丘の上に建つトリニスタン魔法学園には今日も夏の日差しが燦々と降り注いでいた。冬月期には雪ばかりで殺風景だった学園の敷地内にも緑が増え、あちこちで陽光を浴びてきらめいている。そんな夏の午後、登校はしたものの授業を受ける気にならなかった葵は校舎から離れた木陰で足を投げ出していた。日本にいれば蝉の声が煩いほどの季節だが、この世界には蝉がいないのか鳴き声などは聞こえてこない。そのような静寂の中で葵が何をしているのかと言えば、彼女はただぼんやりと腕を眺めていた。彼女の左手首にはシルバーを基調とするブレスレットがはめられている。
(意味なんか、ないんだろうけど……)
ブレスレットをくれた人物を思い浮かべ、葵は一人で赤面した。意味などなくともアクセサリーをプレゼントされれば嬉しいものである。それが好意を抱いている人物からもらった物ならば、尚のことだ。
(でも、期待なんかしない)
ハルがステラを想っていることは周知の事実である。葵自身、間近で二人を見ていて改めてそう感じていた。だからハルが何をしようと妙な期待は抱かない方がいい。そう思いながらも葵の胸は未だに高鳴っていた。
(期待はしないけど、意識しないのはむずかしいなぁ)
普段は何事に関しても無関心な態度でいるくせに、ハルは不意に葵の心を鷲掴みにするような言動をする。彼にとってみればそれもまた無意識の産物であり、抱いた膝に額を寄せた葵はそこが狡いと小声で呟いた。
「ミヤジマ」
それまで誰もいなかったはずなのに間近で声がしたので葵は慌てて顔を上げた。アルヴァの姿を認めた葵はとっさに腕を背に回す。腕を隠したことが不自然にならないよう、葵は後ろに突いた両腕に体重を乗せて横柄な格好でアルヴァを見上げた。
「何、どうしたの?」
「具合でも悪いのですか?」
「へ?」
アルヴァの科白は予想外のものであり、葵はぽかんと口を開けた。アルヴァは無表情のまま葵の正面にしゃがみこみ、そのまま葵の顔を凝視する。葵は反射的に身を引こうとしたのだが、すぐに背が幹にぶつかってしまった。
「あ、あの……アル?」
アルヴァがあまりに凝視してくるので居心地の悪い思いをしている葵は上擦った声を上げた。アルヴァは葵の額に軽く手を当てた後、何事もなかったように立ち上がる。葵は呆けたまま、ひんやりとしたアルヴァの手の感触が残る額に自分の手を置いた。
「顔色も悪くはないですし、熱もなさそうですね。具合が悪いのではないのなら、さぼりですか?」
アルヴァの冷ややかな声を聞いた葵は今が授業中であることを思い出し、口元を引きつらせた。葵は小言を言われると身構えたのだが、アルヴァはなかなか言葉を次がない。不審に思った葵が伏せていた目を上げると、アルヴァはじっと葵を見ていた。しかしその表情に非難の色はない。
「話があります。付き合ってくれますね?」
アルヴァにそう言われてしまえば葵の返事は一つしかない。葵が頷いて立ち上がるとすぐ、アルヴァは彼女の手を取った。
「アン・ルヴィヤン」
アルヴァが口にしたのは帰還を意味する
「まったく、あんな所で膝を抱えていたら病人にしか見えない。紛らわしい真似をしないでくれ」
部屋へ戻るなり着衣を乱したアルヴァはさっそく、素の口調で不満を口にした。その態度や口調はいつものアルヴァなのだが、今日の彼は何かが違う。そう感じた葵は簡易ベッドに腰を下ろしながら首を傾げた。
「さぼってたこと、怒らないんだね」
「怒って欲しいのか?」
「……いや、いいです」
葵が苦笑いを浮かべるとアルヴァはため息を零しながら椅子に腰を落ち着けた。脚を組んで煙草を口にしている彼の呼気が、今日は何やら重苦しい。やっぱり変だと思った葵は眉根を寄せたのだが、アルヴァは気にせずに本題を口にした。
「ミヤジマ、パーティーに着ていくドレスはどんなものがいい?」
「ああ、ドレスなら……」
もう買ったと葵が答えるとアルヴァは意外そうな顔をした。アルヴァの反応が不可解だったので葵は再び眉根を寄せる。
「なに、その反応?」
「学園に来ることさえ嫌がっているからパーティーなんて行かないと言い出すかと思っていた。そのミヤジマがもうドレスを用意していたとは、意外だ」
「……生徒は強制参加なんでしょ?」
「マジスターに聞いたのか。嫌そうな表情をしているが、行く気はあるようだな」
そこで言葉を切り、アルヴァはため息をつきながら片手で髪をかき乱した。彼が服装を乱すのはいつものことだが、不機嫌そうに髪を乱すのはこれが初めてである。アルヴァの様子がいつもと違うことを不安に思った葵は、その理由をストレートに尋ねてみることにした。
「アル、何かあったの?」
「別に、何も。パーティーの途中で少し抜けてもらうことになるだろうから、そのことだけは心得ていてくれ」
「抜けるって……何で?」
「それは当日になれば解る」
そう言ったきり口を噤んでしまったアルヴァは明らかに何かを嫌がっている。葵はパーティーに出席することかとも思ったのだが、どうもそれだけではないような雰囲気である。自分にも関わりがあることだけに、葵は嫌な予感を覚えた。
「何を考えているのか知らないが、ミヤジマがそんな顔をする必要はない。安心しなよ」
葵が考えに沈んでいると、その思考を読み取ったアルヴァがあっさりとそう言ってのけた。何もかもがあやふやな状態では安心も何もないと葵は思ったが、言葉にはせずに唇を尖らせる。あまり長引かせたくない話題なのか葵の不満顔を見たアルヴァはさっさと話を終わらせた。
「ステラ=カーティスあたりと約束しているんだろう? 頃合を見計らって迎えに行くから、それまではパーティーを楽しんでいるといい」
気怠く煙草の煙を吐き出したアルヴァは腕を持ち上げ、指輪を嵌めている利き手を葵に向けた。そして彼はそのまま、呪文を紡ぎ出す。
「アン・コンプルシィオン・メタスタス、ポルトゥ・アリエール・ドゥ・エコ」
葵にはアルヴァが何を言ったのかまったく解らなかったが、彼が口にした呪文を直訳すると『学園の裏門へ強制転移』である。アルヴァに魔法をかけられた葵は瞬きをする間に場所を移動しており、裏門に描かれている魔法陣の上に出現した。落下の衝撃などはなかったものの、足下がいやに柔らかい。だが呆けている葵がそのことに気付く前に、彼女の足下から怒声が上がった。
「何しやがる!!」
男の怒鳴り声を聞いたのと同時にバランスを崩した葵は勢いよく地面に倒れこんだ。だが痛みとショックで茫然自失となった葵の胸倉を掴み上げる者がおり、知った顔が視界に入ったので葵は反射的に顔を歪める。相手も葵の顔を見て、狐につままれたような顔をした。
「……手、放してよ」
嫌な奴に会ってしまったと思いながら、葵は目前にいる黒髪の少年に声をかけた。しかしその態度が気に食わなかったらしく、キリル=エクランドは葵の胸倉を掴んでいる手に力をこめる。
「このオレを足蹴にしといて、ただで済むと思ってんのか?」
キリルの漆黒の瞳は怒りにギラついていた。その輝きがあまりに凶暴だったので、彼に殴られた時の痛みを思い出した葵はゾッとして硬直する。葵が無反応でいることが怒りを助長させてしまったらしく、キリルはもう言葉を次ぐことをしなかった。責める言葉の代わりに飛んできたのは手加減のない痛みであり、葵は反射的に叩かれた頬を押さえる。持ち上げられていた力から解放されて地面にへたりこんだ葵にキリルは端正な顔を寄せた。
「ステラに目をかけてもらってるみたいだけどな、あんまり調子に乗るんじゃねーぞ。お前みたいなのがウロウロしてると目障りなんだよ」
脅すような口ぶりで吐き捨てたかと思ったら、キリルはさっさと立ち上がって姿を消した。取り残された葵はしばらくその場を動くことが出来なかったが、次第に増していく痛みが感情を呼び戻したので立ち上がって砂を払う。
(何であんなこと言われなきゃいけないの? 私が何したっていうのよ)
怒りとショックと痛みがないまぜになった感情が涙腺を破壊してしまい、葵は悔し涙を拭いながら家路を辿ったのだった。
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