貴賓用と思われる部屋を後にした葵とユアンはひたすら回廊を進み、やがてドームの西側に造られたバルコニーへと達した。それは回廊の途中に設けられていたもので、バルコニーの先は再び回廊になっている。それまで室内にいたので夜風が新鮮なほど気持ち良く、葵はユアンを誘って欄干に寄った。シエル・ガーデン内では華やかな宴が続いているが回廊は切り取られた別空間のように静まっており、談笑の声も聞こえてこない。しかしドームの外に人影があり、その人物達の話し声は夜風に乗ってバルコニーへと上ってきた。虫の声も聞こえてこない夏の夜、その言葉を聞いてしまったのは何の因果だったのだろう。
「好きだ」
黄色い二月に照らされて、夜に佇む少年が静かに想いを口にした。栗色の短髪を礼服に合わせて整えている少年は、そのブラウンの瞳でドレス姿の少女を見据えている。少年はトリニスタン魔法学園アステルダム分校に通う者なら誰もが知る、マジスターのハル=ヒューイットである。そして彼が想いを告げた相手は、同じくマジスターであるステラ=カーティスだった。
シックな黒いドレスを纏っているステラは月下で柔らかな笑みを浮かべた。夜に舞い降りた天使のような微笑みはハルだけに向けられたものであり、二人の間には穏やかな空気が流れている。ステラは心を乱された様子もなく、それが自然であるかのようにハルの想いを受け入れた。
「ありがとう。ハルがそんなこと言ってくれるなんて、嬉しいわ」
ハルの想いに気がついていたのか、それとも自負があったのか、ステラはあまりにも平然としている。彼女の微笑みはポーカーフェイスの一種であり、ハルは納得がいかない様子で言葉を次いだ。
「仲間だから好きだって言ってるわけじゃない。俺はずっと、ステラのことを一人の女として見てた」
「そう」
ハルが何を言ってもステラの冷静さが崩れることはなく、彼女が微笑みの下にどんな感情を秘めているのかは窺い様がない。だがステラには拒むような雰囲気もなかった。言葉に詰まって俯いてしまったハルの頬に、ステラがそっと手を伸ばす。
「ねえ、ハルは私のどんなところを好きになってくれたの?」
ステラの細い指が癖のないハルの髪に達し、優しく梳く。身動ぎもせずステラを見つめていたハルは、やがてぽつりぽつりと本音を口にした。ステラの魅力はその美しさよりも、分け隔てのない誠実さと前向きな姿勢にある。ハルはそんなステラの生き方に憧れているのだと、小さな声で呟いた。それを聞いたステラはポーカーフェイスを崩し、ヘーゼル色の瞳に感情の火を灯した微笑みを浮かべる。
「ハルは私を、認めてくれるのね」
「……好きだ」
ステラの後頭部に手を回したハルが、そのまま彼女を引き寄せる。長いこと見つめ合っていた彼らは黄色い二月に見守られながら、自然と口づけを交わしたのだった。
「……ハル、もう演奏が始まるわ」
口唇を離した後、ステラは甘いキスの余韻に浸る雰囲気もなくハルの腕から抜け出した。彼女がシエル・ガーデンの方へと歩き出したので、しばらくその場に佇んでいたハルもやがて立ち去っていく。夜は再び静寂を取り戻し、岩黄色の二月の下には葵とユアンだけが残されていた。
「あの子がステラ=カーティスかぁ。ウワサ通りの美人だね。恋人がいなければ口説きたかったところだけど、残念」
ませた口ぶりでそんなことを言ってのけたユアンは、半ば本気のようだった。だがステラもハルもすでに姿を消しているので、ユアンはすぐに調子を改めて葵を振り返る。
「ねえ、アオイは……」
何かを言いかけたユアンは不意に言葉を途切れさせた。葵の顔を見るなりギョッとした表情になった彼は子供らしく、狼狽を露わにしている。ユアンは慌てた様子で一点を見据えたまま動かない葵の腕を引いた。
「アオイ、どうしたの?」
「……えっ?」
「何で泣いてるの? どこか痛いの?」
「泣いてる……?」
瞬きをした刹那、大粒の涙が零れ落ちて頬を濡らした。葵は自分が泣いていることが信じられない思いで呆然と立ち尽くす。だが次第に息苦しさがこみ上げてきて、その場にしゃがみこんだ。
(痛い……)
ハルが、ステラを好きだと言った。彼の想いなど解りきっていたことなのに、そのたった一言の重みが胸を軋ませている。うまく息が出来ないのも涙が出るのも、胸が痛いせいだ。今までにも決して届くことのない想いを抱いたことは、ある。だが恋をしたのは、これが初めてだったのかもしれない。誰かを好きになることがこんなに苦しいなんて、今まで知らなかったのだから。
(ハル……)
ブレスレットをもらった時の弾んだ気持ちが、動けない時に抱き上げて保健室まで連れて行ってくれた優しさが、バイオリンの音色に癒されたことが、あどけない笑顔に感じたときめきが、胸に突き刺さる。ブレスレットをつけている左腕を胸に抱き、葵は声を押し殺して泣いた。
「アオイ……」
突然の出来事に困惑しきったユアンの呟きが耳を突き、それでようやく冷静さを取り戻した葵は涙を拭って顔を上げた。しかしユアンの顔を見ることは出来ず、葵は目を逸らしながら口元を歪める。
「何でもない。気にしないで」
笑ったつもりでも葵の頬は引きつっていた。そのことが自分でも解ったので、葵は取り繕うことを諦めて表情を消す。沈黙の中にふと音楽が流れてきたので、葵は庭園の方へ顔を傾けた。
(この曲は……)
痛みを覚えた心に沁みてくる、バイオリンの音色。誘われるように歩を進めた葵はガラス張りの回廊から演奏者達の姿を目にした。庭園の中央に特設された舞台で、見知った者達がそれぞれに楽器を手にしている。バイオリンを弾いているのはハルとステラとオリヴァーの三人で、ウィルはピアノの前に座っていた。マジスターの生みだす旋律は夏の夜空に吸い込まれるように切なく、甘く、響き渡る。
今夜はっきりと自覚してしまった恋が思い出に変わるまで、どれだけの時間がかかるだろう。自分の思いであっても、それは計り知れない。だが今だけは、何もかも忘れてカノンの旋律に酔いしれていたい。そう思った葵はガラスに額を預け、虚ろな瞳で華やかな宴を見下ろしていた。
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