「ん……」
自室である202号室で安らかな眠りに落ちていた葵は顔に感じた違和感によって意識を取り戻し、瞼を下ろしたまま顔を歪めた。意識は眠りの底から現実に引き戻されたものの、まだ眠い。疲れきった体は意識を再び遠のかせようとしたのだが、顔にザラッとした感触を感じたため葵はハッと目を開けた。
「おはよう、マドモワゼル」
目を開けた時、視界を占めていたのは管理人の顔だった。昨夜交わした約束通りに起こしてくれた彼は、微笑みながら朝の挨拶を述べると葵の額にくちづけを落とす。刹那、早朝の静謐に包まれていたワケアリ荘に葵の絶叫が響き渡った。
「何事や!!」
「どうした!?」
葵の悲鳴から少し間を置いて、下着に近い寝間着姿のクレアとすでに服装を整えているアッシュが202号室に顔を覗かせた。勢い良くドアを破って入って来た二人は、室内の様子を見るなり凍りついたように動きを止める。畳に座り込んでいる管理人と彼らを交互に見た葵は、しどろもどろになりながら弁解を試みた。
「あの、違うの、これは……」
葵の言い訳は主にクレアに向けてのものだったのだが、こめかみに青筋を立てている彼女はもう話など聞いていない様子だった。ずかずかと室内に上がりこんできたクレアは鬼のような形相で葵の胸倉を掴み上げる。そして管理人の耳に届かないよう小声で、
「ちょっと面貸しぃや」
と言ったのだった。
会話を始めた管理人とアッシュを202号室に残し、葵とクレアはアパートの廊下へと出た。後ろ手に202号室の古ぼけた扉を閉ざしたクレアは、二人きりになるなり葵に詰め寄ってくる。
「色目使ったら許さんて、うち言うたよなぁ?」
「ち、違うんだってば。ただ、起こしてって頼んだだけだよ」
葵の予想では、管理人は扉の外から呼び声を発して起床を促してくれるはずだった。それが何故、彼のどアップで目を覚まさなければならなかったのか。それを知りたいのは他の誰でもなく葵だったのだが、クレアは納得していない様子でさらに問い詰めてくる。葵が困っていると、騒ぎを聞きつけたワケアリ荘の住人が次々と廊下に顔を覗かせた。
初めに顔を出したのは203号室の住人、マッドだった。スキンヘッドに色眼鏡といった一見怖い人のような容貌をしている彼は実は気が弱く、クレアが鋭い視線を向けるとすぐに扉を閉ざしてしまった。しかし、その奥から姿を現した十歳前後と思われる少女は、修羅場に臆することなく歩み寄って来る。ウルトラマリンが鮮やかな髪を肩口で切りそろえている彼女の名は、レイン。204号室の住人であるレインは葵とクレアの前でピタリと歩みを止めると、何故かクレアの肩に乗っているマトを見上げた。
「なんや、レイン。何か言いたいことでもあるんかいな?」
「キッティー、今朝の君はセクシーすぎるよ。アッシュとマッドには刺激が強すぎるみたいだ」
レインに難癖をつけていたクレアは背後から管理人の声がすると、ころっと態度を変えた。
「似合いませんか?」
「いいや。君はボディのラインがキレイだからね、よく似合っているよ。でも願わくば、君の美しさは僕だけのものにしておきたいな」
「着替えてきまーす」
やけに軽やかな声を発し、クレアは自分の部屋である201号室へと戻って行った。呆気にとられながら二人のやり取りを見ていた葵はふと、視線に気がついて顔を傾ける。すると曇天の空を映したようなレインの瞳と出会った。
「マトが何か言っていたかい?」
管理人が声をかけたため、レインはすぐ葵から視線を外して彼の方を見た。管理人の言葉に頷いているレインを、葵は不思議な思いで眺める。
(マトって人間の言葉は喋れないんじゃなかったっけ?)
実際に、レインがマトの言葉を聞いたと言っている時、傍に居合わせた葵は彼の意思を『言葉』として聞き取ることは出来なかった。しかし不可解に思ったのも束の間で、葵はすぐに自分なりの答えを得て納得する。
(レインもワケアリ、なんだ)
何と言ってもこのアパートの名が『ワケアリ荘』なのである。そこに集っている以上は誰もが何かしらの秘密を抱えていることは明らかで、葵は早々に詮索を諦めた。
「アオイも着替えてきなよ。いつもより早いけど、飯にしよう」
葵にそう言い置くと、アッシュは廊下に顔を出すなり再び内側にこもってしまったマッドの部屋へと向かった。アッシュの意見に賛同するかのように管理人とレインも連れ立って一階へと向かったので、葵も着替えをするために部屋へ引き返す。ハプニングによって全員が同時に目を覚ましたワケアリ荘ではその日、管理人も含めた全員集合で食卓を囲ったのだった。
夏期の空は雲一つなく晴れ渡り、丘の上に建つトリニスタン魔法学園アステルダム分校はまばゆい光に照らされていた。まだ生徒達が登校してくるには少し早い時間帯だったので、清涼な空気に満たされた朝の校舎は静まり返っている。クレアと共に学園へ登校した葵は、彼女がエントランスホールで「用事がある」と言って姿を消したので、人気のない校舎を一人で歩き出した。
(疲れた……)
朝からちょっとした騒動があったため、葵は授業が始まる前から疲れきっていた。今朝の騒動の原因は葵が独力で覚醒出来ないことにあり、やはり早急に『目覚まし時計』の代わりになるものが必要だと思った葵は校舎一階の北辺にある保健室へと足を向ける。
「ミヤジマ、これを」
白衣のポケットから何かを取り出したアルヴァが腕を伸ばしてきたので、葵は首を傾げながらそれを受け取った。緩く結んだ掌に収まったのは何か球形のもので、手を開いた葵は掌の上に乗っている物体に目を落とす。アルヴァに渡されたものは、全体的に淡い黄色をしている透きとおった球だった。
「うわぁ……」
まるでビー玉のような球は優しい光を纏っていて、生まれついた世界の月明かりを連想した葵は妙な懐かしさを覚えて嘆息した。ひとしきり球を観察した後、落とさないよう軽く手を握った葵はアルヴァに視線を傾ける。
「これ、何?」
「メザマシドケイというものの代わりだ。音でなくても、要は目が覚めればいいんだろう?」
「うん。でもこれ、どうやって使うの?」
「室内の目につく所に置いておくだけでいい。あとはその球が日の出を感知して、光で起こしてくれる」
「へぇ……」
室内が光で満たされる様子を想像した葵は不意に、寝過ごした日曜日のことを思い出した。まだ元の世界で暮らしていた頃、休日前は夜更かしをすることが当たり前だった葵は日曜日は大抵昼過ぎまで眠っていた。しかし太陽が高くなるにつれて自室は明るくなっていき、昼過ぎごろには眩しくて目を覚ましてしまうのだ。アルヴァのくれた球も、原理はそれと同じである。目覚ましといえば『音で起きる』ことしか頭になかった葵は、アルヴァの思いつきに素直な感心を示した。
「アルってすごいね。やっぱり、相談するならアルなのかも」
「それは、僕以外の誰かに何かを相談したと思ってもいいんだろうね」
アルヴァが当然のように質問を重ねてきたので、少し彼に感心を抱いた葵は『これさえなければなぁ』とため息をつく。しかし隠すようなことでもなかったので、葵は彼に携帯電話の一件を打ち明けた。
「ミヤジマが元の世界から持ち込んだものを素性の分からない人間に渡したのか?」
葵は大したことだと思っていなかったのだが、アルヴァは驚きと嫌悪に美しい顔を歪めている。何故そんなことをする前に自分の所に持ってこなかったとアルヴァが責めるので、ムッとした葵は反撃を開始した。
「アルが私を避けてたんだからしょうがないでしょ」
「……あの時期に起こったことなのか」
アルヴァは一時期、故意に葵から身を隠していたことがある。それについてはアルヴァも非を認めているので、彼は素直に失言を謝罪した。だが表情を緩めることはせず、アルヴァは険しい語調で言葉を次ぐ。
「僕が何とかするから、すぐに返してもらうんだ」
アルヴァがこうまで強く言うのは、携帯電話というものがこの世界に存在しないからである。
「それでいい。僕のことは信用してくれて構わないけど、あまり他人に気を許すものじゃないよ」
「……よく、自信満々にそんなこと言えるよね」
むしろ彼こそが、信用の置けない第一人者である。過去にアルヴァから手酷い仕打ちを受けている葵は皮肉に唇を歪めたのだが、アルヴァは心を動かされた様子もなく淡々と言葉を重ねた。
「ミヤジマの言い分も分からないではないけどね。僕と他の人間とじゃ、決定的に違うところがあるんだよ」
「その違いって何?」
「僕は絶対にミヤジマを裏切れない。それが僕と他の人間との違いだよ」
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