卵の殻が割れるとき

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 一人用にしては広すぎる天蓋つきのベッドで就寝間際の読書をしていた少年は、不意に訪れた異変に弾かれたように顔を上げた。鮮やかな金髪に紫色の瞳といった容貌をしている彼の名は、ユアン=S=フロックハート。シャツ一枚の姿でベッドを飛び出した彼は靴も履かず、素足のまま窓辺へと走り寄った。部屋の大きさに比例して大きくとられた窓からは、平素であればくすんだ色彩の月明かりが差し込んでくる。しかし今宵、空は鈍色の雲に覆われていて、夜空を支配しているはずの月はその行方をくらませていた。

「ユアン様?」

 室内で紅茶を淹れる準備をしていたメイド服姿の少女が、主人の異変に訝しげな声を投げかけてくる。しかし驚きに目を見開いている今のユアンには、彼女の問いかけに答えることは出来なかった。肩に魔法生物を乗せているメイドの少女は名をクレア=ブルームフィールドといい、手を止めた彼女はテーブルを離れ、窓辺で立ち尽くしている主人の傍へと寄る。

「いかがなさいました?」

 少し身を屈めたクレアがユアンの顔色を窺った次の瞬間、豪奢な飾り枠を持つ窓に何かが打ち付ける音がした。異音を耳にしたクレアはメイドらしく鋭い視線を窓へと向かわせたが、その正体が雨音であることを知るや否や途端に表情を緩める。どこかで儀式でもしているのだと、彼女は思ったらしかった。この雨を目にした大方の者が今まさに、クレアと同じ感想を抱いているだろう。魔法に精通した者であれば、あるいは違った見方をしている者もいるかもしれない。だがユアンと同じ目線に立ってこの雨を見ている者は一人もいない。不意に頬を撫でて行った冷涼な空気の中に雨の精霊の最後の言葉を聞いたユアンは、堪えきれずに顔を手で覆った。

「ユアン様!?」

 普段は子供らしさを見せないユアンが突然泣き出したことですっかり動揺してしまったクレアはひとしきりオロオロした後、部屋を飛び出して行った。彼女が立ち去る前にクレアの肩口から飛び下りた魔法生物が足下に寄って来たので、ユアンは泣きながらワニのような体をしている彼を抱き上げる。マトという名の彼は人語を操ることは出来ないが、こうして触れ合えば意思の疎通は出来るのだ。触れ合ったマトから慰めるような思念が伝わってきたため、ユアンは彼に泣き顔を寄せながら言葉を紡ぐ。

「ごめん。卵、割れちゃったみたいだ」

 マトも、彼のパートナーであるクレアも、ユアンが魔法の卵マジック・エッグの中に創った模造世界イミテーション・ワールドで暮らしていた。しかしユアンの謝罪は、彼らの『家』を奪ったことに対するものではない。マトから友人を奪ってしまったことを、ユアンは深く後悔しているのだった。


――出会わなければ良かったなんて、思わない


 かけがえのない時間を共に過ごせたからと、マトがいつになく強い調子で言う。どんなものでも包み込んでしまうような彼の優しさはきっと、傷ついていた彼ら・・の心をも癒してくれたに違いない。その証拠に、テラスへ出て触れてみた雨は、とても暖かかった。

「ユアン様」

 マトと一緒に降りしきる雨に打たれていると、不意にクレアのものではない女性の声が聞こえてきた。髪を伝う雫で泣き顔を隠したユアンは、平気な顔を作ってから窓辺を振り返る。そこに佇んでいたのは見慣れた姿で、ユアンはマトを腕に抱きながら彼女の傍へと寄った。縁なしの眼鏡とアップスタイルにしている金髪がトレードマークの彼女は、名をレイチェル=アロースミスという。レイチェルの後ろには控えるようにクレアが立っていて、ずぶ濡れのユアンを見た彼女は慌ててタオルを取りに行った。

「後はわたくしが」

 レイチェルがそう声をかけたため、彼女にタオルを渡したクレアはユアンの腕の中にいるマトを引き取ってから部屋を出て行った。クレアとマトがいなくなると、広い室内は急に静かになる。レイチェルが頭からタオルを被せてきたため、ユアンは俯いたまま口火を切った。

「話してる間、僕の顔見ないでよ?」

「分かりました」

 レイチェルの声音には抑揚がなく、口調も素っ気ないものだった。しかしこれが彼女の話し方なのであり、そのことを承知しているユアンはぽつりぽつりと、彼女に内緒にしていたことを語り出す。

「雨の精霊と友達だったんだ」

「そうですか」

 他の人間が聞いたら腰を抜かすようなことでも、レイチェルは滅多なことでは驚きを露わにしない。たぶん驚かないだろうなとユアンも思っていたので、彼はそのまま話を続けた。

「僕が知り合った時から、彼女は還りたがっていた。だけど僕は、まだまだ彼女と一緒にいたかったんだ。だから、約束した。卵の殻が割れてしまうまで、そこにいるって」

卵の殻コース、ですか」

「前にアルが、魔力の中に部屋を閉じ込めちゃうってのやってたでしょ? あれの、世界版」

模造世界イミテーション・ワールドを創った、そういうことですね?」

「うん、そういうこと。思ったより簡単に創れたけど、維持させる方が大変だった」

「分かりました。話を続けて下さい」

 イミテーション・ワールドを創る魔法はまだ研究途上のもので、それを成功させたのはおそらくユアンが初めてだろう。それでも話の道筋さえ通ってしまえば、レイチェルはもう頓着しない。ここは褒めてほしかったところだけに少し物足りなさを感じながら、ユアンは話を続けた。

「でも結局、卵は割れちゃった。だから彼女も世界に還ったんだ」

 今、外で降り続いている雨は彼女の想いの残滓だ。人間に利用されることを嫌い、魔法を疎んだ彼女はもう、言葉を交わせるような存在ではなくなってしまった。そのことがユアンにはひどく悲しかったのだが、レイチェルは淡々と話を先に進める。

「雨の精霊のことは、よく解りました。では、彼の精霊と共にユアン様の寝所を訪れたもう一つの存在について、話を聞かせていただきましょう」

「そんなことまで分かっちゃったの?」

「ユアン様の寝所に賊の侵入を許すなど、あってはならないことですから」

 フェアレディに顔向けが出来なくなると、レイチェルは淡白に言う。レイチェルの手からタオルを奪ったユアンはベッドの際に腰かけてから『もう一つの存在』について説明を加えた。

「彼は、召喚獣だよ」

 召喚獣とは世界の壁を越えてやって来た、異世界の住人のことを指す。ユアンが召喚してしまった宮島葵という少女もそうだが、この世界には様々なタイプの召喚獣が存在している。ユアンが生み出したイミテーション・ワールドでアパートの管理人をしていた青年もまた召喚獣と呼ばれる存在で、雨の精霊と共に別れを告げにやって来たのは彼だった。

「召喚獣の多くは魔法によって無理矢理に連れて来られてるけど、彼は自ら望んで世界の壁を越えたんだ」

 まだ生まれ育った世界にいた頃、半人半獣の青年は群れで狩りをして暮らしていたらしい。狩りをする以外は自由気ままに遊び、好きな時に寝る。そんな日常の繰り返しが退屈でたまらなかったのだと、いつだったか彼が言っていた。

「群れでの生活はぬるま湯に浸かっているみたいに居心地が良くて、抜け出せない泥沼にはまっているように居心地が悪かったんだって」

「不思議な例えですね」

「ないものねだりだよ。群れを離れて気持ちが晴れたって言ってたけど、帰りたい気持ちもあったんじゃないかな」

 イミテーション・ワールドを青年の故郷に似せて創ったのは、ユアンが彼に望郷の念があることを感じ取ったからだった。故郷を夢見ながらも、今さら帰ることは出来ない。それは世界に還ることを望んでいた雨の精霊と似通った気持ちで、彼らは寂しさを共有していた。だから雨の精霊が『還る』とき、彼も一緒に連れて行ってしまったのだ。

「お別れだよ。彼らと一緒に月を眺めた夜には、もう帰りたくても帰れないんだ」

 例えば外出先から家に帰りたい時、ユアンは一言呪文を唱えるだけで望んだ場所に帰ることが出来る。だから、今まで分からなかった。帰りたくても帰れないという気持ちが、どれほど切なく苦しいものなのか。

「アオイに、ひどいことした」

 泣き顔を見せないために引き寄せたレイチェルの体に縋りながら、ユアンはくぐもった声で懺悔した。ユアンの頭からタオルを退かしたレイチェルは、彼の濡れ髪にそっと指を差し入れる。

「そう思われるのでしたら、彼女に償いをしなければなりませんね」

「うん。幸せにするよ……必ず」

「ご自身で何を成すべきなのか分かっているのなら泣いている暇はありませんよ。さあ、涙を拭いて。論文を書きましょう」

「論、文……?」

 レイチェルが妙なことを言い出したので、呆気にとられたユアンは泣き顔を上げた。理知的な美女であるレイチェルはその魅力を余すことなく発揮した笑みをユアンに向け、流れるような動作で頷いて見せる。

「今回のことはユアン様にとって良い経験となりましたね。模造世界イミテーション・ワールドの確立と魔法の卵マジック・エッグの新たな使用法は雛形とするのに十分な素質を有しています。ユアン様の功績がまた一つ増えるのですから、ご両親もお喜びになられるでしょう」

「レイ……」

 友人との別れを惜しんで感傷に浸る暇さえ与えてくれない家庭教師の態度に、ユアンは何とも言えない複雑な気分になった。だがレイチェルは、人情の機微が分からないほど朴念仁ではない。これはきっと、彼女なりの慰め方なのだろう。長い付き合いながら未だにその性格を把握しきれない教育者の考えをそう推測することで自分を納得させたユアンは、子供らしからぬシニカルな笑みを浮かべてみせた。

「分かった。論文、書くよ」

「その前に着替えですね。クレアに用意させますので、お待ち下さい」

 淡白な調子で言い置くと、レイチェルはクレアの姿を求めて部屋を出て行った。レイチェルの姿が見えなくなると同時にベッドを飛び下りたユアンは窓越しに、雲が切れ始めている天を仰ぐ。世界をあまねく潤す雨はすでにやんでいて、窓ガラスに残った水滴だけが雨の精霊の気配をまだわずかに残していた。

「僕も、出会わなければ良かったなんて思わないよ」

 レインともムーンとも、そして葵とも。雲間から差し込む月の光芒が美しい夜に向かってそう語りかけたユアンは少しの間だけ、一人で感傷に浸っていた。






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