近くにいても、離れていても

BACK NEXT 目次へ



 夏月かげつ期最後の月である伽羅茶きゃらちゃの月の十二日。その日の早朝、丘の上に建つトリニスタン魔法学園アステルダム分校は昇ったばかりの朝日に照らされて西に影を伸ばしていた。まだ始業の鐘が届けられるよりもだいぶ早い時分のため、平素であればこの時間帯の校舎に人影はない。しかしこの朝は、五角形を円に近づけたような形状をしている校舎の廊下に二つの人影があった。緩いカーブを描いている廊下をゆっくりと進んでいるのは、少年と青年。二人とも漆黒の髪と同色の瞳の持ち主で、整った美貌もどことなく似ている。それもそのはずであり、彼らは歳の離れた兄弟なのだ。

「狭苦しい建物だ」

 とりとめなく校内を歩きながら、そんな感想を口にしたのは青年の方だった。彼は名をハーヴェイ=エクランドといい、ハーヴェイから少し離れて歩いているのが弟のキリルである。早朝の校内探索に決して乗り気ではなかったキリルは、さきほどから抗い難いほどこみあげてくるアクビと闘いながら押し黙ったままでいた。兄の前で大口を開けるのも、退屈そうに見える仕種をするのも無礼に当たる。生理現象であろうと、アクビなどしてはならないのだ。

「お前たちもこの校舎で授業を受けているのか?」

「オレ達は授業を受けていません」

 少し前を行くハーヴェイが不意に振り向いたため、それまで眠そうにしていたキリルは背筋を正しながら答えを口にした。幼少の頃から学園とは別に教育を施されているキリルにとって、分校ごときの授業など参加してもしていなくても同じものなのだ。それはマジスターの仲間であるウィル=ヴィンスやオリヴァー=バベッジも同じことであり、だからこそ彼らは「生徒」の枠組みに囚われない。ハーヴェイも公爵家の一員だが彼は王都にあるトリニスタン魔法学園の本校を卒業しているため、分校の事情には疎いのだった。弟から改めて分校の実情を聞いたハーヴェイは、何事かを思案するように顎に手を当てる。

「無意味だな」

 日常を簡単に否定されてしまったため、キリルはギクリとした。その後に続く言葉が怖くて、キリルは焦りを覚えながら話題を逸らす。

「お兄様、こんなに朝早くから校内を見て回るのは何のためなのですか?」

 数日前に唐突に現れてから、ハーヴェイは幾度か校内を散策している。初めは物珍しさからだと思えたが、こう幾度も同じ行為が続くと、そこには何かしらの意味があるのではないかと思えてしまう。思案の態度を改めたハーヴェイはキリルを見据え、意地の悪い笑みを浮かべながら口火を切った。

「それはつまり、この兄が何用でここに来たのか知りたいということか?」

 ハーヴェイの言い種は邪推するなと言っているようにも聞こえたし、理由を明かしてもいいと言っているようにも聞こえた。質問の真意を量りかねたキリルは言葉に詰まり、兄の鋭い視線から逃れるように目を伏せる。叱られた子供のように閉口してしまったキリルを見て、ハーヴェイは気軽な調子で言葉を続けた。

「エクランド家の人間にこの学園は相応しくない。と、私が言ったらお前はどうする?」

 それは、キリルが触れて欲しくなくて話を逸らしたはずの問いかけだった。本音とは裏腹な答えを強要する兄に愛憎の念を抱いたキリルは俯いたまま、胸中を悟られないように唇を噛む。

「お兄様がそう思われるなら、オレはそれに従います」

 短い葛藤の後、キリルはハーヴェイが望んでいるであろう答えを口にした。弟を意のままに従わせたハーヴェイは上機嫌な笑みを浮かべ、うなだれているキリルの頭を軽く撫でる。

「いい子だ」

 威圧するように見据えてくるハーヴェイの瞳も、優しく頭を撫でる何気ない仕種も、子供の頃と何も変わっていない。だがキリルはもう兄の意に副うことばかりを好しとする子供ではなく、自我の成長過程にある少年なのだ。当然のことながら兄の言葉に反発を覚えることもあるのだが、兄を慕う深い愛情を前にすると反抗心は途端に萎えていくのだった。

「そろそろ大空の庭シエル・ガーデンに行くか。クレアが来たら紅茶を淹れてもらおう」

 校内を歩き回ることにも飽きたのか、ハーヴェイはそう言うと踵を返して歩き出した。隣に並ぶことはなく、キリルはハーヴェイの少し後ろから兄の後を追う。それからは特に会話もなく歩を進めていたのだが、前方で不意に扉が開いたため、二人の視線は一様にそちらに向けられた。

「ウィル」

 朝方の校舎に姿を現したのは、真っ赤な髪が印象的な小柄な少年だった。彼の名はウィル=ヴィンスといい、キリルと同じくアステルダム分校のマジスターの一人である。ハーヴェイの声に反応して振り返ったウィルは、兄弟の姿を認めて目を瞬かせた。

「こんな朝早くに何してるんですか?」

「ちょっとした探し物だ。ウィルこそ、ここで何をしていた?」

「奇遇ですね。僕も探し物です」

 笑みを浮かべることで一度ハーヴェイとの会話を切り上げたウィルは、視線を彼の後ろにいるキリルへと向けた。

「おはよう、キル」

「おう」

「二人揃って早朝散歩なんて、相変わらず仲がいいね」

 ウィルの何気ない一言にハーヴェイは笑みを作ったが、キリルは笑わなかった。キリルが口をつぐんだことで話が途切れたため、今度はハーヴェイが口火を切る。

「これからシエル・ガーデンに行くところだ。ウィルも行くか?」

「ああ、いいですね。僕もちょうど、クレアの淹れた紅茶が欲しいと思っていたところなんです」

 初めはクレアを蔑んでいたウィルも、ここ数日ですっかり彼女の淹れる紅茶にはまってしまっていた。学園内ではクレアもハーヴェイが主人のように振る舞っているため、シエル・ガーデンでのティータイムはさながら、エクランド家の私邸にいるようなものである。貴族の子弟であるウィルにとって、それは居心地の悪いものではなかった。

「そういえばキル、ハーヴェイさんにあのこと話したの?」

 ウィルから唐突に話を振られたキリルは、彼の言う『あのこと』の意味が分からなくて首を傾げた。話が通じていないことを見て取ったらしいウィルは、キリルと向かい合いながら補足する。

「エーメリー卿とアオイを殴りたいってやつだよ」

「ああ……」

 ウィルの発言を理解したキリルは顔をしかめ、曖昧に言葉を濁した。彼らをぶっ飛ばしてやりたい気持ちに変わりはなかったものの、それを兄の前で口にするのは躊躇われたからだ。しかし一度話題に上ってしまえばハーヴェイが興味を抱かないはずもなく、彼の視線は真っ直ぐに弟へと向かった。

「ロバート=エーメリーに会ったのか?」

「……はい」

「それで、何故彼を殴りたいのだ?」

 ロバート=エーメリーはトリニスタン魔法学園アステルダム分校の若き理事長である。キリルが彼をぶっ飛ばしたいと思ったのには複雑かつ幼稚な事情があり、それは一言で説明の出来る類のものではなかった。どう答えていいのか分からなかったキリルが黙り込んでいると、ウィルが皮肉混じりの口調で説明を加える。

「エーメリー卿がキルのやりたいことをジャマしたからですよ」

「やりたいこと?」

 ハーヴェイがウィルを振り向くと不意に、黄色い歓声が聞こえてきた。声のした方を振り向くと、そこには白いローブ姿の女生徒達の姿がある。どうやら生徒達の登校時間になったようで、エントランスホールの方からは次々と話し声が聞こえてきた。

「移動しよう」

 ここでは話が出来ないと判断したらしく、ハーヴェイは止めていた足を再び動かし始めた。転移魔法で移動すれば簡単なことなのだがハーヴェイは魔法を使わず、熱い視線を送ってくる女生徒達に応えながら花道を進んで行く。キリルとウィルは気前よく愛想を振りまいているハーヴェイより少し遅れて、彼の後を追った。

 白いローブの集団で作られた花道をしばらく進んで行くと、やがて集団の中から一人の少女が進み出て来た。彼女は他の生徒達と同じくトリニスタン魔法学園の制服を身にまとっていたが、ハーヴェイは特別に彼女の前でだけ足を止めた。

「おはようございます」

「おはよう」

 無表情のままきっちりとした礼をした少女に微笑みかけると、ハーヴェイは彼女を促して歩き出した。後に従うのが当然のことであるように、彼女もハーヴェイに続いて歩き出す。肩口にワニに似た魔法生物を乗せている少女の名はクレア=ブルームフィールドといい、クレアに対するあからさまな特別扱いを見せ付けられた周囲は水を打ったように静まり返ってしまった。

「キル?」

 クレアが登場してから急に落ち着きをなくしたキリルを訝ったウィルは、彼の顔を覗き込むようにしながら問いかけた。だがキリルはクレアからのあいさつにも応えず、しきりに周囲を窺っている。忙しなく動いていたキリルの視線がフードを目深にかぶっている人物のところで止まった時、ウィルは彼の不可解な言動に納得がいって一人で頷いた。






BACK NEXT 目次へ


Copyright(c) 2011 sadaka all rights reserved. inserted by FC2 system