カエルのおじいさま

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 目が覚めると夜中だった。空にはすでに月が昇っているようで、窓辺が赤く滲んでいる。頬にかかる髪を掻き上げながら体を起こした葵は、体がギシギシすると思いながらベッドを下りた。どうやら寝すぎてしまったらしい。

(日曜日とか、こんな感じだったな……)

 土曜の夜に夜更かしをしてしまうと、昼過ぎに起きてしばらくは頭痛と体の痛みに悩まされる。そして日曜日の夜は眠れなくなってしまって、月曜日は寝不足気味に学校へ行くのだ。寝起きの冴えない頭で懐かしい出来事を思い返した葵はシニカルに唇を歪めた。顔を上げてみると目に映るのは、見慣れた自室ではなく異世界の風景。寝起きではあってもさすがにもう混乱はなく、それが少しだけ寂しかった。

「目が覚めたか」

 不意に誰かの声が聞こえてきたため、油断していた葵は目を見開きながら辺りを見回した。月明かりの差し込む窓辺に椅子が置いてあり、そこに誰かの姿がある。それが誰なのかは考えるまでもないことで、葵は顔をしかめながらベッドに腰を落ち着けた。

「いつからいたの?」

「日が暮れてから参った。余も少し、眠りに落ちていたようだ」

 結婚式の準備で王宮内を走り回っていたために疲れたのだと、ジノクは事も無げに言う。また今宵も不毛な押し問答が始まるのかと、辟易した葵は深いため息を吐き出した。

「食事に手をつけていないようだが、腹は減っておらぬか?」

「いらない」

 つっけんどんに言い捨ててそっぽを向いたが、しばらくすると腹の虫が騒ぎ出してしまった。顔を真っ赤にした葵は焦って腹を押さえたが、圧迫されるほどに虫の音は大きくなる。ついにはジノクが笑い出したため、葵は口をヘの字に曲げた。

「来い」

 葵に短く告げると、ジノクは窓際に食卓を作り始める。腹が減っては戦は出来ぬと、苦しい言い訳で自分を納得させた葵は渋々食事の席に着くことにした。

 葵が食事をしている間、向かいの席に腰を落ち着けているジノクは何も言わずにこちらを見ていた。あまりに注視されるので居心地が悪く感じた葵はジノクを喋らせようと思い、自分から話題を振ってみる。

「ねぇ、リンさんってどういう人?」

「リン?」

 それまで微笑んでいたジノクの顔が、意外だと言いたげなものに変わった。葵は何故かと問われた時に返す言葉も用意していたのだが、ジノクは空を仰ぎながら答えを寄越してくる。

「あれは硬い女だ。優秀だが、融通が利かぬ」

「融通が利かないって、例えばどういうところが?」

「昔から、余が侍従と戯れていると『王宮内の風紀が乱れる』と言っては雷を落としてきた。他の侍従では余に色目を使って仕事にならぬというので、余の身の回りのことは大抵リンがやっておる。もっと人を使えと常々言ってはいるのだが、頑固でな」

 それは少し意味が違うのではないかと、葵は胸中でジノクに反論した。リンがジノクと甘い雰囲気を作り出す侍従をこっぴどく叱るのは、おそらく風紀のためではなく嫉妬だろう。自分の仕事を増やしてまでジノクの世話を買って出ているのも、単に好きな人の傍にいたいからだ。

(気付かれたくないのかな?)

 フロンティエールでは妻をたくさん娶ることが当たり前で、王族と平民の垣根もゼロ大陸に比べればかなり低い。ジノクに好意を抱いているのなら、他の侍従のように彼にアプローチすればいいのだ。そうすれば王子との恋も叶わぬ夢ではないだろうに、リンはそうした態度をジノクにまったく見せていないようだ。

(そういうことが出来る人だったら、あんな風にキレたりしないか……)

 葵に真っ向から向かってきたリンの瞳は、怖いくらいに真剣だった。他の侍従のように王子が自分以外を見ていてもいいなどとは、きっと思えないのだろう。

「リンが適任だと思ったのだが、他の侍従にするか?」

 話の途中で葵が考えこんでしまったため、ジノクは葵とリンが合わなかったのだと思ったらしかった。確かにリンは怖いが、だからこそ彼女は信頼できる協力者なのである。ここで代えられてはまずいと思い、葵は慌ててジノクの申し出を拒絶した。

「ねぇ、王子って告白とかされたことある?」

「コクハク?」

「誰かから好きだって言われること」

「数え切れぬほどあるぞ?」

「……たぶん、今考えてるのは違うと思う」

 どう説明すれば分かってもらえるかと、葵は考えを巡らせながら空を仰いだ。

「この人のことちょっと好きかも、っていう軽い気持ちじゃなくて、好きで好きでたまらないっていう感じの気持ち」

「余がそなたを欲しいと思うような気持ち、ということか」

「…………」

「そう言われてみると、余が今までに言われてきた『好き』は違うような気もするな」

 話が不穏な方向に向かいそうだったので身構えていた葵は、ジノクが思案顔になったのを機に緊張を解いた。ジノクは甘い言葉には慣れているようだが、やはり本気の告白をされたことはないらしい。もしリンから想いを告げられたら、彼はどう思うのだろうか。

「もしもの話なんだけどさ、もし、王子のことを本気で好きな女の子がいて、その子に告白されたらどう思う?」

「それはそなたのことか?」

「私のことは忘れて考えてみてよ」

 そこで不意に、ジノクが席を立った。彼の突然の行動に驚いた葵は目を瞬かせたが、ジノクから目を向けられたことでギクリとする。月明かりに映し出されたジノクの顔には表情がなく、何らかの感情を孕んだ瞳は和やかな空気を払拭するように鋭さを増していた。

「立て」

 冷ややかな口調と目つきが怖かったので、葵は言われた通りに立ち上がった。するとジノクがテーブルを迂回し、正面へと回りこんでくる。怯んだ葵は後退したが、すぐに背中が壁に当たってしまった。

「先程の問いだが、どうもせぬ。それがそなたではないのならな」

 仮定の話すらきっぱりと拒絶したジノクは、相変わらず鋭いまなざしで葵を見据えている。非常に、まずい雰囲気だ。そう直感した葵が逃げ出そうとすると、ジノクは彼女の体を壁に押し付けた。ジノクと壁の間に体を挟まれて、抜け出せない。体の隙間からするりと伸びてきた手に腰を抱かれて、さらには口唇までも塞がれた。

「っ……!」

 感情を注ぎ込むような激しい口づけは後に続く行為を予感させて、葵は小刻みに体を震わせた。ジノクの指が髪に触れ、口づけがだんだんと口唇から下がっていく。首筋に触れた口唇の感触と体をまさぐる指の動きが思い出したくもない過去を蘇らせて、葵は失神しそうな恐怖を感じた。知らずのうちに涙が頬を伝い、力の入らなくなった膝がカクンと折れる。背中で壁を擦りながらズルズルと座り込んだ葵にはもう、抵抗するどころか喋ることさえ出来なくなってしまっていた。

 腰を抜かした葵を抱え上げたジノクは窓辺を離れ、ベッドへと移動した。ベッドに座らされた葵はきつく唇を引き結び、何とか震えを抑えようと二の腕を抱く。しかし高まる緊張は震えをさらに強いものにし、呼吸までも圧迫してくる。だが身を削るような緊迫感は、突然降って湧いたゴンッという音によって一刀両断された。

 頭を押さえて床に蹲っているジノクの身に何が起こったのか、葵はたまたま目撃していた。突然空中に出現したタライが、ジノクの頭に落下してきたのだ。それの直撃を受けたジノクは大きくのけ反った後、今度は体をくの字に折り曲げてしゃがみ込んだ。その間もタライは床で乾いた音を立てていて、タライがようやく動きを止めると室内に静寂が戻ってくる。しかしその静けさは、すぐに再び破られた。頭を押さえたまま立ち上がったジノクが荒々しくタライを蹴飛ばしたからだ。

「何なのだ、このタライは!!」

 一体どこから湧いてきたのだと、ジノクは誰にともなく怒鳴り散らしている。苛立ちを露わにしているジノクを放心状態で眺めていた葵は、やがて我に返って周囲に視線を走らせた。何もない場所にタライが出現したり、それがジノクの頭に命中したのは決して偶然ではないだろう。葵には、助けてくれる人物に一人だけ心当たりがあった。

(ありがとう……)

 姿の見えないカエルに、葵は心の底からの感謝を捧げた。怒り狂っていたジノクはもはやそういう気分・・・・・・ではなくなってしまったらしく、ばつが悪そうな表情でこちらに向かってくる。タライの落下で頭が冷えた葵は、ジノクにきついまなざしを向けた。

「出て行って。私の前から今すぐ消えて」

 葵の怒りは、おそらくジノクにとっては想定外のものだったのだろう。葵にそう言われた後のジノクは傍目に見ると可哀相なほどに狼狽えだした。

「手荒な真似をしてすまなかった。そなたがあのようなことを言うので、つい……」

「無理矢理どうにかしようなんて最低」

「悪かった。もう、あのようなことはしない」

 ジノクは何度も頭を下げたが、簡単に許す気のなかった葵は閉口して顔を背ける。その後は何を言っても葵が口を開かなかったため、ジノクは一晩中謝罪を続けたのだった。






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