rainy day

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 扉を開くと雨の音がした。心に沁みる優しい音色は朝から聞こえ続けていて、夜空に月がかかる時分になってもまだ響いている。雲が薄っすらと覆っている空は灰色で、月明かりが照らす夜よりもだいぶ暗く感じられた。しかし、それが不快ではなかったため、葵は口元に笑みを浮かべながら歩き出す。アパートの一階と二階をつなぐ外付けの階段を上ると、トタン屋根で弾けた雨が硬質な音を立てているのが耳についた。

(帰ってきたんだなぁ……)

 数日を過ごしたアルヴァの部屋は静けさに支配されていて、特に夜はその静寂が耳に痛いほどだった。アパートのあるこの空間も静かなのは同じことだが、ここには雨音の他にも身近に誰かがいるという安心感がある。今夜は落ち着いて眠りに就けそうだと思った葵が足取りも軽く階段を上りきると、202号室の扉に張り紙がしてあるのが目についた。

(何だろう?)

 小さな紙が貼り付けられている202号室は葵の部屋である。着替えやタオルなどが入っているバスセットを小脇に抱えた葵は、空いた片手で紙片を引き寄せた。そこにはこの世界の文字で何かが書かれていて、アルファベットの筆記体に似ている文字を凝視した葵は眉をひそめる。

(と……なり、に、て、まつ?)

 ここ数日で改めてアルヴァから教え込まれた基礎的な読み書きを思い出しながら短い伝言を解読した葵は、紙片から目を上げると左右に視線を走らせた。隣で待つということは、この手紙の差出人はマッドかクレアということになる。おそらくクレアだろうと思った葵は一度自室に戻り、バスセットを部屋に置いてから201号室を訪ねた。

「クレア、いる?」

 ノックをしながら呼びかけると、すぐに室内から反応が返ってきた。内側から扉が開いてクレアが顔を覗かせたので、彼女と久しぶりに会った葵は小さく手を振って見せる。クレアが上がれと言うので、葵はそのまま201号室に入り込んだ。

 クレアの部屋は葵の部屋と同じく、畳敷きの六畳一間だった。しかし私物の少ない葵の部屋に比べ、メイド服やトリニスタン魔法学園のローブがシワにならないよう壁にかけられているクレアの部屋には生活感がある。狭い室内には他にもハードカバーの本が所狭しと積み重ねられていて、クレアが勉強熱心であることを物語っていた。きちんと整頓されている本の上でマトが体を投げ出しているのを目にした葵は彼の傍へ寄り、その場にしゃがみこむ。

「触れたってや」

 マトが直接礼を言いたがっているのだとクレアが言うので、葵は縦に長い彼の体へと手を伸ばした。ゴツゴツした岩のような手触りの表皮に触れると、マトの意思が一気に雪崩れ込んでくる。マトから率直な謝意を受け取った葵は笑みを浮かべ、凹凸のある彼の体を優しく撫でた。

「元気そうで良かった」

「マトは大丈夫や。お嬢は体の具合、どうなん?」

「平気だよ」

「さよか……」

 少しトーンを落とし気味に相槌を打つと、クレアは葵を前にして畳の上に座り込んだ。いくら自室とはいえ、ほぼ下着に近い格好をしているクレアが堂々とアグラで座したので、面食らった葵はしきりに目を瞬かせる。だがクレアは葵の様子には構わず、そのままの体勢から唐突に頭を下げた。

「マトを助けてくれてありがとう。ほんま、助かったわ」

 クレアから礼を言われるのは初めてのことで、驚いてしまった葵はとっさに反応を返すことが出来なかった。すぐに頭を上げたクレアは葵の驚いた顔を一瞥すると、決まりが悪そうに髪を掻き上げながら視線を逸らす。

「うちなぁ、湿っぽいのと得体が知れないのが大嫌いやねん」

「……へ?」

 話が飛んだことについていけず、葵は間を置いてなお首を傾げた。しばらく黙って聞いていろと釘を刺した後、クレアはそっぽを向いたまま話を続ける。

「ジメジメっとしたのは昔っから嫌いやったんやけど、得体が知れないのが苦手になったんはメイドとして働くようになってからやな。メイドの仕事は常に、主人の言動を先読みせんことには勤まらん。せやから、観察するんや。そうすると大抵のことは見えてくる。今まではそれでうまくいっとったのに、おたくにはそれが通用せんかった」

 傍に居ればいるほどに、観察すればするほどに、ミヤジマ=アオイという人物は分からなくなるのだと、クレアは語った。話が抽象的すぎてピンとこなかった葵は考えを巡らせながら口を出す。

「私がどういう人なのか分からない、ってこと?」

「そうや。妙なことは知っとって一般的なことは知らんし、教養があるのかと思いきや子供にでも分かるようなことで理解に苦しんだりしとる。そういうのが意味不明で気持ち悪いんや」

 クレアが言っていることを何となく理解した葵は彼女の言動を改めて思い返してみて、ようやく様々なことが腑に落ちたような気分になった。この世界の生まれではない葵には一般常識というものが欠落しているが、生まれ育った世界に類似のものがある時は理解を示すのが驚くほど早い。アルヴァが以前に『葵が何を理解していて何を理解していないのか知るのは困難だ』と言っていたが、クレアが言いたいのもおそらくはそういうことだろう。

「あ〜、なるほどね」

 自身のことを『得体が知れない人間』だと理解している葵はクレアの主張にあっさりと同意を示した。するとすかさず、そういうところが気味が悪いのだと、クレアから反応が返ってくる。ひとたび理解してしまえばクレアの率直な言動も可愛く思え、葵は明るい笑い声を上げた。

「そうだね、私も自分みたいな人が近くにいたら気持ち悪いと思うかも」

「自分で言うてたら世話ないわ。せやけどなぁ、うちが作った料理をいちいち褒めてくれたり、必要ない言うてんのに律儀に礼言ったりするところは、嫌いやない」

 嫌そうな表情を作って再びそっぽを向いたクレアの頬が、ほんのりと赤く染まって見えるのはきっと気のせいではないだろう。彼女が初めて心を許してくれたことに泣きたいほどの幸せを感じた葵は妙な照れくささを笑顔で隠した。

「ありがとう、クレア」

「マトのダチはうちのダチや」

 マトが積み上げられた本の上から移動してきたので、彼の体を軽々と抱き上げたクレアはマトを肩口に乗せた。そこが彼の指定席であり、いつもの光景を目にした葵は微笑ましく思って笑む。しかしその微笑みは、クレアが話題を変えたことにより葵の顔から消え失せた。

「ところでお嬢、今日アッシュとチューしとったやろ?」

 誰にも見られていないと思っていた葵はクレアの一言に絶句した。意味ありげな苦笑を浮かべたクレアはわざとらしくため息をつき、大袈裟に肩を竦めて見せる。

「あないな所でイチャイチャしとったら誰に見られるか分からんで? もうちょっと場所選んだ方がええんちゃう?」

「み、見てたの? だって、あの時はクレア、アパートにいなかったじゃん」

「あのときワケアリ荘におった人には見られてへんから。安心しぃや」

 アルヴァが訪ねてきたことも知っていたクレアは狼狽している葵に、彼にも見られていないことを明かした。アルヴァには知られていないと分かって少しホッとした葵はその後、改めて眉根を寄せる。

「何でそんなことまで知ってるの?」

「このアパルトマンは卵の中の世界や。元となる卵は世界の創生主であるユアン様が持っとる。せやから、ここで起こったことは全部ユアン様に筒抜けってことやな」

「じゃあ、ユアンと一緒に見てたってこと?」

「うちが仕事しとったら、ユアン様がめっちゃ嬉しそうな顔してうちを呼びに来たんや。何やと思って行ってみたら、お嬢とアッシュがイチャイチャしとった。お嬢、カンペキに遊ばれてるで?」

 喜々としてクレアを呼びに行くユアンの姿が容易に想像出来てしまったため、葵は頭を抱えた。

(アルが言ってたの、こういうことか……)

 模造世界イミテーション・ワールドの中ではプライベートなどという言葉は意味を持たない。卵の中で暮らすのは死んでも嫌だと言っていたアルヴァの気持ちを理解した葵は、これからは軽率な行動を慎もうと心に決めた。

「いつから付きうとるん?」

 クレアが言葉を重ねたため、頭を抱えるのをやめた葵は嘆息してから答えを口にした。

「付き合ってないよ」

「なら、これから付き合うんか?」

「どうなんだろう?」

「なんや、それ」

「だって、別に好きだとか付き合ってとか言われたわけじゃないし」

「そんなんでようチューとか出来るなぁ。お嬢って案外、そーゆーとこドライなんや?」

 いつでも率直に物を言うクレアはきっぱりと、思っていることを飾らない言葉で葵に伝えた。葵もクレアと知り合った当初はまだ恋愛に憧れを持つ乙女だったため、彼女の中ではその時の印象が根強く残っているのかもしれない。昔の自分を振り返る機会を与えられた葵は色々あったなと過去を思い返しながらニヒルな笑みを浮かべた。

「クレアは? そういう雰囲気になったらとりあえず拒否しないでおこうとか思わない?」

「好きな相手やないなら、思わへん」

「少しでもいいなって思った人だったら?」

「心に決めた男やなければ、ないなぁ」

「へ〜、ストイックなんだね。その心に決めた人って、今はいるの?」

「おらん。カッコええと思う人なら何人かおるんやけど」

「アルとか、管理人さんとか?」

「そうや。ハーヴェイ様もええなぁ」

 すっかり乙女の顔になっているクレアはうっとりとした様子で空を仰いでいる。クレアが話題に上らせたハーヴェイ=エクランドという人物はトリニスタン魔法学園アステルダム分校のマジスターの一人であるキリル=エクランドという少年の兄で、大貴族の一員である。だがクレアの好みは地位や名声よりも、ひたすらにその男性が有する顔と大人の雰囲気に終始していた。

 その後はお互いに好みのタイプがどういうものかという話になり、すっかり打ち解けた少女達の恋愛談義は夜遅くまで続いたのだった。






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