嵐、到来

BACK NEXT 目次へ



 アン・カルテという魔法によって世界の地図を描き出すと、夜空に二月が浮かぶこの世界には大陸が二つあることが見て取れる。葵達の通うトリニスタン魔法学園は東のゼロ大陸内にあり、この大陸はスレイバルという王国が統治していた。これに対して、西のファスト大陸には様々な国がある。その中でも極めて特殊なフロンティエールという国から、トリニスタン魔法学園アステルダム分校に留学生がやって来た。ジノクという名の彼はフロンティエールの王子である。

 編入生ということでただでさえ注目を集めていたジノクがいきなり葵に抱きついたため、二年A一組は騒然としてしまった。学園内で注目を集めるのは非常にまずいので、反射的に教室を飛び出した葵はジノクの手を引いて、すでに授業が始まっている校内を歩いている。一般の生徒が滅多に足を踏み入れない五階まで上がった後、葵は適当な部屋にジノクを連れ込んだ。やたらと広い部屋はサンルームのようで、葵も初めて足を踏み入れた場所だったが、今は珍しがっている場合ではない。

「なに考えてるのよ」

 掴んでいた手を離し、改めてジノクに向き直った葵は非難を声に滲ませながら口火を切った。公衆の面前で破廉恥な行為をされたこともさることながら、意味が分からないのは学園に編入してきたジノクの動機だ。フロンティエールを出る時にあれだけ辛辣なことを言ったのだから、本気で結婚を嫌がっていたことを分からなかったわけではないだろう。それなのに彼は今また、葵に会いたいからなどという理由でトリニスタン魔法学園に編入までしてきた。フロンティエールでの悪行の数々も異常だったが、ここまでくるとストーカーに近いものがある。言葉が通じる相手ではないので説得する自信はなかったが、早めに彼の暴挙を糾弾しておく必要があると思った葵は硬い表情のまま言葉を重ねた。

「私、あなたとは結婚しないって何回も言ったよね?」

「それは分かっている。だから結婚は、もういい」

 ジノクから予想外の答えが返ってきたため、過剰なくらい身構えていた葵は拍子抜けしてしまった。しかし彼の言葉を真に受けるとなると、ますますジノクが学園へやって来た意味が分からない。

「じゃあ、私に会いに来たってどういうこと?」

「ミヤジマ達がフロンティエールを去ってから、余も色々と考えたのだ」

「……何を?」

「そなたの言う通り、余は間違っていた。婚姻だけでもと急かしたが、やはりそのようなことくらいでは満足出来ないのだ。愛している者とは、一緒にいたい。ミヤジマ達がフロンティエールを去った後、心の底からそう思った」

 葵がフロンティエールを去った後の日々は退屈で虚しいものだったのだと、大きくとられた窓の外へ視線を転じたジノクは淡々と語った。遠い目をしている彼の横顔は心なしか、フロンティエールにいた時よりも若干大人びて見える。しかし彼が神妙にしていたからといって暴挙に出ないという保証はなく、そのことを身を持って経験している葵は警戒を解かずに話を進めた。

「まだ、私のことを好きだって言うの?」

「愛している」

 間髪を容れずに一段階上の愛情表現が返ってきてしまったため、頭痛がしてきた葵はこめかみを押さえた。結婚する気はない、付き合うつもりもないと、何度言葉にしてみてもジノクには通じない。ならばこれ以上、どうすればいいというのか。恋愛経験が豊富ではない葵は心底、困ってしまった。

(アルに相談してみようかな……)

 アルヴァは一応、自称恋愛上級者である。彼ならばジノクのことも直接知っているし、この泥沼を抜け出す妙案を出してくれるかもしれない。そこまで考えたところでふと、葵はあることに思い至って眉根を寄せた。

「もしかしてこの編入って、ユアンが一枚噛んでる?」

 周囲に人気がないことを十分に確認してから葵が問いかけると、ジノクはアッサリ頷いて見せる。やはりかと思った葵は頭痛の他に眩暈まで発症してクラクラしてきた。

(たぶん、アルは知らないよね)

 ジノクが編入してくることを事前に知っていれば、必ず一言は注意なり忠告なりがあっただろう。それがなかったということは、この迷惑極まりない事態を彼が知らなかったという可能性が高い。葵が一人でそんな考えを巡らしていると、ジノクが焦れたように言葉を紡いだ。

「話を元に戻したいのだが、いいか?」

「え? 何だっけ?」

「……それは、いくらなんでもつれなさすぎると思うぞ」

 ジノクが悲しそうに顔を歪めたが、葵には何のことだかさっぱり分からなかった。今にも泣きそうな表情になりながら、ジノクはやるせなさそうに自身の意図を説明する。先程の色恋問題が未解決だと聞き、葵は「ああ……」と呟きを零した。

「でもさ、私はもう『ごめんなさい』って言ってるじゃん? これ以上、どうしようもないよ」

「そなたは余の、自己中心的な態度が嫌なのだと言っていたな。確かに余は、そなたに対して心遣いが足りなかったのだ。言い方も、間違えた」

 本当はこうするべきだったのだと付け加えると、ジノクは膝を折った。唐突に土下座された葵はギョッとして、思わず数歩後ずさる。

「余は、そなたを愛している。だからミヤジマも、余を愛してください」

 顔を上げたジノクに上目遣いで『お願い』され、絶句した葵は身動きが取れなくなってしまった。ドキッとしてしまったのは王子としての体裁を捨て去ったジノクが見せた予想外の誠意のせいだったのか、彼の顔が葵のもっとも愛する芸能人に酷似しているからだったのかは、正直なところ分からない。ここまでのことをやってのけた人物に対して抱いた感情が、後者だったなら最低だ。そんなことを考えたおかげで我に返った葵は、慌ててジノクの傍らにしゃがみ込んだ。

「そんなことしないでいいから。頭、上げて?」

 こんな場面を誰かに見られでもしたら、色々な意味で大変だ。葵がそう付け加えると、ジノクは目を合わせて微笑んだ。

「ここはフロンティエールではない。余の王子としての尊厳など、どうでも良いのだ」

 国を離れてみて初めてそのことが分かったと、穏やかに微笑んでいるジノクは言う。葵にはその言葉の意味がよく分からなかったが、とにかく土下座を許したままでいるわけにはいかない。しかし強引に立ち上がらせようと手を伸ばすと、逆にその手をジノクに捕まえられてしまった。彼には前科があるだけに、肉体的な接触を危惧した葵は反射的に、自分の手を取り戻そうとする動きをする。その試み自体は成功しなかったのだが、ジノクは力任せに葵を引き寄せるようなことはしなかった。ただ手は捕まえたままで、彼は言葉を次ぐ。

「余に、そなたの価値観を教えて欲しい。ミヤジマに好かれるよう、努力したいと思っている」

 フロンティエールにいた時の彼は『変わる』ということの意味をまったく理解していなかった。葵は別れ際にそのことを非難してきたのだが、今はあの時とは心持ちが違うようだ。しかし大理石の床にべったりと座り込んだ葵は、深くて重い息をつく。

「前もさ、私のために変わるって言ってくれたよね? でも、あの時は口ばっかりだった。だから悪いんだけど、簡単には信用出来ない」

「今は、それでもいい」

「今、は?」

「一ヶ月。傍にいて、余がどう変わるのか見ていて欲しい」

 その結果、葵がどうしても好きになれないと言うのなら諦める。ジノクが腹を決めた様相でそう言うので、眉根を寄せた葵は「一ヶ月か……」と胸中で呟いた。

(それでスッパリ諦めてくれるって言うなら、そっちの方がいいかも)

 彼の母国には、ジノクを本気で愛している女性がいる。ジノクがこのままズルズルと葵への執着を引きずっていたのでは、十年も彼のことを思い続けているその女性が可哀相だ。

「……分かった。一ヶ月なら、いい」

 葵が頷いた刹那、ジノクは花が咲くようにぱあっと顔を輝かせた。それは十五歳の少年らしい無邪気な笑みで、ちょっとカワイイと思ってしまった葵は苦笑いを浮かべる。だがその『カワイイ』は、興奮した彼が抱きついてきたことによりすぐに撤回された。

「ちょ……! こーゆーのはイヤだってば!」

 葵が拒否すると、ジノクはすぐに体を離した。しかし彼の両腕は葵のうなじ辺りで結ばれたままで、完璧に拘束を解いたわけではない。むしろ至近距離で見つめ合う形になっている今現在の方が居心地が悪く、葵は斜め下方へと視線を逃した。

「離してよ」

「手荒なことはせぬ。だが余は、ミヤジマを口説きに来たのだ。その手段としてのスキンシップは容認してもらいたい」

 そのスキンシップの線引きを決めようとジノクが言うので、意味が分からなかった葵は目線を戻してしまった。しかしすぐ、ジノクの美貌と出会って再び目を伏せる。葵の視線が落ち着く場所を求めている間にジノクが話を進めた。

「キスはダメか?」

「ダメ! 絶対ダメ!」

「頬にでも?」

「ダメ!」

「額はどうだ?」

「それもダメ!」

「では、抱きしめるのは?」

「ダメ!」

「親愛を示すハグくらいは許してほしい」

 耳元での懇願には気を狂わせるような響きがあって、一秒でも早くこの体勢から脱したかった葵はハグの許可をジノクに与えてしまった。その途端、ジノクの胸に顔が埋まる。気安く肩を叩いてくる手には確かにいやらしさなど感じなくて、諦めた葵は彼の腕の中で嘆息した。

「でも、人前……」

 言いかけて、葵ははたっと口を閉ざした。人前ではダメ。そう言おうとしたのだが、逆に人目のない所でこういうことをされた方がまずいのではないだろうか。確かにジノクは少し変わったようだが、何と言っても彼は前科持ちだ。完全に気を許してしまうのは危険すぎる。

「……人前じゃなきゃやだ」

「良い趣味だ」

 気楽に同意を示したジノクは周囲をまったく気にしないタイプである。しかしそんな趣味のない葵はこれでまたしばらくは注目を集めてしまうだろうと、かなりげんなりしてしまったのだった。






BACK NEXT 目次へ


Copyright(c) 2012 sadaka all rights reserved. inserted by FC2 system