「今の、誰?」
不意に耳の近くで誰かの声がして、その唐突さと距離の近さに総毛立ってしまった葵は慌ててその場を離れた。逃げ出した先で恐る恐る背後を振り返った葵は、そこで目にした人物にあ然とする。癖のないサラサラの金髪に紫色の瞳を持つ少年は狼狽えている葵を見て、イタラズっこのような笑みを浮かべていた。
「ユアン!?」
「創立祭の夜以来だね。元気だった?」
体の重みを感じさせない様相で宙に浮いている少年の名は、ユアン=S=フロックハート。顔の横でひらひらと手を振っている彼は、葵を異世界へ召喚した張本人である。会いたくて仕方がなかった人物との再会を果たした葵はすぐに驚きを消し去り、宙を漂っているユアンの胸倉を掴まえて自分の方へと引き寄せた。
「聞きたいことがあるの」
「アオイが積極的になってくれて嬉しいよ」
逸る葵をさらりと躱し、ユアンは彼女の頬に軽く口づけた。しかし葵は、まったく動じない。無反応の葵を見てユアンは訝しそうな表情をした。
「あれ? 驚かないの?」
「このくらいのことでいちいち驚いてらんないよ。それより、話」
「じゃあ、くちびるにキスしていい?」
「あー、もう! うっさい!」
いつまで経っても話が進まないことに業を煮やした葵はユアンが望む通りのことを彼にしてやった。ユアンは瞠目した後、葵から顔を背けてさめざめと泣き真似を始める。
「前はキス一つで可愛く取り乱してくれたのに。どうしてそんなに荒んじゃったの」
「話、聞いて」
葵が静かに怒りを露わにすると、ユアンもさすがに軽口をやめた。ユアンが真顔に戻ったのを機に、葵は本題を切り出す。
「私が帰る方法がないって、どういうこと?」
「誰がそんなこと言ったの?」
「そんなの、一人しかいないでしょ?」
「アルかぁ……」
ユアンはそこで言葉を切り、しばらく考えを巡らせている様子で閉口していた。しかし沈黙は長く続かず、ユアンは間もなく口火を切る。
「アルがどういう風に伝えたのか分からないけど、方法がないわけじゃないよ。現に、アオイが今ここにいるわけなんだから」
魔法は普通、作用と反作用がペアになっている。例えば自然属性の魔法の場合、『強』と『弱』がそれに当たる。無属性魔法の一例としては『紅茶を淹れる』と『片付けをする』というように、相反する二つの魔法が存在するのだ。それは召喚魔法も同じことであり、ペアになっているのは『帰還』である。ただ生物を召喚する魔法は失われて久しいので、その復元に時間がかかってしまうのだとユアンは語った。
「だから、帰る方法がないっていう言い方は正しくないね」
時間はかかるかもしれないが望みがないわけではない。それがはっきりしただけでも葵の心はずいぶんと軽くなった。幸いなことにこの世界と葵が元いた世界では時間の流れが異なるため、こちらに一年滞在したとしても元いた世界では十二日にしかならないのだ。このところ鬱いでいた気持ちが少し楽になったところで、葵は次なる疑問をユアンにぶつけた。
「じゃあ、トリニスタン魔法学園が私の花婿探しの場所だっていうのは何なの?」
「そんなことまでバラしちゃったの? アルってばお喋りさんだなぁ」
「……ってことは、本当だったってことね?」
「う〜ん、それもちょっとゴヘイがあるかな。花婿探しの場所っていうよりは恋人候補と出会うための場所?」
「それ、変わらないから」
ユアンが真面目な顔をして似たようなことを繰り返すので葵は呆れてしまった。ユアンもアルヴァも、どうして他人の心を好き勝手にしようとするのか。葵がそのことを非難するとユアンは小さく苦笑を浮かべた。
「恋人は作ってくれたらいいなぁと思ってたけど、学園に通ってもらったのはアオイにこの世界でのいい思い出を作ってもらいたかったからなんだ」
「むしろあの学校に通ってから嫌な思い出ばっかり増えてくんだけど」
「いいことは何もなかった?」
「なかったことも、ないけど……」
トリニスタン魔法学園に通わなければ初恋の相手であるハル=ヒューイットとも、この世界でできた初めての友達であるステラ=カーティスとも出会うことはなかった。彼らのことを思えばユアンの問いかけに頷くわけにもいかず、葵は歯切れが悪いまま閉口する。完全に肯定することが出来ないでいる葵を見て、ユアンは破顔した。
「良かった、少しはいい思い出ができたみたいだね。さっきの彼もトリニスタン魔法学園の生徒なんでしょ?」
「さっきの彼?」
誰のことを言っているのかと考えこんだ葵は、先程までオリヴァーが屋敷にいたことを思い出した。ユアンが恋人かと尋ねてきたので、葵は苦笑いを浮かべながら首を振る。するとユアンはガッカリしたように肩を落とした。
「アオイを変えた人かと思ったのに、違うんだ?」
「私を変えたって、どういう意味?」
「だってアオイ、前に会った時より明らかに男慣れしてるんだもん」
からかっても反応が薄くてつまらないと、ユアンはいけしゃあしゃあと言ってのける。男慣れしたというよりは無理に慣れさせられたといった方が正しく、嫌な出来事を思い出してしまった葵は頭を振ることで記憶を抹殺した。
「でもさ、屋敷にまで来てるくらいなんだから、けっこう親しくしてる人なんじゃないの?」
「え? 何が?」
「さっきの彼だよ。格好良かったし、付き合っちゃえば?」
「……絶対イヤ」
オリヴァー自体は、嫌いではない。だがマジスターに関わるのも誰かに煽られるのも、もうまっぴらだと葵は思っていた。なによりつい最近、手痛い恋の終わりを経験したばかりなのだ。その傷もまだ癒えていないのに、新しい恋に踏み切るのは早すぎる。
「オリヴァーとは友達ってわけでもないし、むこうだって私なんか相手にしないよ」
葵はそこでオリヴァーの話を終わらせようとしたのだが、ユアンがふと顔色を変えた。それまでからかい半分に喋っていたユアンが不意に口を閉ざしてしまったため、不審に思った葵は眉根を寄せる。だが葵が問いを口にする前に、ユアンが再び口火を切った。
「さっきの彼の名前、もしかしてオリヴァー=バベッジ?」
「そうだけど? それが、何?」
「アオイ、マジスターに屋敷の魔法陣を教えたの?」
「教えてないよ。たぶん、調べたんじゃない?」
「確か、エクランド公爵のご子息が来たこともあったよね?」
何故ユアンがそんなことを知っているのかと訝った葵は、クレアの存在を思い出してすぐに納得した。クレアはユアンが送り込んできたメイドだったのである。ならばクレアからユアンに報告が行っていたとしても不思議ではない。それよりも別のことが気になった葵はそちらを尋ねてみることにした。
「何が気になるの?」
ユアンはおそらく、オリヴァーやキリルがマジスターであることを気にしている。葵にはその理由が分からなかったので問いを口にしてみたのだが、思案から現実に戻って来たユアンはまったく別のことを口にした。
「アオイ、引っ越しをしようか」
「はあ?」
ユアンが脈絡のないことを言い出したので同意も反対も考えが及ばなかった葵には眉をひそめることしか出来なかった。葵の反応をどう受け止めたのかは分からないが、ユアンはさっさと話を進めていく。
「けっこう長く滞在してるし、ここの眺めにはもう飽きたでしょ? 次はどこら辺の屋敷がいいかな?」
「ちょっと待ってよ。まだ……」
「屋敷選びは実際に見てみないことには始まらないよね」
葵の意見をきれいに無視したユアンは別の次元から魔法書を取り出し、それを開くとすぐに転移の魔法を唱え出した。
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