アルヴァとの話を終えて保健室を出た葵は、再び襲ってきた眠気と懸命に闘いながら校舎二階にある二年A一組の教室を目指した。ちょうど教室に入ったところで始業の鐘が鳴ったため、葵は教室の中央にある自席へと腰を落ち着ける。すると窓際の方から強い念のこもった視線を感じたため、廊下の方へとさりげなく顔を傾けた葵は言い訳を考えることで午前の授業を眠りこけることなく終えた。
「お嬢」
昼休憩の鐘が鳴って老齢の教師が教室を出て行くなり、葵はクレアに声をかけられてしまった。彼女が言わんとしている内容は、もうすでに分かっている。アルヴァの姉であるレイチェル=アロースミスを慕っているらしいクレアは、レイチェルによく似た面立ちをしているアルヴァに熱を上げているのだ。
「朝、どこ行っとったん?」
クレアがさっそく本題を口にしたため、葵は「きた」と思った。『保健室』へ行くなら自分も連れて行けとまで主張しているクレアに、しかし葵はアルヴァのことを明かすわけにはいかないのだ。
「えっと、トイレ」
「……へぇ?」
葵の眼前で腕組みをしているクレアの表情は暗に、「まったく信じていない」と言っている。追及されることを恐れた葵は頬を引きつらせ、無理矢理に笑みを作った。だが葵の予想に反し、クレアはそれ以上の追及をしようとしない。いつまで経っても疑問が降ってこなかったので、目を伏せてしまっていた葵は恐る恐る顔を上げた。
「あの、クレア……?」
「ようやく静かになりおったな」
答えになっていない独白を零し、クレアは胸の前で組んでいた腕をほどいた。クレアの言葉が何を意味するのか分からなかった葵は眉根を寄せながら辺りを見回す。するといつの間にか、二年A一組の教室からは他の生徒の姿が消えていた。
トリニスタン魔法学園に通う生徒は良家の子息ばかりなため、大半の生徒は昼休憩時に一時帰宅をし、自宅で昼食を取ってから再び学園へ戻って来る。そのため昼休憩の鐘が鳴ってしばらくすると、教室はおろか校内から人気が失せるのだ。まるでそれを待っていたかのように、クレアはニヤリと笑った。
「ほな、行こか」
「えっ?」
発言の真意を明かさないまま、クレアはさっさと歩き出した。立場上、彼女に逆らうことの出来ない葵は嫌な予感を覚えながらクレアの後に従う。普通に考えれば魔法陣が描かれている正門へと向かうはずだが、案の定、校舎を出たクレアは別の方角へ向かって歩き出した。
「どこ行くの?」
東へと向かう足取りに半ば答えを予想しつつも、問わずにいられなかった葵は疑問を口にした。先を歩いていたクレアは足を止めて振り向いてくれたのだが、その顔には相変わらず含み笑いが浮かんでいる。
「決まっとるやろ? 学園をしきっとるマジスターにアイサツに行くんや」
問いの答えを得た瞬間、葵は「やっぱり」と思った。校舎の東にはマジスター専用の施設が立ち並んでいて、一般の生徒がその方角へ足を向けることはほとんどないからだ。しかし再び歩き出したクレアは学園の事情など気にすることもなく、どんどん歩を進めて行く。
「ちょっと、待ってよ!」
無茶を見かねた葵はクレアに走り寄り、彼女の腕を引いて行動を止めようとした。だが一度は掴んだものの、葵の手はクレアの一振りによって簡単に払われてしまう。次の瞬間には逆に手を捕まえられてしまい、葵はギョッとした。
「マジスターはよう、
すでにシエル・ガーデンの情報まで仕入れているクレアは、どうあってもマジスターに会いに行くつもりのようだ。だがマジスターの一員でもない者が、その場所に許可もなく入り込むとどういうことになるのか、身をもって経験している葵はクレアに引きずられながらも必死で抵抗した。
「勝手に入るとまずいって!!」
「マジスターと仲ええみたいやし、お嬢なら顔パスやろ?」
「仲良くないし、無理だってば!」
「何でも言うこと聞く言うたの、忘れたんか?」
その話題を持ち出されると、葵にはもう黙ることしか出来なかった。葵が大人しくなったため、クレアは彼女を引っ張ったままズンズン先へ進んで行く。ついにはシエル・ガーデンの花園が見えてきてしまい、反抗も出来ない葵は心底困り果ててしまった。
(どうしよう……)
シエル・ガーデンはマジスターの場所である。そこへマジスター以外の人間が足を踏み入れると、キリル=エクランドが烈火のごとく怒るのだ。ただでさえ彼に敵意を向けられている葵は頭を抱えたくなった。
「で、どうやって入るんや?」
シエル・ガーデンは一見すると屋外にある花園に思えるが、実は花園全てがガラス張りのドーム内に存在する屋内施設なのである。葵とクレアはその際に立っているため手を伸ばせば届きそうな所に花があるが、それはガラスの向こう側にあるので触れることは出来ない。さらにこの施設の特徴を挙げると、シエル・ガーデンには扉のような出入り口は存在しないのだ。
「ここは転移魔法じゃないと入れないよ。でも私、転移魔法なんて使えないから」
「せやったら、どっかに隠し通路でもあるんやろ?」
「ユアンに聞いたの?」
隠し通路のことを知っていて口に出さずにいた葵は、クレアがすでにそのことを知っていたため苦い表情で問いかけた。何かが気に障ったらしく、クレアもまた渋い表情になりながら話に応じる。
「何でそこでユアン様が出てくるんや」
「違うの? だったら何で……」
「ミヤジマ=アオイはよく、シエル・ガーデンの周りをウロチョロしとる。女子の間では有名な話らしいで。おたく、よっぽど目の敵にされとんのやな」
「……マジスターと仲良くすると、クレアも同じ目に遭うよ?」
「仲良うするために会いに行くんと違うから大丈夫やろ」
ケロリとした表情で言ってのけたクレアは再度、葵に案内するよう促した。すでに隠し通路の存在も知られてしまっているのなら他にどうしようもなく、葵は言われた通りにクレアを内部へと導いた。
「へぇ、こないな通路があったんかいな」
クレアが物珍しげに独白を零したのは、その通路が外側からも内側からも完全に隠されているからである。この通路のことはおそらく、常日頃からシエル・ガーデンを利用しているマジスターでさえ知らないだろう。葵がそうしたことを教えてやると、クレアは納得したように頷いて見せた。
「この通路をユアン様が
「……ユアンって何者なの?」
身分の高い子供、ということくらいしか葵はユアンのことを知らない。しかしよくよく考えてみるとユアンには謎めいたところがあり、単に貴族の子供というだけではなさそうなのだ。クレアはユアンの私用人をしているので、彼のことはよく知っているだろう。訊いてみるいい機会だと葵は思ったのだが、問いを投げかけられたクレアは呆れた表情で振り向いた。
「何者も何もないわ。おたくかて、フロックハート家のことくらい知っとるやろ?」
クレアがさも当たり前だという調子で尋ねてきたので、深入りすると危ないと察した葵はそこで口をつぐむことにした。自ら問いかけておいて話を広げようとしない葵を見て、クレアは不可解そうに眉根を寄せる。だが彼女はその話題に言及することもなく、肩を竦めただけで話を終わらせた。
「お、あれに見えるはマジスターやないか」
花園の方へ視線を転じたクレアが口調を一変させたので、現在の状況を思い出した葵はサッと青褪めた。昼食時だというのに、シエル・ガーデンの内部にはマジスターが勢揃いしている。花園の中に置かれた真っ白なテーブルセットでお茶を愉しんでいる彼らは、こちらに気付いている様子もなく歓談を続けていた。
「さあ、行くで」
話をするために足を止めていたクレアが意気揚々と歩き出したので、葵は深いため息をつきながら彼女の背を追いかけた。
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