白昼の悪夢

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 その日の課程が終了する時を告げる鐘が校内に鳴り響くと、葵は机の上に広げていた魔法書を静かに閉ざした。刹那、教室中が葵の動向に注目する。本日幾度目かの針の筵に晒された葵は得体の知れない気持ちの悪さを感じ、おもむろに顔をしかめた。

(何なのよ)

 その理由には皆目見当がつかないのだが、今日はいつにも増して言動に視線が集まる。それはまるで一挙一動を観察するかのように細やかなもので、葵は不愉快と同時に気味の悪さを感じていた。この学園で注目を集めるということが不吉であることを、彼女はすでに身を持って知っているからだ。しかし本日から放課後の補習が開始されるため、葵は魔法書を閉ざした後も席を立たないままでいた。彼女はそうしてクラスメート達が帰るのを待っていたのだが、今日は誰一人として教室を出て行こうとしない。

 放課後にクラブ活動を行う習慣のないトリニスタン魔法学園の生徒達は、平素であれば授業が終わるとすぐに下校する。その彼らが教室に留まったまま自分の一挙一動に注目している様に、葵はただならぬ空気を感じ取った。これは補習どころではないと思った葵は大人しく帰ろうと思い、魔法書を胸に抱いて席を立つ。だがクラスメート達は何故か、彼女が教室を後にしてからも追いかけてきた。少し距離を置きつつも決して離れようとしない白いローブの集団に殺気を感じた葵は背中に気をつけながらエントランスホールへと急ぐ。帰りにもう一度保健室へ寄ろうと思っていたのだが、今日はそれどころでもないようだ。

 急ぎ足で校舎を後にした葵は歩調を緩めないまま校舎北にある裏門へと向かった。裏門付近にはマジスター専用の魔法陣が描かれているので、正門の魔法陣から登下校している一般の生徒が裏門の辺りをうろつくことはまずない。しかしこの日は、葵が裏門へ足を向けてもクラスメート達は追いかけてきた。

(……まだ付いてくる)

 横目で後方の安全を確認した葵はさらなる不安を募らせ、魔法陣で足を止めることなく裏門をくぐった。本当は裏門の辺りでクレアに迎えに来てもらおうと思っていたのだが、こうも監視されていては呼び出し辛い。クラスメート達は裏門で足を止め、それ以上追ってくるようなことはなかったのだが、徒歩で帰ることに決めた葵は少し歩調を緩めながらも歩き続けた。

(はあ、気持ち悪かった)

 今回のことは別格にしても、近頃は気持ちの悪い出来事が多いような気がする。そんなことを思った葵はすぐにその理由を察し、眉根を寄せて空を仰いだ。解消されない疑問ばかりが積み重なっていくのは偏にアルヴァが不在のせいである。葵がこの世界に召喚されてからすでに三ヶ月ほどの月日が経過しているが、未だにこの世界のことをあまり理解していないため、アルヴァに聞かなければほとんど何も分からない状態だからだ。

(いつ帰ってくるんだろう、アル)

 顔を合わせれば衝突ばかりだが、アルヴァがいなければ身が持たない。全ての事情を把握している彼がものすごく貴重な存在なのだと、今さらながらに実感した葵は重いため息をつきつつ真夏の帰り道を辿った。

 炎天の下、三十分ほどかけて帰路を辿った葵は屋敷に着いた頃には汗だくになっていた。すぐにでも風呂に入りたいと思った葵は急ぎ足でエントランスを抜け、一階の片隅にあるバスルームへと歩を進める。しかしバスルームへ辿り着く前に窓の外にクレアの姿を認めたため、葵は慌てて踵を返した。クレアには迎えに来てもらうことになっていたので、もう帰宅したということを告げた方がいいと、彼女は思ったのだ。

 バスルームへと続く廊下には外へ出られるような扉は設けられていないため、一度エントランスホールに戻った葵は玄関から外へ出た。そして先程クレアが歩いていた、屋敷の西北へと向かう。だが建物の陰から出ようとしたところで何かが目前を通過していったため、驚いた葵は数歩後ずさった。

「お嬢様」

 険しい表情をして建物の陰から現れたクレアは葵の姿を認めると目を見開いた。葵もまた、クレアのただらなぬ様相に目を丸くする。

「ど、どうしたの?」

 クレアの手には陽光を反射して煌く、薙刀のような柄の長い武器が握られていた。それを突きつけられていたことよりもクレアがそのような武器を手にしていることに驚いた葵は、思わず問いを投げかけたのである。クレアはばつが悪そうな表情になりながら切っ先を下方へ向け、そのまま葵に頭を下げた。

「申し訳ございませんでした」

「当たってないから大丈夫。それより、何かあったの?」

 葵が頭を上げるよう促すと、クレアは渋い表情のまま問いの答えを口にした。

「お嬢様が徒歩でお帰りになられるとは思わなかったので、侵入者と勘違いしてしまいました」

「侵入者って……」

 クレアの物言いが大袈裟だったので葵は呆れてしまった。玄関や窓に鍵をかける習慣のない世界で、侵入者も何もないだろう。バスルームの見張りにしてもそうだが、どうもクレアは防犯意識が過剰なようだ。

「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」

 盗られるような物もないし、という一言は胸中で留め、葵はクレアを優しく諭した。葵の反応にクレアは微かに眉根を寄せたが、特に反論はないようである。クレアが口を開かなかったので、葵は言葉を重ねた。

「お風呂に入りたいんだけど、お願い出来る?」

「……かしこまりました。すぐにバスの用意をいたします」

 平素の無表情に戻って一礼したクレアは、葵にそう言い置くと薙刀のような武器を両手で持ち上げた。彼女が「ルベール」という呪文を唱えると、クレアの手を離れて宙に浮いた武器が光を帯び始める。それは少しずつ形を変え、最終的にはワニに似た生物の姿となってクレアの両腕に抱えられた。クレアのパートナーであるマトが指定席である彼女の肩口に収まるのを見届けてから、葵は驚きの声を発した。

「それ、マトだったんだ?」

「魔法生物には変態メタモルフォーゼという能力が備わっていますから」

「へ〜、マトって魔法生物だったんだ?」

 葵はあたかも『魔法生物』というものを知っているかのような物言いをしたが、実際には「普通の生物と少し違う」ということくらいしか理解していない。それもどこがどう違うのかを知識として理解しているのではなく、何となく感覚的に違うのだろうと思っている程度である。葵がそんな風に何となく魔法生物というものを受け入れたのはファンタジー小説や漫画の中で、そういった普通とは少し違う生物が描かれているのを見てきたからだった。

 魔法が当たり前に存在するこの世界の生まれではない葵の感覚は、仕方のないことながらこの世界の一般常識からズレている。そのためクレアは葵の反応を奇妙と受け取ったらしく、またわずかに眉をひそめている。しかし何かを言うことはせずに、クレアは葵を促して歩き出した。

 エントランスホールでクレアと別れた葵は一度、二階の片隅にある寝室へと戻ることにした。しばらくするとクレアが呼びに来たので、寝室を後にした葵はバスルームへと向かう。着替えは動きやすい格好でとクレアに釘を刺してから、葵は一人で入浴を愉しんだ。

 温めのお湯で汗を流した後、脱衣所へ戻るとドレスではない着替えが置かれていた。用意されていたのはゆったりとしたシルエットのワンピースである。デザインが可愛かったため、ワンピースに袖を通した葵は普段は覗かない脱衣所の鏡に自分の姿を映してみることにした。

(髪、伸びたな)

 一時期は不本意ながらも短くしていたのだが、現在はショートボブくらいまでに伸びている。生まれ育った世界で施したカラーリングは跡形もなく消え失せていて、葵に時の流れを実感させた。

(三ヶ月、か)

 長いような短いような期間の間には色々なことがあった。そして葵が元の世界へ帰ることの出来る方法は、未だに見付かっていない。アルヴァに会ったらそちらも急かしてもらおうと思い、葵は鏡の前から離れた。

「もう上がられたのですか」

 脱衣所を出た所の廊下で待ち構えていたクレアが驚いた表情で迎えてくれたので、葵は曖昧な笑みを浮かべながら彼女の横を通り過ぎた。葵がそのまま寝室へと向かうと、クレアも少し距離を保ちながら同行する。けっきょく寝室まで着いて来たクレアは葵をイスへ座らせると、洗い髪をセットすると言い出したのだった。

 二月の浮かぶこの世界にも、ドライヤーというものは存在する。ただ葵が元いた世界で使っていた物のように電気で動く代物ではないので、この世界のドライヤーはコードを必要としない。そのためクレアは自在にドライヤーを操っており、鏡越しにその様子を見ていた葵は美容室みたいだと思った。

「本日はお出掛けになられますか?」

 作業を続けながらクレアが話しかけてきたので、葵は少し考えを巡らせた。気がかりなことといえば初日からすっぽかしてしまった補習が思い浮かぶが、さすがにロバートも待っていないだろう。明日謝ろうと思った葵は、もう今日は外出しない旨をクレアに伝えた。

「では本日は、わたくしがゲームのお相手をさせていただいてもよろしいでしょうか?」

「あ、そうだった! やろうやろう!」

 ゲームと聞いて浮かれた葵は振り向こうとしてクレアに制された。早く遊びたい衝動に駆られながらも居住まいを直した葵は大人しく髪が乾くのを待つ。だが心はすでに浮き足立っていて、喋らずにいられなくなった葵は自分からクレアに話を振った。

「今度、お菓子の作り方教えてくれない?」

「お嬢様が料理をされるのですか?」

「この前、夕食をご馳走になったから。何かお返ししたいなと思って」

「そういうことでしたら、わたくしがギフト品を見繕って参りますが」

「そんな大袈裟にしなくていいの。こういうのは気持ちだから」

「……かしこまりました」

 まだ訝しそうな調子を残しつつも、クレアはそこで話を終わらせた。じっとしていられなくなった葵はどうせ今日は外出しないのだからと、セットが完了する前にクレアの手から抜け出す。もういいという葵の意思を受けて、クレアもドライヤーを手放した。

「お嬢様」

 ゲームに使うボードを用意するために一度部屋を出て行こうとしていたクレアがふと、何かを思い出したかのように葵を振り返った。不意に視線を向けられた葵は首を傾げながら応える。

「何?」

「これに見覚えがございますか?」

 クレアがエプロンのポケットから取り出したのは折りたたみ式の携帯電話だった。この世界には電話自体が存在しないので、彼女が手にしている物はまず間違いなく葵の私物である。驚いた葵はイスから立ち上がり、クレアの傍へ寄って携帯電話を受け取った。

「どこにあったの?」

「ベッドシーツを交換した際に拾いました」

 思い当たる節があったので、葵は苦笑しながらクレアにお礼を言った。加藤大輝の夢を見たいと枕の下に忍ばせておきながら、そんな夢は見ることが出来なかったのですっかり忘れていたのだ。葵に一礼した後、クレアは今度こそ部屋を出て行く。手元に視線を落とした葵はこれを失くしたらシャレにならないと思い、デスクの脇に置いてある私物の鞄にしっかりと携帯電話をしまいこんだ。






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