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 天空にオレンジがかった黄色い二月が浮かぶ夜、ジャンクストリートでザックと別れた葵は市街の中心部から外れた人気のない通りの片隅でスカートのポケットから取り出した小さな呼び鈴ベルを軽く振った。するとしばらくの後、目の高さの空中が不意に光を放ったので驚いた葵は反射的に後ずさる。突然の発光はすぐに消え、光を放っていた辺りから何かが地面に落下した。ボトッという音と共に落下した物体に目をやった葵は、その正体に再度驚いて目を丸くする。

「マト?」

 葵の足元に出現したのは、いつもクレアが肩に乗せているワニに似た魔法生物だった。呼びかけに反応を示したマトは長い顎を持ち上げ、闇の中で異様な光を放つ双眸を葵へと向ける。その様が怖かったので、葵はもう一歩後退してしまった。

 葵が持っているベルは、厳密に言うとクレアを呼び出すためのアイテムではない。人間には聞こえない音を発するのだというベルの音に反応するのはマトであり、クレアはパートナーが捉えた呼び出し音に従って行動しているだけなのだ。そのためクレアが近くにいない時に葵が呼び出しをかけてしまうと、マトが単体で姿を現してしまう時がある。以前にもそのようなことがあっただけに、頭はすぐ状況に対応した。しかし人語を話せないマトとは意思の疎通が出来ないため、葵は微かに眉根を寄せる。

「屋敷に帰りたいんだけど……」

 困ってしまった葵は、とりあえずマトに希望を伝えてみた。するとマトが大きく口を開けたので、その仕種に怯んだ葵はさらにもう一歩後ずさる。だがマトの動作にはちゃんとした理由があったらしく、大きく開いた彼の口からは何かが生み落とされた。

(あ、これ……)

 見知った形の物体は、どうやら形状記憶カプセルのようだった。だがそれをどう処理すればいいのか分からず、またマトに近寄ることも躊躇われたので、葵はその場から動けずにいた。するとマトが体の向きを変え、長い尾で自らの生み出したカプセルを叩き潰す。潰れたカプセルは筋状の光となって地を這い、やがてマトを中心とする魔法陣が完成した。

(魔法陣の形状を記憶してたカプセル、ってことだったのかな)

 そう考えた時、葵の頭の中で何かが繋がった。仮説を立ててみたことで解消した疑問は、クレアが転移魔法を使う時に見せる不可思議な動作である。アルヴァなどは変則的に転移魔法を使いこなしているが、クレアは必ず転移魔法を使う際に魔法陣を介する。魔法陣が近くにない街中などに迎えに来てもらう時は、わざわざ魔法陣を描き出してから転移魔法を使うのだ。そして魔法陣を描く際、クレアは何かを地面に叩きつけることでそれを成している。

(そっか、クレアもこうやって魔法陣を描いてたんだ)

 便利な使い方が出来るものだと感心した葵はその後、自分の前に出現した魔法陣の意味について考えを及ばせた。クレアの代わりに現れたマトが描き出したものならば、この魔法陣の用途は移動用だろう。むしろそう思いたいと思い、葵はおそるおそるマトに近付いて魔法陣に足を踏み入れた。

 葵とマトを乗せた魔法陣はやはり移動用のものだったらしく、目をくらませた光が収まった頃には見慣れた風景が目前に広がっていた。屋敷の玄関と前庭にある噴水の間に描かれた魔法陣に帰って来た葵は、そこでメイド服姿の少女に迎えられてホッと胸を撫で下ろす。足元に這い寄って来たマトを軽々と肩に乗せてから、クレアは葵に向かって一礼した。

「おかえりなさいませ。お迎えにあがれず、申し訳ございませんでした」

 クレアの物言いから察するに、マトが単独で迎えに来たことは彼女の意向によるもののようだ。クレアが代理を寄越したのは今回が初めてであり、また日中に騒動があったばかりなので、嫌な予感を募らせた葵は眉根を寄せながら口火を切った。

「それはいいけど……何かあった?」

「お嬢様にお客様がお見えです」

 この世界で自分を訪ねて来る者がいるとは思ってもいなかった葵にとって、クレアの一言は首をひねるものだった。やがて、ある嫌な想像を巡らせた葵は恐る恐る口を開く。

「まさか……キリル=エクランドじゃないよね?」

 携帯電話を壊されて逆上していたとはいえ、葵は力いっぱいキリルを殴って逃げ去って来たのだ。あの時は放心していたようだが正気に戻ったキリルが復讐を考えてもおかしいことではない。葵はそんな危惧を抱いたのだが、クレアは至って冷静に首を横に振った。

「お嬢様の担任の先生です。客間でお待ちですので、どうぞ」

 クレアが道を開けたので、葵は拍子抜けしながら歩き出した。日中には半壊状態だった屋敷もすでに復元が成されていて、今ではもう激しい争いがあったことすら分からない状態になっている。魔法の便利さと凄さを改めて実感した葵はキョロキョロしながら歩を進め、やがてエントランスホールを抜けてすぐの所にある客間の前で歩みを止めた。すると少し後ろを歩いていたクレアがすかさず扉を開いたので、葵も再び歩き出す。豪奢なインテリアで彩られている客間のソファーには紅茶を前に座しているロバートの姿があり、クレアに促された葵は彼の向かいの席に腰を落ち着けた。

「大方の事情はメイドの彼女から聞いた。災難だったな」

 問いかけようとした矢先にロバートが口火を切ったので、何が何だか分からなかった葵は大きく首を傾げた。

「事情って何ですか?」

「キリル=エクランドが派手に暴れたらしいな。そのせいで彼女も怪我をしたとか」

 ロバートが手作業で紅茶を淹れているクレアに視線を移したので、そこでようやく話が通じた葵は胸中で「ああ……」と呟きを零した。携帯電話の修理で頭がいっぱいだったためすっかり失念していたが、今朝は教室を派手に荒らしてしまったのだ。

「すいませんでした。何も言わずに勝手に帰って」

「私は君を咎めるために来たのではない。教室で何があったか、話してくれないか」

 やはりロバートは朝の惨状を目の当たりにしているようである。整然としていた机や椅子が薙ぎ倒されていて、さらには葵の私物が教室内に散乱していれば、何かがあったと思うのは当然のことなのだ。ロバートが自分を案じて訪ねて来てくれたのだということが分かるだけに、葵は渋い表情になりながら事の顛末を語った。

「それで、キリル=エクランドを殴り飛ばしたのか?」

 葵の話を聞いたロバートはしきりに目を瞬かせながら念を押すように確認してきた。ロバートが『キリルを殴り飛ばした』という部分を選んで、ピンポイントに繰り返したのには何やら意味がありそうである。そう感じた葵はにわかに不安を募らせながら小さく頷いて見せた。しかし葵の予想に反し、ロバートは愉快そうに笑い出す。何故笑われるのか分からなかった葵が困惑していると、やがて笑いをおさめたロバートは口元を手で覆いながら言葉を紡いだ。

「日常的に授業を妨害するなど彼の言動には問題があったからな、いい薬だろう。ミヤジマ=アオイ、君は気にすることなく堂々としていればいい」

 ロバートはそう言うが、葵は密かにキリルから仕返しをされるのではという危惧を抱いていた。携帯電話を壊されて頭にきていたとはいえ、ずいぶんと考えなしな行動をしてしまったという後悔もある。そうした葵の不安を見透かしたかのように、ロバートは気持ちを和らげるような微笑みを向けてきた。

「不安か?」

「……少し」

「大丈夫だ。私が君を守る」

 今までにも幾度か庇ってもらった自覚があるだけに、ロバートの言葉には絶大な効力があった。彼の力強さに安らぎを覚えた葵は自然と微笑み返しながら感謝の思いを言葉にする。ロバートに巡り合うことが出来て本当に良かったと、葵は心底そう思いながら暇を告げた彼を魔法陣まで見送りに行った。

「良い先生ですね」

 ロバートの姿を消し去った発光が収まってから、クレアがぽつりとそんな呟きを零した。彼女は葵と並んで玄関口に佇んだまま、屋敷前の魔法陣を見つめている。普段は自分の思いを言葉にしないクレアがロバートについての『感想』を零したことに、葵は少なからず驚いた。しかし今は、そんなことで驚きを露わにするのは無粋である。そう感じた葵は彼女の意見を肯定するべく、力一杯頷いて見せた。

「うん。すごく、いい人だよ」

 クレアはもう話には応じなかったが、どうやら彼女もロバートにはかなりの好印象を抱いているらしい。それが自分のことのように嬉しくて、葵は明るい口調のまま言葉を重ねた。

「そういえば、ありがとね」

 葵が急に礼を言ったため、クレアは不可解そうに眉をひそめながら振り向いた。その表情から話が伝わっていないことを察した葵はすぐに補足する。

「あのカプセル、クレアの言った通り役に立ったよ」

「壊れた物は直りましたか?」

「それが、まだ分からないんだよね」

 ザックと共にジャンクストリートに赴いてはみたものの、ザックの知り合いである職人達は初めて目にする携帯電話に一様に首を傾げていた。そのため詳しく調べてみないと直せるかどうかも分からないということで、結論はいったん保留ということになったのである。携帯電話の残骸と携帯電話を模した形状記憶カプセルをジャンクストリートに置いてきた葵は、三日後に再びザックと落ち合う約束をして帰宅の途についたのだった。

(直るといいな)

 そう切望しつつも心のどこかで諦めを抱いている葵は、あまり期待はしないでおこうと思い、クレアを促して屋敷の中へと引き返した。






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