響かない想い

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 夏月かげつ期中盤の月である橙黄とうこうの月の二十六日、その日も夏の夜は穏やかに明けた。葵が寝室として使用している部屋の窓辺ではクレアが朝日に照らされながらアーリーモーニングティーの用意をしている。窓から吹き込む風に乗って流れてきたハーブの香りで目を覚ました葵は、重い頭を手で押さえながらキングサイズのベッドを抜け出した。

「……おはよう」

「おはようございます、お嬢様」

 ベッドの端に腰かけたところでクレアがティーカップを差し出してきたので、葵はソーサーごと受け取ったカップをゆっくりとした動作で口に運んだ。それを見たクレアは葵に向かって一礼し、朝食の用意が整っていることを告げると部屋を後にする。トリニスタン魔法学園へ行く気はなかったものの習慣で高等学校の制服に着替えた葵は寝室として使用している部屋を出て、一階の隅にある食堂へと向かった。

 食堂ではすでに朝食の用意が整っていて、クレアが引いてくれたイスに腰かけた葵は焼きたてのパンにさっそく手を伸ばした。寝起きなので休み休みに食事を取りながら、葵はその間に直立不動でテーブルの脇に佇んでいるクレアに話しかける。

「ユアンと連絡ついた?」

 夜空に二月が浮かぶこの世界には電話というものが存在しないのだが、クレアはどういうわけか、彼女の本当の主であるユアンと連絡を取ることが出来る。葵はすでにそのことを知っていたので、クレアにユアンと連絡を取ってくれるよう頼んだのである。しかし未だに連絡はついていないようで、無表情を少しだけ動かしたクレアは小さく首を振った。

「ユアン様はご多忙の身ですので、すぐにというわけには参りません」

 前回はたまたま早くに連絡がついたのだと、クレアは説明を付け足した。早くにと言いながら半日以上待たされた葵は眉をひそめ、それから深々と嘆息する。

(聞きたいことがあるのに)

 アルヴァの言っていたことが本当かどうかを確かめるためにはユアンかレイチェルに尋ねる他ない。だが葵は彼らの居場所はおろか、連絡を取る術さえ知らないのだ。間接的ではあるが彼らとの接点はアルヴァを除けばクレアだけであり、葵は藁にも縋る思いでクレアからの報告を待っていたのだった。

 もし、アルヴァの言っていたことが本当ならば葵は一生を異世界で過ごさなければならないことになる。そうなければ家族や友人とも二度と会えなくなるし、勝手の違うこの世界でどうやって生きていくのかも考えなければならない。生まれ育った世界にいた時ですらまだ考えていなかった将来を強制的に考えさせられることが、葵にはひどく苦痛に思えて仕方なかった。

(帰れないなんて考えたくない)

 こうしている間にも生まれ育った世界では家族や友人が自分の身を案じてくれているのだ。何としてでも帰らなければと強く思った葵は、一度世界を隔てて電話が通じた時のことを思い返して自分を励ました。

(そうだよ、異世界にいても弥也ややと話が出来たんだから)

 世界を隔てていてもどこかが繋がっているのならば必ず帰れる方法はあるはずだ。そこまで考えたところで壊れた携帯電話のことを思い出した葵はハッとして食事の手を止めた。

(そうだ、ザックの所に行かなきゃ)

 携帯電話のこともあるが、苦しい時に助けてくれたザックにはちゃんと感謝の意を伝えなければならない。そう思った葵はスープをすくっていたスプーンを置き、食後の紅茶を淹れ始めたクレアの方に顔を傾けた。

「悪いんだけど、パンテノン市街まで送ってくれる?」

 葵の申し出に対し、クレアは何を尋ねることもなく了承を伝えた。目前に置かれた食後の紅茶を二口ほど含んだところでティーカップをソーサーに戻した葵は早々と席を立つ。そして屋敷の正面玄関の傍に描かれている魔法陣からパンテノン市街へと、クレアの魔法で転移させてもらったのだった。

 パンテノン市街に出現するとすぐ、葵はザックの工房があるフィフスストリートを目指した。しかし気は急いていても足取りは鈍く、葵は気持ちの整理をつけながら歩を進めている。考えているのはもちろん、あの夜の出来事だった。

(あれって告白、だったのかな……)

 直接的に好きだと告げられたわけではない。だがザックが言っていた内容はそれとほぼ同意と思っていいだろう。あの時は気が動転していてまともな反応を返すことすら出来なかったが、今度はそうも言っていられない。傷つけてしまった分、ザックには誠意のある対応をしたいと思っている自分に気がついた葵は苦い思いで口元を歪めた。

(やっぱり私、ザックのこと好きなんだ)

 それは、生まれ育った世界へ帰りたいと願う気持ちとは相反する感情である。それでも、一度走り出してしまった気持ちを止めることは難しいだろう。そのことを初恋の経験から学んでいる葵は半ば自棄気味に迷いを振り切った。

(もう、どうでもいい)

 考えることに疲れてしまった葵は歩を早め、フィフスストリートに辿り着くとすぐザックの家の扉を叩いた。軽いノックと同時に扉を開けるのはいつものことなので、葵は内部の様子を窺いつつ室内に声をかける。すると扉を開いてすぐの店舗になっている部屋の中にはザックとリズの姿があった。

「この間はありがとね。お礼言うのが遅くなってごめん」

 後ろ手に扉を閉ざした葵はザックに声をかけながら室内に進入した。しかしザックからもリズからも、反応が返ってこない。いつもなら往訪を歓迎してくれる兄妹が無言でいることに違和感を覚えた葵は続けかけていた言葉を止め、口を閉ざす。その直後、不意に席を立ったリズが思いきり葵の頬を張った。

「あんたってサイテー!! よくもぬけぬけと顔出せたわね!」

 興奮した様子のリズが声を荒らげたが、何が起きたのか理解出来なかった葵は呆然と叩かれた頬に手を当てた。妹と向かい合う形で腰を下ろしていたザックも席を立ったが、リズは構わずに罵倒を続ける。

「エクランド様って人がいながらお兄ちゃんをたぶらかして! 何様のつもりよ!!」

「リズ、やめろ」

「今すぐ出てってよ! あんたの顔なんて二度と見たくない!!」

「リズ!」

 ザックが声を荒らげると葵を睨みつけたまま叫んでいたリズがビクリと体を震わせた。一瞬にして興奮を消し去ったリズは泣き顔を兄へと向ける。激情を露わにしたリズとは対照的に、ザックは冷静な様子で奥へと通じる扉を妹に指し示した。

「奥へ行ってろ」

 ザックに命じられたリズは不服そうな表情をしたが、口を開くことはせずに兄の言葉に従う。去り際に再びリズから鋭い視線を向けられた葵は奥へと続く扉が閉ざされてもまだ呆然としていた。しかし呆けている葵を現実に戻すかのように、リズが姿を消すとすぐザックが口火を切る。

「昨日、エクランド様がうちに来て、アオイは自分のものだから手を引けと仰られたんだ」

 ザックは困惑している葵のために説明を加えてくれたようなのだが、リズが興奮している理由を聞かされてもまだ葵には何が何だか分からなかった。

「エクランドって……キリル=エクランド?」

「ああ、キリル様とお呼びした方がアオイには分かり易かったんだね」

 独白を零したザックの声音は淡白で、つい先日、胸の内を明かしてくれた彼とは別人のように思えた。違和感が不安に変わっていった葵は困惑を拭えないままザックに問いかける。

「何であいつがザックの所に?」

「だから、アオイが自分のものだって僕に伝えるために来られたんだよ」

「違う! 私は……」

「リズは、アオイが僕を弄んだんだと思ってる。でも僕は、そうは思ってない」

 弁明をしなくてもザックが理解を示してくれたので、必死で言葉を紡ぎかけていた葵はホッと胸を撫で下ろした。しかし安堵したのも束の間、ザックの表情はまだ硬い。いつになく他人行儀な空気を醸し出しているザックは、そのまま淡々と言葉を重ねた。

「だけどね、僕達みたいな庶民には貴族のお言葉は絶対なんだよ。エクランド様がアオイに関わるなと仰られるのなら、僕はその通りにしなければいけない。そうしないと僕だけじゃなく、リズやパンテノンの職人組合にも迷惑をかけてしまうから。だからアオイ、もうここには来ないで欲しいんだ」

 ザックが言葉を終えた瞬間、葵の視界は貧血でも起こしたかのように真っ暗になった。言葉を失ってしまった葵の手を取ったザックは、そこに小さな袋を乗せる。小袋が落ちないよう葵の手をしっかりと握らせた後、ザックは早々に手を離した。

「預かってた物がその袋に入ってる。力になれなくて、ごめん」

 堪えきれないといった様子で無表情を崩したザックの顔には慙愧や無念、後悔や決意が複雑に入り混じっていた。しかしそれも一瞬のことで、唇を引き結んだザックは呆けている葵を屋外へと追い立てる。扉が閉ざされる無情な音を背中で聞いた葵は信じられない思いで振り返ったが、その扉が再び開かれることはなかった。瞠目して木製の扉を見つめていた葵は徐々に視線を下げ、項垂れたところで動きを止める。やがて瞬きと共に零れ落ちた涙が、地面に黒いシミを作った。

 ザックとリズに、別れを宣告された。それは葵が、唯一の安らげる場所を失ったということに他ならない。失ったものの大きさを実感すると共に、それを奪い去っていった者に対する怒りで思考がぐちゃぐちゃになった葵は次から次に溢れてくる涙をしきりに拭いながらパンテノンの街を走り抜けた。

「エリートなんて大っ嫌い!!」

 どこへ向けたらいいのか分からない葵の憤りは憎らしいほど晴れ渡った夏空に吸い込まれ、反響することもなく虚しく消えて行った。






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