初めて会ったのは、エントランスホールだった。マジスターが揃って登校するというので女生徒達が駆けつけていたのだが、ハルは彼女達が姿を消した頃合を見計らっていたかのように人気のなくなったホールに現れたのだ。明るい栗色の短髪に、ブラウンの瞳。背は高いが、端正な顔にはどことなく幼さが残っていた。しかし親しみやすいかと言えばそうでもなく、常に無表情の彼には独特の近寄り難さがある。だがその無表情が崩れた時、彼はあどけない顔で笑うのだ。その全てが好きだったと、塔の上階へと続く螺旋階段を上りきった葵は胸中で呟いた。
塔の上階には円形の穴が空いていて、そこから差し込む月明かりが室内を優しく照らしている。夜の幻想的な光に輪郭が浮かび上がる室内に、しかしハルの姿はない。この時間なら当然かと、葵は落胆することもなく壁際に寄った。手にしていたケープを下敷きにして、月光が当たる場所を避けて座り込む。ゆっくりと目を閉じると静謐の中にバイオリンの音色が聞こえるような気がした。
(好き、だったのかな)
元いた世界を感じられるバイオリンの音を聞きたくて、ハルが練習をしているこの場所へ密かに通った。顔を合わせなくても、会話をすることがなくても、彼のバイオリンが聞けるだけで良かったのだ。近付いては駄目だと分かっていながらも足を運んでしまったのは、アルヴァの言うように恋をしていたからなのかもしれない。
ハルに初めて会った時に感じたときめきは、手の届かない芸能人に恋するような感覚に近かった。だが実際に会うことの出来ない加藤大輝とは違い、彼は現実の男の子なのである。マジスターという特別な存在で高嶺の花であることには変わりないが、憧れで終わらせるには距離が近すぎた。
(別に、好きだったって認めるくらいいいよね。どうなるわけでもないんだし)
ハルにはすでに思い人がいる。そして葵は、この学園から逃げ出すのだ。ハルとはもう二度と、会うこともないだろう。
「……それでも、やっぱり最後くらいは会いたかったけどね」
抱えた膝に顔を埋めた葵は誰にともなく呟いた。しかしその独白に、反応が返ってきてしまったのである。
「また独り言?」
「うわあ!!」
誰もいないと安心しきっていた時に声をかけられたので、驚いた葵は変な動きをして壁に体をぶつけてしまった。そのまま壁に張り付いた葵は、いつの間にか目前に出現していた人物に釘付けになる。鼓動が激しく、息切れを起こしそうだった。
「は、ハル……何でいるの?」
「あんたこそ、こんな所で何してんの?」
即座に問い返されてしまった葵は言葉に詰まった。返答がないことを気にする風でもなく、ハルは葵の隣に腰を下ろす。彼があまりにも近くに座ったため、葵はギョッとした。
「いい月夜だったから、一曲弾いてから帰ろうと思って寄ったらあんたがいた」
「あ、そ、そうなんだ……」
肩が触れそうな距離にハルがいるため、葵は振り向くことも出来ずに応じた。短く切りそろえたばかりの髪が急に気になって、手櫛で整えてみる。その動作が目を引いたのか、ハルが再び口火を切った。
「髪、短くなってる」
「そ、そうなんだ。ちょうど夏になるから短くしてみようかと思って。変、かな?」
葵の問いかけに答える前に、ハルは室内に明かりを発生させた。葵とハルの間に発生した小さな明かりは彼らの姿をより鮮明に映し出す。そうして見るとハルがあまりにも近かったので葵は髪に手を置いたまま硬直してしまった。
「変じゃないよ。よく似合ってる」
葵の顔をまじまじと眺めた後、ハルは先程の問いかけに対する返答を口にした。あどけない微笑みと飾らない言葉のせいで頭がクラクラした葵は反射的に顔を背ける。動悸のせいで息苦しく、汗が噴き出しそうだった。
「あんたの髪、こんなに黒かったっけ?」
ハルが何気なく疑問を零したことで頭に血が上っていた葵は一瞬にして我に返った。
この世界へ連れて来られた当初、葵の髪はナチュラルなブラウンだった。だが二ヶ月も経過すればカラーリングも落ちてきて、根元の方から黒くなってきていたのだ。そしてそれは、髪を短くしたことでより顕著になったのだった。
この世界にも美容室というものはあるのだが、カラーリングをするという習慣はない。アルヴァと同じ話をした時、彼はたいそう興味深げにしていたものだ。アルヴァの反応を考えるとハルに正直なところを話してしまうのは非常にまずい。だがうまい口実も思いつかなかったので葵は素直に頷いた。
「もともと黒かったよ。太陽に当たると茶色く見えたんじゃないかな?」
そう言ってしまってから、葵は現在の状況が変わっていることに気がついてハッとした。先程までは月明かりだけだったが今は、室内に光が照っている。太陽の光で色味が変わるのであれば今も茶色く見えていなければおかしいのだ。
(まずった……)
葵は突っ込まれるのではないかとハラハラしていたが、ハルは疑った様子もなく頷く。彼が簡単に納得してくれたので葵はいささか拍子抜けした。突っ込まれたくないという空気を察して見ない振りをしてくれたのか、それとも突っ込むほど興味がなかったのかは、分からない。だが今夜のハルはいつになく饒舌であり、不思議に思った葵は首を傾げた。
「何か、いいことでもあった?」
「何で?」
「機嫌、良さそうだから」
「あんたと話してると楽しい」
サラッと投げかけられた言葉に、葵の心臓は再びパンク寸前の状態に陥った。そうした科白が口を突いて出ることが、そもそもおかしいのだ。だが他意はまったくないようでハルは平素のままである。葵は動揺を隠すためにグラウンドで行われた『儀式』の話を持ち出した。
「ああ、見てたんだ?」
「顔までは見えなかったけど、ハル達が制服着てるの初めて見たよ。でも、もう着替えてるんだね」
塔に現れた時からハルはいつもの私服姿である。ローブ姿も見てみたかった葵としては少し残念だったが、服装以上にハルと話ができたことが嬉しかった。
(こんな時間が過ごせるなんて……)
この安らかな一時がずっと続けばいいのにと、葵は密かに願った。だがハルがマジスターである以上、彼と仲良くすることは危険と隣り合わせなのだ。それでも、最後の最後で話が出来たことが葵の決心を鈍らせていく。
(ハルには好きな人がいるんだから。どうしようもない)
自分に言い聞かせるように呟いて、葵は腰を上げた。ハルが壁に背を預けたまま見上げてくるので葵は微笑みを返す。
「私、もう行くね。最後にハルと話せて嬉しかった」
「最後?」
「うん。学校、やめるの」
「えっ、何で?」
「何でって言われても……」
マジスターのせいだとも言えず、葵は苦笑いをした。ハル自身はそのことに気付いていなかったようで驚いた表情をしている。おそらくウィルやオリヴァーにも、自身と関わった女の子がイジメられるという自覚などないのだろう。そうして密やかに、マジスターと関わった女生徒は消されていくのだ。葵は改めてトリニスタン魔法学園にはびこる悪しき風習に嫌気がさした。
「辞めるんだ。寂しくなるな」
「……あのねぇ、」
呆れと照れが混じった複雑な心境で葵はため息をついた。彼の身にどんな良いことがあったのかは分からないが今更饒舌になられても困惑するだけである。
「ほんとに、そう思ってるの?」
「思ってるけど? あんたみたいに変な女、他にいないし」
そういう意味で言ったのかと、葵は脱力した。
(他に、どんな意味があるっていうのよ)
どこかで引き止められることを期待していたのだと知って、葵は自分を嘲笑う。明かりに照らし出された室内では葵の表情までもがはっきりと映し出されてしまっていた。葵の嘲笑をどう受け止めたのかは分からないが、ハルは思い立った様子で口を開く。
「あんたが聞きたがってた、あの曲」
「えっ?」
「あの曲は三つの声部が同じ旋律を追唱するんだ。十日のパーティーで演奏する予定だったんだけど、その頃にはもういないんだろう?」
「……う、ん……」
「俺のパートだけで良ければ、今弾くよ」
餞別のつもりなのか、ハルは立ち上がってバイオリンを取り出した。これ以上惨めな思いをする前に立ち去ろうと思っていた葵も、これには足を止めてしまう。そうして、月明かりとハルが作り出した小さな明かりの混じる独特な空間で、カノンの演奏は始まった。
(……ずるいよ。何でそんなにカッコイイの)
愛器に魂を吹き込む演奏が、音楽に注ぐひたむきな愛情が、バイオリンを奏でているハルの姿が、特別に思えた。十七年間の人生で出会った誰よりも――加藤大輝よりも――彼が輝いて見える。パーティーで演奏されるという完成されたカノンを聴きたいと思ってしまった葵は重症だと独白し、静かに目を閉じてハルの演奏に身を委ねたのだった。
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