持ちがこみ上げてくる。そんなことを言われてしまうくらい酷い顔を、ハルに見られてしまったのだ。

(恥ずかしい。何でこんなことに……)

 胸中で泣きたいと呟いて顔を歪めた葵の頬に、アルヴァが手を伸ばす。不意に触れられた葵は過剰なまでに体を震わせてしまってから、慌てて取り繕った。

「あ、あの、何でもない。何でもないから」

 真顔のままでいるアルヴァから逃げるように上体を起こした葵は捲くし立てながら顔を背けた。不自然極まりない葵の反応に小さく息を吐いたアルヴァは一呼吸置いてから言葉を紡ぐ。

「ミヤジマを運んできたの、ハル=ヒューイットだったね」

 アルヴァの一言で自分の立場を思い出した葵は、今度は別の意味で体を強張らせた。アルヴァは特に責めている風でもなく、淡々と言葉を次ぐ。

「その頬は誰にやられた? 正直に話してくれ」

 アルヴァに諭された葵は仕方なく、素直に事情を説明した。終始無言で聞いていたアルヴァは葵の話が終わると同時に嘆息する。

「今は雪で見えないかもしれないけど、裏門付近には魔法陣があるんだよ。マジスター専用のやつがね」

 アルヴァから明かされた内容に葵は納得して頷いた。マジスターが登下校をする特別な場所だから、裏門付近には常に人気がないのだ。だがそれを知った葵は不服に唇を尖らせた。

「だったら、前もって教えてくれればよかったのに」

 裏門がマジスターの出現ポイントだと知っていれば、道を変えて正門から登校するという手段だってあったはずなのだ。葵がそのことを口にするとアルヴァは小さく首を振った。

「迂回って、徒歩で?」

 トリニスタン魔法学園の敷地は、とにかく広い。加えて敷地内と外部は高い壁で区切られており、出入り口は校門しかないのである。正門まで回りこんで登校するとなると、下手をすれば今の倍以上は時間がかかるかもしれない。その場合の労力を考えると葵は苦笑いを浮かべるしかなかった。

「まあ、迂回は無理にしても教えておいた方が良かったのは確かだね。ごめん、忘れてたんだ」

「あ、そう……」

 あまりにもサッパリと言い切られてしまったので葵には呆れる以外なかった。だが元々、葵が足を投げ出して地面に座ってなどいなければ防げた事態である。この痛みも半分は自業自得なのかと思った葵は切ない気分になった。

「しかし、不慮の事故とはいえやっちゃったね」

 マジスターには近付くなと事前に重々念を押しておきながら、アルヴァの口調はひどく軽いものであった。校内に入った途端に広がったざわめきが蘇って、葵はゾッとする。だがしょせんは他人事なのか、葵が青ざめてもアルヴァの調子は変わらなかった。

「ミヤジマはハル=ヒューイットに執心だったから仕方ないね。ま、頑張ってよ」

 アルヴァに突き放されてしまっても葵には追いすがることが出来なかった。再三に亘る彼の忠告を聞き流し、ハルに会いに行っていた葵には助けを請う資格はないのである。そのことが解っているだけに、葵は孤独を感じた。

(でも、どうせいつかは帰るんだから)

 永遠にこの世界にいるわけではないのだから、この先にどんなことがあろうと少しのあいだ我慢をすればいいだけのことである。自分にそう言い聞かせてみたものの、やはり不安を拭いきることは出来ず、葵は鬱々とした気持ちのまま閉口したのだった。






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