つながる世界

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 オレンジの色味が強い二月が虚空に浮かぶ夜、屋敷の周囲を取り巻くように広がっている花園は暖色の光に染め上げられて穏やかに色彩を変えていた。太陽が天空を支配する昼間ほどではないが、二つの月が浮かぶこの世界の夜は人工の明かりがなくても十二分に明るい。黄昏時から黒色を抜いたような透明感のある空の下、葵は寝室に面しているテラスでぼんやりと庭を眺めていた。

(……まだ寝られそうにないなぁ)

 月が中天にかかっているこの時分、このところ規則正しい生活をしている葵は平素であれば、キングサイズのベッドで眠りに就いている。だが今夜は妙に頭が冴えてしまっているため、寝返りを打つことに飽きた葵はベッドを抜け出してきたのだった。夜風に当たれば気分も変わるかと思われたのだが、実際にそうしてみても心境の変化はあまりない。それは眠れない理由が憂鬱感からきているのではなく、どちらかと言えば幸福感からきているものだからだ。

 軽く息をついた葵は瞼を下してから空を仰いでみた。そうしていると、ほのかな明るさを帯びている闇の中にザックとリズの姿が浮かび上がってくる。彼らと過ごす一時が本当に幸せで、日中の出来事を思い返した葵は自然と頬を緩ませた。落ち込んでいたザックが水を得た魚のように復活し、嬉しそうに『ありがとう』と言った時の笑顔が忘れられない。

(私、ザックのこと好きなのかもしれない)

 自分の零した呟きが腑に落ちて、葵はスッキリした気持ちになりながら目を開けた。

 葵はつい先日、初恋の人への未練を再確認したばかりだが、ザックへの想いはハルに感じていたそれとは種類が異なっていた。初恋の時のような激しい感情の昂りはなく、ザックへの好意はただ穏やかに胸の中で存在しているのだ。その気持ちは、恋とは違うのかもしれない。だが友情という感情とも、また微妙に違っていた。何故ならザック達との関わりを、周囲の誰にも知られたくないと思っているからだ。

 葵がまだトリニスタン魔法学園に編入して日が浅い頃、アルヴァはよく『マジスターには関わるな』ということを口にしていた。貴族でもない一般人のザックと親しくすることにマジスターの時のような特別な事情は存在しないだろうが、それでも葵は彼らに関わるなと誰かに言われることを密かに恐れていたのだ。共同生活をしているクレアにさえ彼らのことを話していないのは、周囲の異常な状況からザックとリズを切り離しておきたかったからに他ならない。そのことに気が付いてしまった時、葵はザックとリズが特別な存在になっていたことを実感したのだった。

(でもなぁ……)

 オレンジの光で辺りを照らしている二月を瞳に映した葵は目線を下げてから小さく首を振った。ハルやステラの時もそうだったのだが、葵がこの世界で誰かを好きになることには大きなネックがある。どんなに大切に思っている人とでも、いつかは必ず別れなければならないからだ。そのことを改めて考え直した葵は、少しザックの所へ行くのを控えようと心に誓った。

(……寝よう)

 幸せに包まれていた気持ちがいつの間にか物思いに変わってしまったため、葵は踵を返そうとした。しかし何気なく見やった後庭に動く物の影を捉えてしまったため、テラスで体勢を立て直した葵は月明かりに照らされている庭を凝視する。距離があったので顔を確認するには至らなかったのだが、その人物がメイド服を身につけていたため、葵は庭にいるのがクレアであることを確信した。

(こんな時間に何してるんだろう)

 葵に見られていることなど知らないクレアはキョロキョロと周囲を窺っており、何かを探しているかのような素振りを見せている。クレアの言動には以前から不審なところがあったため、葵は疑心暗鬼に駆られてしまった。

(……よし、)

 人知れず疑いを強めるよりも疑問を率直にぶつけてみようと思った葵は、クレアの元へ行こうと勢い良く踵を返した。しかしその勢いは、廊下へと続く扉に辿り着く前に失われてしまう。夜の静寂を切り裂く異音が突如として室内に響き渡ったため、ちょうど寝室を横断していた葵はビクリとして動きを止めた。音がする方向を振り向いた葵は、机の上で激しく振動している携帯電話に目を留めてホッと胸を撫で下ろす。

(なんだ、ケータイか)

 しかし今は着信に構っている暇はない。そう思った葵は再び走り出したのだが、扉に手をかけたところでピタリと動きを止めた。

「……電話!?」

 事の重大さに気がついた葵は大きな独り言を零し、慌ててデスクに向かった。携帯電話はまだ激しく震えていたので、急いで取り上げると同時に電話を耳に押し当てる。

「もしもし!!」

 電話口で声を張り上げても、すぐには反応が返ってこなかった。焦る気持ちを引きずったまま電話に出た葵はさらなる言葉を重ねようとしたのだが、その前に通話相手が口火を切る。

『……葵?』

 電話の向こうから聞こえてきた声は懐かしい友人のものだった。三ヶ月ぶりにその声を聞いた瞬間、感極まった葵は涙を滲ませながら言葉を失う。すると今度は電話の向こう側にいる人物が声を張り上げてきた。

『あんた何してんのよ!!』

「や、弥也ややぁ……」

『今どこにいんの!? 迎えに行くからさっさと教えな!』

 それが怒鳴り声ではあっても弥也の発する言葉は全てが感動的で、胸がいっぱいになってしまった葵は泣き出してしまった。それも激しくしゃっくり上げているせいで言葉を発することが出来ない。葵が泣きじゃくっている間も弥也は一人で喋り続けていたが、やがて彼女も声の調子を落としてきた。

『ケータイもずっとつながらないままだし、心配してたんだよ。今どこにいるの? 何で急にいなくなったの?』

 弥也の声音が落ち着いた頃には葵の気持ちもだいぶ静まってきていたが、この問いには返す言葉が見当たらなかった。今いる場所が異世界で、異世界の人に召喚されたせいで帰れないなどと言っても弥也はおそらく信じないだろう。葵が言葉を探していると、弥也はさらに声の調子を落として話を続けた。

『まさか、誘拐されたんじゃないよね?』

「違う。誘拐とかじゃないんだけど、今は帰れないの」

『はあ? 何言ってんの、バカ! 今すぐ帰って来い!』

「帰れるならとっくに帰ってるよ! 帰れないんだから仕方ないじゃん!!」

 葵が怒鳴り返すと電話の向こうで息巻いていた弥也もさすがに口をつぐんだ。沈黙が訪れたことで冷静さを取り戻した葵は深呼吸をしてから話を再開させる。

「とにかく、今は帰れないんだ。でも誘拐とかじゃないし、無事だから、心配しないで。こっちから連絡取れないから、お父さんとお母さんにも伝えてくれると嬉しい」

『……葵が三日も行方不明だからおじさんとおばさん、すごく心配してたよ。事が警察沙汰になってビビる気持ちも分かるけど、早く帰って来た方がいいって』

 弥也の口調は諭すものに変わっていたが、そんなことを言われても帰れないものは帰れないのである。だが弥也の言い分がもっともなものだっただけに、葵には返す言葉が見当たらなかった。弥也も押し黙ったので、再び沈黙が訪れる。会話がなくなったことで他のことにも考えを巡らせることが出来るようになった葵はハッとして、携帯電話のディスプレイを見た。すると充電の表示が一本になっていたので、葵は慌てて話を再開させる。

「とにかく、帰れるようになったら絶対に帰るから。また連絡する」

 一方的に通話を切り上げた葵はそのまま携帯電話の電源をオフにした。しかし自分から電話をかけようとしても繋がらなかったことを思い出し、すぐに電源をオンにする。着信履歴から弥也の番号を選択した葵は発信を試みたのだが案の定、電話の向こうからはコール音さえも聞こえてこなかった。

(やっちゃった……)

 電気の通っていないこの世界では充電が出来ないため、一度充電が切れれば携帯電話はその機能を失ってしまう。そのため少しでも長く持たせようと考えた葵は急いで通話を切り上げたのだが、そもそも異世界同士では通信など不可能なはずなのだ。

(でも、弥也からの電話がかかってきた)

 世界を跨いで友人の声を聞くことが出来た。それはつまり、不可能と思っていたことが本当は不可能ではないということだ。それが極めて稀な出来事であったとしても、再び繋がることが出来る可能性はゼロではない。そうした可能性が目の前に示されたことに葵は希望を感じた。

 再び電源をオフにした携帯電話を胸に抱き、葵は目を閉ざした。闇の中では姿の見えない友人の声が鮮明に蘇ってくる。怒鳴りっぱなしだったなと笑いながら目を開けた葵は沈黙した携帯電話を丁重に鞄に収めてからキングサイズのベッドに転がった。






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