さよなら

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 岩黄いわぎの月の二十三日、薄雲すらかかっていない澄んだ夜空には金色の二月が浮かんでいた。丘の上に建つトリニスタン魔法学園アステルダム分校は煌々と輝く月に染め上げられて美しく色彩を変えている。夜の学園は人気がなく、校舎はひっそりと静まり返っていたが、敷地内の北端にある裏門には金色の月光に照らされている四つの人影があった。

 月下に佇んでいる四人の元へ、やがて敷地の外から駆け込んで来た一つの影が加わった。長い丘陵を走って登ってきたために、校門に手を突いて息を切らせているのは葵である。その姿を認めて第一声を上げたのは、オリヴァーだった。

「来た来た。遅いって、アオイ」

「ご、ごめん……」

 何とか呼吸を整えてからオリヴァーに返事をした葵は顔を上げると、改めて周囲を見回した。オリヴァーの他にこの場にいるのは、彼と同じくマジスターであるウィル、キリル、そしてステラである。学園の制服である白いローブを纏っているのはステラだけであり、その他の者は私服姿だった。いつも通りの光景に物足りなさを感じた葵はハッとして、もう一度周囲を見回す。

「ハルは?」

「それが、来てないんだよ」

 葵は参加しなかったのだが昼間、学園主催でステラの送別会が行われた。しかしその席にも、ハルは姿を現さなかったのだという。オリヴァーからそうした話を聞いた葵は少しだけ顔を歪めた。

「何でこいつがここにいるんだよ」

 唐突に不機嫌そうな声を発したのはキリルだった。反射的に顔を傾けた葵はキリルの強すぎる視線に出会い、逃げるようにオリヴァーの影へ移動する。その動作が気に障ったようでキリルはムッとした顔をしたが、彼が何かを言い出す前にウィルが口を挟んだ。

「キルもハルも、いつまでも子供みたいなこと言ってないでくれる?」

「なんだと、ウィル!!」

「本当のことを指摘されて怒るのはキルが子供だからだよ」

「もういっぺん言ってみろ!!」

「あーあ。こんな時にやめろよ、二人とも」

 キリルとウィルが言い合いを始めてしまったので、オリヴァーが仕方なさそうに介入していく。葵はぽかんとしたまま事の成り行きを見守っていたが、やがてステラが吹き出したことにより騒ぎは簡単におさまった。

「相変わらずね。皆の笑い合う姿が見られなくなるかと思うと、やっぱり少し寂しいわ」

 ステラが放った一言により、その場には別れを惜しむ空気が漂った。つい先程まで目くじらを立てていたキリルも、寂しそうな表情をステラに向ける。

「やっぱり、行くのか?」

「うん。元気でね、キル」

 ステラからキリルの頬に軽く口づけた後、彼らは別れの抱擁を交わした。ステラはその後、オリヴァーやウィルとも同様に別れを交わす。最後にステラから目を向けられた葵は、ぐっと唇を噛んだ。

「体は大丈夫?」

 一気に気候が変わったせいなのか体調を崩した葵は、つい先日まで寝込んでいた。そのせいで昼間の送別会にも参加出来なかったのだ。最後の最後にステラに気を遣わせてしまったことに、葵は乾いた笑みを浮かべた。

「もう平気。ごめんね、送別会に行けなくて」

「ううん。こうして見送りに来てくれたんだもの。十分だわ」

 ステラはそう言った後、葵の頬にも親愛を示すキスを落とした。軽く腕を回してきた彼女の存在をいつまでも覚えておきたくて、葵の方からしっかりとステラの体を抱き返す。だが長引かせることはせず、彼女達はお互いにすぐ手を離した。

 葵から離れた後、ステラはすでに地に描かれている魔法陣の中心へと向かった。それは出立を意味していて、オリヴァーが焦ったように声を上げる。

「ハルを待たないのか?」

「……うん。元気でねって、ハルにも伝えておいて」

 魔法陣の中心で振り返ったステラは笑みを浮かべていたが、その笑顔を見た葵は胸が張り裂けそうになった。

(ステラ……)

 ハルはステラが一緒に来て欲しいと言ってくれるのを待っていたが、ステラもまたハルがそう言ってくれるのを待っていたのだ。彼女の悲しそうな笑みを見た時、葵はそう確信した。想いは同じなはずなのに、彼らはすれ違ったまま別れていく。だが解ってしまったところで、それは葵にはどうにも出来ないことだった。

「行ってきます」

 魔法陣の中心で魔法書を開いたステラはそう告げて、呪文の詠唱を開始した。地に描かれた魔法陣が彼女の呪文スペルに反応して、少しずつ眠りから目覚め出す。さほど長くもない呪文が終わると、ステラの姿は光と共に消え去った。

「行っちまったな」

「世界の理を知りたいなんてステラらしいよね」

 ステラが去ってしばらくの後、しんみりした空気を拭うようにオリヴァーとウィルが会話を始めた。すでに発光も治まっている魔法陣をいつまでも眺めていた葵は小さく息をつき、目を逸らす。何となく視線を向けた先でまたしてもキリルと目が合ってしまったので、葵は慌てて口火を切った。

「じゃ、私帰るから」

「俺達も帰ろうぜ」

「ハル、けっきょく来なかったね」

 葵の一言を皮切りにその場には解散の雰囲気が漂ったのだが、異変は唐突に訪れた。葵を除く三人が一斉に顔を傾けたので、何事かと思った葵も魔法陣の方へ目を向ける。その一瞬後、先程ステラが使用した魔法陣の中心にハル=ヒューイットが出現した。

「ステラ、もう行っちゃった?」

 遅ればせながら登場したハルは、特に心を乱した様子もなく淡々と言葉を紡ぐ。しかし平静なハルとは対照的に、先程からこの場にいた者達は一様に言葉を失っていた。誰からも反応がなかったためか、ハルが微かに眉根を寄せる。

「何?」

「ハル、何で制服着てるの?」

「ああ……」

 ウィルの言葉を受けて改めて自分の出で立ちを眺めているハルは、平素とは違って白いローブを纏っている。彼は顔を上げた後、淡白に真意を明かした。

「俺、王都に行くよ」

 マジスター達から驚きの声が上がる中、葵は呆然とハルの決意を聞いていた。ハルが王都へ行くということが何を意味しているのかマジスター達も承知しているようで、オリヴァーやウィルが冷やかし混じりの発言をしている。しかしキリルだけは、むっつりと口をつぐんだままいつまで経ってもハルの決断を受け入れようとしなかった。それを見たオリヴァーとウィルは示し合わせたように肩を竦め、ハルは顔を背けたままのキリルへ向かう。

「ごめん、キル」

「勝手にしろ!」

 自分の思い通りにならなくて拗ねている子供のように、キリルはすげなく言うと体ごとそっぽを向いた。しかしそれで解決のようで、ハルは苦笑いを浮かべただけだった。仲睦まじいマジスターから疎外されて立ち尽くしていた葵は、ハルが近付いて来たので我に返って身を引く。本音を言えばそのまま逃げ出したかったものの、葵は何とかその場に踏みとどまった。

「ありがと」

 短く告げて月下で微笑んだハルの姿は、初めて彼にときめきを覚えた時よりも際立っていた。胸の中で様々な感情が揺れた葵は拳を握りながら俯く。何か言わなければと思えば思うほど、言葉は形にならなかった。

(でも、笑って見送らなきゃ)

 彼らの明るい未来を思えば決して、辛い別れではないはずなのだから。自分にそう言い聞かせた葵は無理矢理に笑みを作って顔を上げた。

「元気でね」

 笑ったままそう言い切った時、葵は自分で自分を褒めてやりたくなった。しかし作り笑顔も虚しく、葵の顔を見たハルは眉根を寄せる。

「もしかして具合悪い?」

「えっ? 何で?」

「妙な顔してるから」

「妙な、って……。昨日まで風邪で寝込んでたから、きっとそのせいだよ」

「そうか」

 何故か少し顔を歪めたハルは、唐突に腕を伸ばして葵の頬に触れた。ハルの行動は予期せぬものであり、葵は凍りつく。その直後、口唇に初めての感触が伝ったので葵は目を見開いた。

「!!!!?」

「風邪、もらってく。今度からちゃんとベッドで寝なよ」

 あ然としている葵の耳元で囁いたハルは彼女の頭を軽く撫で、何事もなかったかのように魔法陣へと向かった。葵と同じく呆然としたまま口を開けないでいるマジスター達にも淡白に別れを告げ、ハルは呪文を唱え出す。夜空に光を放った魔法陣はハルの姿を消し去り、トリニスタン魔法学園アステルダム分校には再び夜の静寂が訪れた。

 ステラの時と同じようにしばらく無人の魔法陣を見つめていた葵は、頬に伝った暖かさで我に返った。知らずのうちに流れ出ていた涙が頬を濡らし、視界を歪めていく。加えて突然のキスの衝撃が理性というものを奪ってしまい、葵は声を上げて泣いた。

(何で、何で、あんなことするのよ)

 それも、よりにもよって、最後の別れの前に。嬉しさと悔しさと悲しみが次々に涙を溢れさせて、葵は静かな夜に「ハルのバカ」という声を響かせながら帰路を疾走したのだった。






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