雲一つない夏の夜空にくすんだ色彩の二月が浮かんでいた。夜の闇を塗りつぶすほどの光を放っている二月はいずれも真円で、これから欠けるような気配さえ窺うことは出来ない。夜を支配している月の明かりに照らされて、丘の上に建つトリニスタン魔法学園アステルダム分校の校舎は今宵もひっそりと静まり返っていた。校内に人影はなく、月明かりを取り込んでいる窓からも何かが動くような影を見ることはない。だがこの学園に内包されているとある場所には、一人の少女の姿があった。窓のない部屋で簡易ベッドに横たわっている黒髪の少女の名は宮島葵。夜の時分らしく規則正しい寝息を立てていた彼女はふと、自然に覚醒して目を開けた。
(のど……かわいた)
寝起きのボーッとする頭で目覚めた理由を認識した葵は欲求を満たそうと体を起こした。ベッドの周囲に巡らされているカーテンを退ける頃には自分の居場所も自覚していて、簡単には欲求を満たせないことを察した葵は保健室風の室内を見回した。
夜空に二月が浮かぶこの世界には魔法というものが存在する。魔法はこの世界のライフラインに深い関わりを持っていて、日常で使用する火や水などは魔法で用意するのが一般的なのだ。そのため蛇口やコンロなどといった道具が存在せず、渇いた喉を潤すためには魔法を使うしかない。しかしこの世界の生まれではない葵には魔法を使うことが出来ず、水が欲しい時には誰かに魔法を使ってくれるよう頼むしかなかった。
周囲を見回していた葵は壁際のデスクに求めていた姿を発見し、そちらへ向けて歩き出した。悠然と組んだ長い脚の上で分厚い本を広げている青年の名は、アルヴァ=アロースミスという。葵は彼に声をかけようとしたのだが、距離を縮めてもアルヴァが顔を上げないことを訝しく思って開きかけた唇を閉ざした。
やや下向き加減になっているアルヴァの顔を覗き込むと、彼は瞼を下ろしていた。アルヴァとは約一年の付き合いになろうとしているが寝顔を見たのは初めてのことで、椅子の足下にしゃがみこんだ葵はまじまじとアルヴァの顔を観察する。口を開けば憎たらしいことばかり言う彼もこうなってしまえばカワイイもので、無防備に眠る姿は実年齢よりも彼を幼く見せていた。
(きれーな顔、してるなぁ)
こうして改めて見ると、アルヴァが非常に整った面立ちをしている青年だということを実感させられる。アルヴァはどちらかといえば女顔で、彼の姉であるレイチェル=アロースミスによく似ているのだ。細身の彼が女装をしたら、本物のレイチェルと見分けるのが難しいくらいの仕上がりになるかもしれない。そんなことを考えてしまった葵は自分の口元を手で覆い、小さく吹き出した。
(レイ、どうしてるかな)
レイチェルはユアン=S=フロックハートという少年の家庭教師をしていて、この二人は葵がこの世界へ来て初めての出会いを果たした人間だった。ユアンの方にはちょこちょこ会っているもののレイチェルとはフロックハートの別邸で別れたきりで、葵は知的な印象を抱かせる彼女の凛とした姿を脳裏に浮かべてみた。
葵がレイチェルを偲びながらぼんやりと見つめていると、それまで微動だにしなかったアルヴァが不意に目を開けた。至近距離で目が合ってしまったのは葵にとってもアルヴァにとっても不測の事態で、お互いに驚いてしまった二人の間には気まずい沈黙が流れる。先に驚きを消し去ったのはアルヴァの方だった。
「夜這い?」
「……違う」
アルヴァが真顔のまま冗談を言うので、一気に驚きが覚めた葵は冷えた反応を返した。しゃがみ込んでいた葵が立ち上がると同時にアルヴァは本を閉ざし、それをデスクの上へと置く。平然と悪質なジョークを口にするアルヴァに、たまには嫌味の一つでも返してやろうかと思いついた葵は少し間を置いてしまってから言葉を次いだ。
「アルなんて襲う気にもなれないよ」
「それは良かった。これから寝食を共にするのに邪な目で見られていたのでは僕の操が危ないからね」
話術ではやはり、どう足掻いてみてもアルヴァには敵わないらしい。投げかけた倍の嫌味を返されてしまった葵は呆れてしまい、少し嫌な表情を作った。遊び人の雰囲気を自ら醸し出しておいて、よくもぬけぬけと操が危ないなどと言えたものである。『操』というものについて葵はアルヴァに文句を言いたいことがあったのだが、過去を蒸し返して口論になるのも馬鹿らしいと思い、黙ったままでいた。
(まともに相手するだけムダ、だよね)
仕方がない、アルヴァはそういう奴なのだ。そう思うことで譲歩した葵は一つ息を吐き、本来の目的を果たすために口火を切った。
「水、くれない?」
「水? どのくらい?」
「コップ一杯」
「ああ……飲用か」
葵の望みを理解したところで、アルヴァはまず室内に設置されている棚からガラスのコップを手元に引き寄せた。続いて彼が「リ=オ、プティ・カンティテ」と呪文を唱えると、どこからともなく発生した水がコップに注がれていく。八分まで満たされたコップをアルヴァから受け取ると、葵は一気に水を喉に流し込んだ。
「体はどう?」
空になったコップを口元から遠ざけるとアルヴァが問いかけてきたので、葵はコップを返しながら答えを口にした。
「大丈夫そう」
「違和感とかはない?」
「うん。特に、何もないと思う」
「大丈夫そうだね。この夜が明けたら帰っていいよ」
「ホント?」
この五日間、部屋から出ることさえ許してもらえなかった葵は顔を輝かせて喜びの声を発した。帰れると聞いて真っ先に思い浮かんできたのはワケアリ荘の人々であり、彼らに妙な懐かしさを覚えた葵は口元をほころばせる。
「みんな、どうしてるかなぁ」
「みんなって、アパルトマンの住人達?」
「うん。アパートにいる時はみんなで食事したりとかしてたから」
「いい環境みたいだね。ミヤジマ、リラックスした表情してるよ」
「そうだね。一人でいるより、良かったのかもしれない」
一人でいる時間が長いとどうしても考え事をする時間が増えてしまうし、静けさに気が滅入ることもある。その点アパートならば隣に人がいるので、誰かと話をしたい時はすぐにでも訪ねて行ける。そして何よりの収穫だったのが、自分と同じ境遇の者に初めて出会えたことだった。ユアンに強要された引っ越しではあったものの今では、ワケアリ荘に越して来て良かったと葵は思っている。
「ミヤジマが帰る時、僕も一緒に行くよ」
「へ?」
アルヴァが急に妙なことを言い出したので、我に返った葵は眉をひそめて彼を見た。
「何で?」
「彼はいつでもいいと言っていたんだろう? ちょうど休日だし、僕も早く会ってみたいから」
「ああ……」
そのことかと、話が通じた葵は納得した。アルヴァは葵の隣の部屋に住んでいるマッドという青年に会いたがっていて、葵を通してすでに会う約束を取り付けているのだ。だが、いくらマッドがいつでもいいと言っていたとはいえ、アルヴァの思いつきはあまりにも急である。
「前もって言っておかないと、いないかもしれないよ?」
「その時は
アルヴァが口にした
「ヒナガタって何?」
「魔法の卵には色々な用途があってね、その新たな可能性がイミテーション・ワールドなんだ。これが完成すれば魔法の卵の新たな雛形になる、ということだよ」
「……ごめん、全然分かんない」
「マジック・エッグの説明はまた今度にしよう。まだようやく月が傾き始めた頃だから、ミヤジマはもう一眠りしなよ」
「アルは?」
「心配しなくても、朝になったら起こしてあげるよ」
答えになっていない答えを寄越すと、アルヴァは葵をベッドへと追い立てた。ベッドの周囲をカーテンで覆い隠してから横たわった葵は、とりあえず瞼を下ろしてみる。しかしすでに目は冴えていて、再び眠りに落ちるには時間がかかりそうだった。
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