紫陽花の陰

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 水の都に月が昇っていた。常に二つの月が夜空にあるこの世界では珍しい単色の月は炎のような紅で、王宮の景観を静かに染め上げている。寝付けなくてフラリと外へ出た葵は、水辺で足を止めて空を仰いだ。

(きれい……)

 魔法が使えない国にいるからなのか、今宵の月はなんだか胸に沁みた。一つしかない月の下に佇んでいると、ここが異世界であることが嘘のように感じられる。浮島で咲いているハインドランジアという花も、葵の刹那的な郷愁を煽るのに一役買っていた。

 紫陽花が咲いていた帰り道。置き忘れた傘を取りに学校へ戻ったりしなければ、もしかするとこんなことにはならなかったかもしれない。異世界へ召喚されるなどということにさえならなければ、そのまま何事もなく下校して、翌日にはまた学校へ行くという至極平凡な日々を送っていたはずなのだ。彼氏と鎌倉へ行くのだとはしゃいでいた友人のようにいつかは恋人をつくって、紫陽花が花開く道を一緒に歩く。そんな些細な願望を思い出してしまった葵はくすりと笑った。


『ならば何故、ハインドランジアを見て泣きそうな表情をしていたのだ』


 ふと、昼間ジノクに言われた科白が蘇った。夜空に二月が浮かぶ異世界へやって来て、もうどのくらい経ったのだろう。普段は気にしないように努めていても、やはり心のどこかに「帰りたい」という思いが潜んでいるのかもしれない。それは二つの世界の接点を見つけた時、不意に顔を覗かせる。今までにも幾度かそういうことはあったが、直近の記憶と重なるハイドランジアは強烈だった。

「帰りたいなぁ」

 思わず零れた呟きは誰の耳にも届かず、夜の静寂に呑まれていった。焦っても仕方がないことはすでに分かっていたし、願望だけでどうにかなるものでもない。ゼロ大陸へ帰ったら電話をしようと思うことで自分を慰めた葵は、涙が滲んでしまった目元を手で拭った。

「!?」

 唐突に背後から伸びてきた腕に抱きすくめられ、完全に不意を突かれた葵は目を瞠った。逃げ出そうとすると、男のものと思われる腕はさらに強い力で締め付けてくる。

「ちょっ……誰!?」

「なんだ、そなたか」

 答える声が聞こえてくるのと同時に力が緩んで、葵は慌てて男の腕の中から抜け出した。振り返って見るとそこに佇んでいたのはジノクで、葵は彼が零した独白に呆れかえる。

「なんだって……誰と間違ったのよ」

 旅に出た時は高等学校の制服を身につけていたのだが、今の葵はアオザイに似た服に着替えている。これはフロンティエールの民族衣装で、色彩によって身分の違いは示されているものの、王宮にいる者は誰もが同じ格好をしているのだ。さらにフロンティエールには黒髪の者が多く、ジノクの独白からも誰かと間違えられたことは明らかである。葵はそう思っていたのだが、ジノクはあっさりと「誰ということもない」と言ってのけた。

「間違ったわけじゃないの?」

「寂しそうに一人歩きをしている女の姿が見えたので、慰めてやろうと思っただけだ」

 夜道の痴漢じゃないんだからと、葵はジノクの言い種に対して胸中でツッコミを入れた。

「独り寝が寂しいのであれば、余のベッドで一緒に寝るか?」

「……けっこうです」

「照れ隠しをせずともよい」

「別に照れてないし、寂しいとかも思ってないから」

 ほっといてと言い捨てると、葵はジノクに背を向けて歩き出した。しかしまた背後から拘束されてしまい、耳元にジノクの囁きが降ってくる。

「何故、寂しくないなどと嘘を言うのだ?」

 拒絶が照れ隠しであることは全力で否定できるが、寂しくないという方は嘘だ。そこをピンポイントで見抜かれたことで、動揺した葵は抵抗するのをやめてしまった。すると肩を抱くジノクの手に力がこもり、背中から人肌の温もりが伝わってくる。寂しい夜に誰かの温もりが救いとなることを知っている葵は目を伏せた。

「!!」

 振り向かせられると同時にジノクの顔が近付いてきたので、我に返った葵は彼の口元を掌で押し返した。葵に思い切り拒絶されたジノクは体を離し、チッと舌打ちをする。

「ここはキスくらい受け入れるべき場面だろう。空気の読めぬ女だな」

「そんな空気は読めなくていい!」

 声を荒らげてしまった葵は改めて、レイチェルが言っていたのはこういうことかと実感した。ジノクは確かにムードを重視するタイプのようで、せっかくの雰囲気を壊された彼は不機嫌極まりないといった様子で顔を歪めている。はあ、と深いため息をついた葵は頭を掻き、それから改めて口火を切った。

「前に、寂しいから恋人をつくったことがあるの。でも本当に好きになれなくて、その人を傷つけた。だからもう、そういうのはイヤなの」

 寂しいから傍にいてもらいたいと思うのは、寂しさを紛らわせてくれる人ならば誰でもいいということだ。そんな思いで身を委ねてしまうのは相手にとても失礼である。だからもう、流されないと決めた。葵がそうした胸の内を伝えると、ジノクはふと真顔に戻った。

「それが一人の男を愛するということか」

「色々な人と一度に付き合えるのは、どの人に対しても本気じゃないからだよ。本気になったら、その人以外見えなくなるもん」

 その時、葵の脳裏に浮かんでいたのは初恋の少年の姿だった。あれが初めての恋だったということもあり、当時は本当に彼のことしか考えていなかったように思う。あの気持ちには他人が入り込む余地などないのだ。恋をするなら、そのくらいの方がいい。

「それに、相手にもそんな風に想ってもらいたいじゃない? お互いにそういう気持ちになれる人と両想いになれたら、きっとステキなことだと思う……んだけどなぁ」

 残念ながら葵にはそうした経験がないので、今はただの願望でしかない。葵が苦笑いを向けると、ジノクは夢から覚めたような顔で瞬きを繰り返した。

「それは……狭量と思われるのではないか?」

「別にいいじゃん、心が狭くたって。誰かを好きになったらそんなことに構ってられる余裕なんてないよ」

 蜜を求めて彷徨う蝶のようにフラフラと女の子の間を渡り歩く男よりも、情けない姿を晒してでも一人の女性を思い続けている男の方がよっぽど魅力的だ。王子にそんな説教をしてしまってから、それがまさしく初恋の相手のことを言っているのだと気がついた葵は頬を掻いた。

「ま、まあ、そんなわけなので、後ろから突然抱きついてきたりとか、キスしようとするのとかはやめてね? そういうのが苦手な人もいるんだってことを分かってもらえると嬉しいな」

「あ、ああ……」

「でも、慰めてくれたのは嬉しかった。本当は寂しかったから、ちょっと励まされたよ」

「あれしきのことならいくらでも……」

「だから、こーゆーのはイヤだって」

 またジノクの手が伸びてきたので、葵はそれを叩き落した。手の甲を叩かれたジノクはそれを自分の手で庇い、恨めしげな目を葵に向ける。

「少しくらい余の流儀に合わせろ」

「やだ。そっちこそ、少しはこっちの流儀に合わせてよね」

「そちの流儀?」

「どうせ慰めてくれるんなら、そうだなぁ……」

 慰め方にも、色々と方法はある。葵はスキンシップ以外の慰め方に考えを巡らせてみたのだが、けっきょく妙案は思いつかず、とりあえず「遊ぼう」とだけジノクに提案した。






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