裏切り

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 ウィルの突然の行動に騒然としていた生徒達は、同じくウィルの一言でしんと静まり返った。一様に口を閉ざしている彼らは、ウィルから提案を持ちかけられたキリルの発言を待っているのだ。キリルは初め、ウィルが何を言っているのか分からない様子で微かに眉根を寄せていた。だが沈黙している間に状況を理解したらしく、やがて口角を持ち上げる。そのキリルの表情がおぞましいものだったので、ウィルに拘束されたまま身動きが取れないでいる葵はゾッとした。

「てめーら、そこの女をオレの前に跪かせろ」

 押し黙っている観衆に向けてキリルが命令を下した直後、ウィルは葵の手を離してふわりと上空へ舞い上がった。ウィルからの拘束が解かれた刹那、今度は四方八方から伸びてくる手が葵の自由を奪っていく。一瞬して全ての生徒を敵に回した葵はもみくちゃにされ、気がついた時にはキリルの足下で低頭させられていた。

「キル、気分はどう?」

「おう。こんなに気分がいいのは久しぶりだぜ」

「ということは、キル自身が危害を加えない分には大丈夫、ってことだね」

 無理矢理押さえつけられている頭の上で、ウィルとキリルが悠長に会話をしている。その呑気さに怒りを抱くよりも恐怖の方が勝り、葵の体は小刻みに震え出した。

「もういいだろ。離してやれよ」

 苦々しいオリヴァーの声が届くと同時に葵は拘束から解放された。しかし恐怖のあまり体が言うことを利かず、脱力した葵はその場にへたりこむ。葵の状態を見て顔をしかめたのはオリヴァーだけであり、キリルなどは意見されたことに気分を害された様子でむっつりとしていた。

「いーや、良くねぇ。オレはこの女に散々な目に遭わされてんだ」

「それはキルが……」

「アン・セリュール・スュル、オリヴァー=バベッジ。アン・コンプルシィオン・メタスタス、ケルクパール・ロワン」

 ウィルが唐突に呪文を唱え出したため、会話を止めたオリヴァーとキリルは一様に彼の方を振り向いた。オリヴァーは慌てた様子で何かを言いかけていたが、彼が口を開く前にその体は光に包まれて消失する。オリヴァーだけが跡形もなく消え去った後、ウィルが一つ息をついてからキリルを振り向いた。

「うるさいのが戻って来る前に実験を済ませよう。キル、アオイに向けて魔法を使ってみてよ」

「魔法? 何でもいいのか?」

「初歩的なやつでいいよ。あんまり高度な魔法だとアオイ、死んじゃうかもしれないし」

「おう。任せとけ」

 嬉しそうにウィルに笑って見せたキリルは、そのままの表情をへたりこんでいる葵に向けた。キリルもウィルも、本気だ。彼らの表情からすぐにそのことを察した葵は逃げようとしたのだが、腰が抜けてしまっていて立ち上がることすら出来ない。葵が必死にもがいている間に、キリルは淡々と短い呪文を口にした。

「ル=フュ」

 キリルが唱えた呪文は葵が所持している魔法書に書いてあるような初歩の火属性の魔法である。魔法が存在するこの世界にやって来たばかりの頃、葵はユアンという少年が同じ魔法を使ったのを目にしたことがあった。その時の炎は子供の掌ほどの大きさだったのだが、キリルが発生させた火球は彼の等身大ほどの大きさがある。あれをぶつけられれば間違いなく死ぬと直感した葵は動かない体に鞭打って、必死で後ずさった。しかしキリルは葵が怯えていることなど歯牙にもかけず、その凶悪な炎の塊を投げつけてくる。とっさに腕で顔を庇った葵は呼気すら焼きつくしそうな熱に死を悟った。そこで気絶してしまったらしく、その後の記憶はない。次に目を覚ました時、葵は雲一つない夏空の中にいた。

(……死んじゃったのかな)

 熱も痛みも恐怖すらも、今は感じない。それならば死んでしまったのだろうと思った葵は皮肉な笑みを口元に浮かべた。

(帰りたかったな……)

 死ぬ前に一目、友人や両親に会いたかった。空の中では夏の日差しが眩しくて、葵はそんなことを思いながら再び目を閉ざした。

「ミヤジマ=アオイ」

 不意に呼び声が耳に届いたので、葵はハッとして目を開けた。瞼を持ち上げてすぐ瞳に映ったのは見知った人物の顔であり、葵は呆けたままその人物の名を呟く。

「ロバート先生……」

 何故、ロバートがここにいるのか。葵がそうした疑問を口にする前に、ロバートは柔らかな笑みを浮かべて見せた。

「良かった、無事のようだな」

「ぶじ……?」

 状況がうまく呑みこめず、葵はロバートの科白をおうむ返しにした。ロバートは答える代わりにもう一度微笑み、それから何かの呪文を唱え出す。呪文が終わる頃には浮遊感に包まれていた体が降下を始め、葵とロバートはゆっくりと大地に下り立った。

「……てめぇ、」

 自分の足で大地に立ってすぐ目についたのは、怒りに瞳をぎらつかせているキリルの姿だった。その怒りはロバートに向けられているのだが、当のロバートは平然とキリルを見つめ返している。その平静さは、キリルが再び魔法を使ってからも変わることがなかった。キリルが放った火属性の魔法は一直線に向かって来たのだが、その炎は葵達の元へ届く前に四散して大気に溶ける。どうやらロバートがキリルの魔法を退けたようなのだが、葵には何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。

「マジスターを含め、事態を傍観しているアステルダムの生徒諸君。私は今から、ロバート=エーメリーの名において諸君らに説教をしようと思う」

 少し遠巻きに傍観している生徒達にも聞こえるようロバートが声を張ると、周囲からどよめきが返ってきた。キリルやウィルですら驚きを露わにし、目を剥いてロバートを凝視している。何が彼らを驚かせているのか分からなかった葵は一人、眉根を寄せながら間近にいるロバートを仰ぐ。葵の視線に気が付いたらしいロバートは彼女に小さく頷いて見せた後、再び生徒達に向かって話を始めた。

「初めに、ここにいる女子生徒の素性に触れておく。公にするのは好ましくなかったのだが、彼女の素性が明らかでないことが虐げの対象となってしまうのならば仕方がない。彼女はフロンティエールからの留学生だ。よって、今のところ魔法が使えるかどうかは未知数なのだ」

 葵にはロバートが何を言っているのか分からなかったのだが、周囲からは再び大きなどよめきが巻き起こった。その反響のすさまじさに物怖じした葵はビクリと体を震わせる。すると、肩に触れているロバートの手に力がこめられた。それはまるで「大丈夫だ」と言外に言っているかのような力強さで、安心感を覚えた葵は肩の力を抜き、未だ続いているお説教に耳を傾ける。

「諸君らの言動には非常に問題がある。一教師として我が校の教壇に立ってみて、それがよく解った。近いうちに然るべき対処をするので心得ておくように。話は以上だ」

 演説を終えたロバートは唇を結び、不特定多数に向けていた視線を葵へと戻した。一度に色々なことが起こりすぎて困惑しきっている葵はどうしたらいいのか分からず、無言でロバートの視線を受け止める。優しい笑みを浮かべて見せた後、ロバートはゆっくりと言葉を紡いだ。

「もう大丈夫だ。我が校の生徒達が君に危害を加えることはない」

「あ、そうなんですか……」

 曖昧に応えた後、葵は違和感を覚えて首を傾げた。しかしその違和感の正体が何なのか、よく分からない。葵が眉根を寄せて考えこんでいると、ロバートが自ら疑問の答えを明かしてくれた。

「訳あって今まで伏せておいたのだが、私はこのアステルダム分校の理事長なのだ。マジスターであろうと私に牙を剥けばどうなるか……理解しているだろう?」

 後半は押し黙ったままでいるキリルとウィルに向けて、ロバートは宣戦布告のように言い放った。マジスター達が言い返せずにいることに驚いた葵は改めて瞠目しながらロバートを仰ぐ。笑みを浮かべたロバートが力強く頷いて見せたので心底安心しきった葵はへたりこむほど脱力してしまった。

「大丈夫か? ミヤジマ=アオイ」

「あ、はい。安心したら腰が抜けて……」

「見たところ怪我はなさそうだが、念のため保健室へ行こう」

「は……えっ!?」

 頷こうとした途端に体を持ち上げられたため、葵は妙な声を上げてしまった。葵の体を軽々と抱き上げたロバートは涼しい表情のまま校舎へと歩き出す。何度も辞退を申し出たのだがロバートが聞き入れてくれなかったため、葵は結局ロバートに抱かれた格好のまま保健室へと辿り着いたのだった。






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