rainy day

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 雲一つない夜空にくすんだ色彩の二月が浮かんでいた。星の瞬きを内包させてしまうほど強い月明かりは、この世界の夜にとっては常のものである。冬月とうげつ期には雪を降らせる雲が月を覆い隠すここともあるが、夏月かげつ期に限って言えばそれもない。それでもまだ、耳の奥深くで雨の音がこだましているような気がしていた。

 丘の上に建つトリニスタン魔法学園アステルダム分校の校舎最上階で、満身に月明かりを浴びながら佇んでいるのは鮮やかな金の髪をくすんだ色彩に染め上げられている青年。白衣のポケットに両手を突っ込みながら月が支配している天へと顔を向けている彼は、名をアルヴァ=アロースミスという。屋上に佇んでいる彼は長いこと身動ぎもせずにいたが、やがてゆっくりと目を開くと自身の影が伸びている後方へと顔を傾けた。その直後、月明かりを飲み込むほど眩い光が一瞬だけ屋上に立ち上る。すぐに姿を消した光の後には人影が出現していて、体を向けて来訪者を迎えたアルヴァは深々とため息をついた。

「また、抜け出して来たのですか」

「だって、アルってば急に来るんだもん。あんなことされたら話をしたくなっちゃうよ」

 アルヴァの呼びかけに応えたのは、少年。アルヴァと同じく鮮やかな金の髪を持つ彼は月明かりに染まらない紫色の瞳をしていて、そのまなざしには子供らしい無邪気さが含まれている。しかし彼は、ただの少年ではない。こんな所をうろついていていい存在でもないため、一度話を切り上げたアルヴァは彼を自分の部屋へ招待することにした。

 アステルダム分校の校舎に内包されている『アルヴァの部屋』は保健室に酷似した造りになっていて、室内には簡易ベッドが幾つか並んでいる。一見すると本物の保健室のようだが、この部屋には窓がない。魔法の照明が辺りを照らす部屋へ戻って来ると、アルヴァは整えられていた服装を自ら乱しながら口火を切った。

「話なら通信でも済んだだろう? あまり抜け出しているとレイチェルに気付かれるよ」

「大丈夫だよ。ちゃんとレイが忙しいときを狙って来てるから」

 齢十二歳にして平然と大人を出し抜く強かさを持っている少年の名は、ユアン=S=フロックハートという。そして彼らが話題に上らせているレイチェル=アロースミスという女性はアルヴァの姉であり、ユアンの家庭教師だ。レイチェルの目を盗んで屋敷を抜け出してきているユアンにはあまり時間がないため、彼は早々に本題を切り出してきた。

「どうだった?」

 ユアンのこの問いかけは、魔法の卵マジック・エッグの中に創られた模造世界イミテーション・ワールドの感想を求めるものだ。卵の中に入って直接その世界を見てきたアルヴァは率直な感想を述べる。

「少し綻びが見られたけど破綻するほどじゃないし、まあまあの出来なんじゃない?」

「ほころび? どこに?」

「気付かなかったのか。小さいけど、あちこちに亀裂のようなものが見られたよ。放っておくと卵が割れてしまうかもしれないから、一度ちゃんと調べておくべきだね」

「うん……気になるなぁ」

 顎に手を当てたユアンは考えを巡らせているようだったが、時間がもったいないと感じたのか、すぐに思案を中断させたようだった。空を泳いでいた視線が再びこちらを向いたので、壁際のデスクに腰を落ち着けたアルヴァは気になっていたことを尋ねてみた。

「レイチェルは何か言っていた?」

「ううん。レイは卵のことを知らないから」

「そうなのか?」

 てっきりレイチェルもイミテーション・ワールドの実験を知っていると思っていたアルヴァはユアンの告白を意外に感じて眉をひそめた。そこには何か事情があるようで、アルヴァの視線から逃れるように顔を傾けたユアンはふっと表情を曇らせる。

「青い女の子、見たでしょ?」

 ユアンが『青い女の子』と形容したのはワケアリ荘にいた、ウルトラマリンの髪色をした少女のことだろう。葵などは彼女のことを人間の少女だと思っているようだったが、彼女の本質は人間ではない。それはワケアリ荘に降り注いでいた自然の雨が、如実に物語っていた。

「驚いたよ。まさか、雨の精霊に会えるとは思わなかった」

「見ただけで分かっちゃうなんて、さすがだね」

「雨が降っていなければ、断定はしなかったと思うけどね」

 少女を一目見た瞬間に、アルヴァは彼女が人間ではないことを察した。しかし彼女がどういった存在なのかを決定付けたのは、やはりワケアリ荘に降り注いでいた雨なのである。アルヴァがそういった考え方をしたのには、この世界の暦にまつわる事情が大きく関与していた。

 まだ魔法が存在していなかった遥か昔、人々にとって雨は恵みの象徴だった。だが自然界のエネルギーを操る魔法が誕生すると、雨は人々にとって厄介なものの象徴となった。その理由は魔法で雨を降らせたり、降っている雨を止ませることが極めて困難だったからだと言われている。魔法で思い通りにならないということは、その自然現象の根源である精霊が御しにくいということである。世界に望まれなくなった雨の精霊はやがて行方をくらませ、彼の精霊がいなくなったことにより自然に降る雨が世界を潤すことはなくなった。どこまでが真実かは不明瞭だが、伝承ではそう伝えられているのだ。

「伝承がああだから、雨の精霊はもっと気難しい性質をしているものだと思ってた。でも彼女は、そういう雰囲気じゃなかったね」

「もう、いいんだって。初めて会った時、そう言ってた」

 精霊に寿命があるのかどうかは定かではないが、現存する精霊が役目を終えるという事例は過去に何件か報告されている。役目を終えた精霊はかりそめの形状を失い、人間の五感では捉えられない粒子となって世界に還るらしいのだ。雨の精霊がユアンに聞かせた『もういい』という言葉も、おそらくは還元を意味しているのだろう。

「ねぇ、アル。『帰りたい』ってどんな気持ちなのかなぁ?」

 ユアンが不意に問いかけてきたので、思考を中断させたアルヴァは彼の方へと目を向けた。まだしんみりした雰囲気を漂わせているユアンは珍しく弱々しい笑みを浮かべながら言葉を重ねる。

「僕は、考えたこともなかった。だって帰りたければすぐに帰ればいいだけのことなんだもん。でもさ、ようやく還ることが出来るって笑ったときのレイン、すごくいい顔してたんだ。あの時のこと、最近よく思い出すんだよね」

「人間の感情に精霊の精神をなぞらえてみようというのか?」

「そういう学術的なハナシじゃないよ。帰りたいと思っていても帰れないアオイは、どんな気持ちなんだろうって思っただけ」

 そこで葵の名前が出てきたことで、アルヴァはようやくユアンの言わんとしていることを理解した。しかし異世界の住人だった葵をこの世界へ引っ張って来たのは、他の誰でもなくユアン自身なのだ。そのことを考えればユアンの憶測はあまりにも他人行儀な気がして、アルヴァは冷たい視線を彼に送る。アルヴァの冷ややかな視線を受け止めたユアンは苦笑いをし、小さく肩を竦めて見せた。

「僕だって、アオイのことは悪かったと思っているんだよ」

 出来ることならば罪滅ぼしをしたいが、葵の望みを叶えるのはこの国の魔法使い達の頂点に立つ法王(国王)でも不可能なのである。生まれ育った世界に帰りたいという願いを叶えてあげられない以上は、彼女に別の形で報いなければならない。それはこの世界で生きる幸せを与えてやることだというのがユアンの考えであり、その点についてはアルヴァも彼と同意見だった。

「ミヤジマにはいつ、本当のことを話すつもりだ?」

 ユアンは希望があるようにほのめかせているようだが実際のところ、葵が元の世界へ帰れる方法など存在しない。ユアンにもそのことは解っているはずなのだ。魔法の知識に乏しい葵が自力でその答えに辿り着くことはまずないが、いずれ真実を告げなければならない日が必ず訪れる。それならば下手に期待を抱かせているより、早い段階で真実を明かしてしまった方が葵自身のためにもなるだろう。アルヴァが常々提案していることを繰り返すと、ユアンは困ったような笑みを浮かべた。

「今、本当のことを話したところでアオイは信じないよ」

「信じるか信じないかは問題じゃない。どうしたって、彼女はそれを事実として受け止めるしかないんだ」

「受け止められるようになるまでには経験が必要なんだと、僕は思う。だから、もう少し待ってよ。せめて彼女を支えてくれる恋人ができるまで」

「……そう簡単にミヤジマに恋人が出来るとは思えないんだけどね」

「そうかなぁ? アルが知らないだけなんじゃない?」

 ユアンが含み笑いをするので、不可解に思ったアルヴァは眉根を寄せた。それではまるで、アルヴァの知らないところで葵がしっかりと恋愛しているようではないか。しかも何故か、目付け役のアルヴァよりもユアンの方が詳細を知っているということになる。それが何を意味するのかを察した時、アルヴァは意外な面持ちになって言葉を重ねた。

「あのアパルトマンにいる誰か、なのか?」

「灰色の髪をした青年がいたでしょ? アッシュっていうんだけど、彼だよ」

灰色アッシュは本名じゃないだろう」

「アイネイアス=オールディントン。それが彼の真名だよ」

「オールディントン……伯爵家の人間か」

「オールディントン伯爵の一人息子だよ。今は理由があってあそこで暮らしてるけど、やがては爵位を継ぐ身だし、悪くないでしょ?」

「マッドという青年も貴族なのか?」

「ああ、彼? 彼は違うよ」

 フフッと含み笑いをしたユアンは、マッドについてはそれ以上を語ろうとしなかった。あの草原の中にポツンと佇むアパートには本当に『ワケアリ』な人間ばかりが集められていて、いかにもユアンといった人選にアルヴァは深々とため息をつく。

「相変わらず、顔が広いな」

「それが僕の天命みたいなものだから。じゃあ、そろそろ帰るね。たまにはこっちにも遊びに来てよ」

 レイチェルも待ってるからと言い捨て、一方的に話を終えたユアンはさっさと姿を消す。天命か……と、ポツリと独白を零したアルヴァはデスクの引き出しを開け、一人きりになった部屋で煙草に火をつけた。






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