卵の殻が割れるとき

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 夏月かげつ期最後の月である伽羅茶きゃらちゃの月の二十五日。その日も夏の夜は穏やかに明け、雲一つない夏空には灼熱の太陽が昇っていた。丘の上に建つトリニスタン魔法学園アステルダム分校の校舎では東から差し込む日差しが燦々と廊下や教室を照らしていたが、そんな校舎の内部にあって一つだけ、夏の日差しをまったく取り入れない部屋が存在している。校舎一階の北辺にある保健室と表裏一体のその部屋で、宮島葵は朝から簡易ベッドに横たわっていた。

「もういいよ」

 半眼になって天井を見つめていた葵の視界に、この部屋の主である青年の顔が唐突に割り込んできた。白衣を身につけている彼はこの学園の校医で、名をアルヴァ=アロースミスという。危うく眠りに落ちそうになっていた葵は目をこすりながら上体を起こし、ベッドから下ろした足を靴に突っ込みながらアルヴァに話しかけた。

「私、大丈夫そう?」

 葵はこのところ、とある事情からアルヴァの『診察』を受けている。だが彼の『診察』は葵のよく知るそれとは違い、脈を取ったり心音を確かめたりといったことは一切しないのだ。体に触れもしないアルヴァが見ているのは『魔力』であり、その具合は説明を受けなければ分からない。しかしこの朝も、アルヴァは決まり文句を繰り返しただけだった。

「今のところ問題はないけど、しばらくは経過を見せてくれ」

「それって、どのくらい?」

「そうだな、旅の間は様子を見させてもらうよ」

 アルヴァが何気なく口にした『旅』とは、葵の見聞を深めるために提案された世界一周旅行のことである。今の今まで旅行のことをきれいに忘れ去っていた葵は思わず、カレンダーを求めて周囲を見回してしまった。

「何を探しているんだ?」

「今日って何日だっけ?」

「伽羅茶の月の二十五日。あと五日で夏が終わるよ」

「あと五日……」

 それは旅が始まるまでのカウントダウンであると同時に、とある約束のタイムリミットでもあった。あと五日という重みを改めて感じさせられた葵は無理を承知で口火を切る。

「アル、あのさ……」

終夏しゅうかの儀式なら出ないよ」

 取り付く島もなく却下され、言いたいことを見事に先読みされた葵は深々とため息をついた。

「アルさぁ、何でそんなに人前に出たくないの?」

 葵も注目を集めるのは好きな方ではないが、校医という仕事さえも代理にやらせているアルヴァの引きこもり方は異常である。葵が常々思っていたことを言葉にしてみると、壁際のデスクに腰を落ち着けたアルヴァは言葉を濁すでもなく答えを寄越してきた。

「いざという時のため」

「何それ? どういうこと?」

「その方が都合がいいんだよ。色々とね」

 色々と都合がいい、これもまた知り合った当初からアルヴァが好んで使う決まり文句だ。今までは何となく自分を納得させることで聞き流してきたが、今は違う。情報提供を惜しまないという約束をアルヴァと交わしているため、葵は少し強気に出てみることにした。

「もっと分かりやすく言ってよ。情報をくれるって約束でしょ?」

「……そうだね」

 意外にもアルヴァがあっさりと非を認めたため、強気に出た葵の方が面食らってしまった。だがアルヴァの真意を知っておきたいのも本音だったので、葵は黙して彼が言葉を次ぐのを待つ。少し考えるような間を置いてから、アルヴァは話を続けた。

「ミヤジマは伏兵という言葉を知ってる?」

「待ち伏せしたりとかしてオイシイところをかっさらってく人のことでしょ?」

「その言い方だと何か語弊があるけど、まあいいや。僕はね、そのオイシイところをかっさらってく人の立場なんだよ」

「そうなりたいんじゃなくて? もう決まってるの?」

「そう、もう決まってるんだ。そういう立場の人間は前に出ちゃいけないんだよ。隠れてなきゃ伏兵の意味がないだろ?」

「……分かるような、分からないような」

「そのうち分かるようになる……とは言いたくないな。出来ればこのまま隠れていたいからね」

 真顔のままそんなことを言ってのけるとアルヴァはその後、だから式典には出ないのだとしっかり釘を刺してきた。攻勢に出たつもりがすっかり丸め込まれてしまい、葵はため息をついて小さく首を振る。葵から反論が出ないのを確認すると、アルヴァはさっさと話を変えた。

「旅行のことだけど、荷物は少なめにね。終夏の儀式が終わったらその足で出発するから」

 アルヴァの意識はもう、夏を終わらせる儀式を通り越して完全に旅行へと傾いているようだ。彼の態度がいつになく柔和なので反撃の糸口を掴み損ねた葵は引き下がり、すごすごと『アルヴァの部屋』を後にする。廊下に出たところで友人の姿を発見したため、葵は彼女の傍へ寄った。

「どうやった?」

 保健室の壁に背を預けて葵を待っていた少女の名はクレア=ブルームフィールド。彼女は葵が『診察』を受けていることを知っていたため、開口一番に体のことを尋ねてきた。自覚症状も何もないので、葵は顔の前で軽く手を振る。

「ぜんぜん大丈夫」

「さよか」

 クレアがホッとしたように息を吐いたのは、葵が『診察』を受けることになった一因が彼女にもあるからだ。クレアはまだそのことを気にしているようだが、特に不調を感じてもいない葵はサラッと流して話題を変えた。

「アル、やっぱり出て来てくれないって」

 葵が愚痴っぽく報告すると、クレアは複雑そうな表情になって空を仰ぐ。

「その話、うちは複雑な気分や」

 アルヴァが表に出るようになれば会える機会は増えるが、それは同時に学園中がアルヴァという存在を知ることにもなる。そうなればあの容姿だ、女子生徒が騒がないはずがない。今までのように自分だけのものにもしておきたいが、羨ましがられて優越感にも浸ってみたい。クレアがそんな、本筋とはまったく関係のないところで熱弁を振るうので葵はポカンと口を開けてしまった。

「ああ、でも、ハーヴェイ様とアルヴァ様が並び立ってるお姿っちゅーのも見てみたいなぁ」

「ちょ、クレア、ストップ!」

 瞳を輝かせて夢見る乙女になってしまっていたクレアを何とか現実に引き戻した葵は、呆れを表情に滲ませながら言葉を次いだ。

「そういうことじゃないでしょ?」

「お嬢はマジメやなぁ。あないな約束、お嬢には関係ないんやから放っておけばええやん」

 葵がアルヴァを表舞台に立たせようと努力しているのは自身のためではなく、アステルダム分校のマジスターであるオリヴァー=バベッジという少年に助力を乞われたからだ。葵に頼みごとをしてきたオリヴァーの目的さえも自身のためではなく、彼は友人であるキリル=エクランドのためにそれを成し遂げようとしている。たまたま葵がアルヴァと親しいがために仲介役をしているのだが、確かにクレアの言う通り、アルヴァを表に引きずり出したところで葵自身には何のメリットもない。それでも、葵は微かに表情を曇らせた。

「それはそうなんだけどさぁ、オリヴァーに頼まれると断れなくて」

「なんやなんや? アッシュっちゅーもんがありながらさっそく浮気かいな?」

「ちがっ……!」

 クレアがからかうように言うので、真っ赤になった葵は反論しようとした。しかし葵が二の句を次ぐ前に扉が開いたため、保健室前の廊下で話しこんでいた少女達はビクリと体を震わせる。保健室から廊下に顔を覗かせたアルヴァは、とっくに授業が始まっていながら長話をしている少女達を見咎めて小さく嘆息した。

「まだ立ち話を続けるつもりでしたら、中へどうぞ」

 クレアが一緒にいたからなのか、そう言ったアルヴァの声に棘はなかった。アルヴァの誘いを断るはずもないクレアが喜々として保健室に入って行ったので、葵も仕方なく後を追う。葵とクレアに魔法で紅茶を淹れると、アルヴァは仕事があるからと言って別室に引き上げていった。

「優しいなぁ、アルヴァ様」

 アルヴァの前では猫をかぶっているクレアも、彼の姿が見えなくなると途端に素の口調で喋り出した。彼女はアルヴァが親切にしてくれたと単純に思っているようだが、葵は彼が思惑のない親切などしないことを知っている。保健室前の廊下で話をしているのさえ筒抜けなのだから、この会話もどこかで聞いていることだろう。そう思うと葵は慎重になってしまったが、そんなこととは知らないクレアはあけすけに話を再開させた。






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