魔法を使わずに
(あの人かな?)
念のため周囲を見回してみても他に人影がなかったため、葵は門柱の人物へ向かって歩を進めた。
「あの……すいません」
歩み寄りながら声をかけると、門柱の影にいた人物がこちらを振り返った。仕立てのいい黒の外套を着込んだ紳士がシルクハットを外した刹那、葵は驚きに目を見開く。
「アッシュ」
口を突いて、呼び慣れた名が零れた。『アッシュ』は灰色の髪を持つ彼の愛称で、青年の本名はアイネイアス=オールディントンという。だが葵にとっては、彼はオールディントン伯爵家の人間ではなく、ただのアッシュという名の青年だった。
葵とクレアは以前、ユアンが創った
「何で、ここに?」
「ちゃんと、話がしたくて」
アッシュは葵がトリニスタン魔法学園の生徒であることは知っていたが、どこの分校に通っているのかまでは知らなかった。そのため
「ごめん、ごめんなさい!」
謝る以外に成す術がなく、葵はアッシュに頭を下げた。アッシュと別れる時、葵は自分の胸中をろくに語りもせず、彼にも口を挟む暇を与えなかったのだ。そんな別れ方をすれば禍根が残るのは当たり前で、アッシュには葵の不誠実さを詰る権利がある。だが彼は、謝って欲しくて探したわけではないと、抑揚のない声音で胸の内を語った。
「あの時、アオイがどういう気持ちでいたのかを教えて欲しいんだ。エリザベスが騒ぎ立てて、厄介事に巻き込まれるのが嫌になったから、もういいなんて言ったのか?」
アッシュが口にしたエリザベスという名の少女は、彼の
「そうじゃ、ないの」
アッシュの心を繋ぎとめようと必死になっているエリザベスを見て、葵は気付いてしまったのだ。自分は、彼女ほどアッシュのことを想っていない。ただ寂しい時、傍にいてくれる人が欲しくてアッシュと付き合っただけだということに。あえて言葉を選ばず、葵はそうした胸の内をアッシュに伝えた。
「僕……いや、オレは、それでもいい」
最低だと罵られ、一・二発くらい叩かれてもいいという覚悟でいた葵は、アッシュの予想外の反応に面食らってしまった。真っ直ぐにこちらを向いているアッシュの瞳は真摯だ。直視していられなくて、葵は目を伏せてから言葉を紡いだ。
「あんなにアッシュのこと好きな子がいるのに、そんなの無理だよ」
「エリザベスは関係ない。オレがアオイのことを好きなんだ」
「……ごめん。私が、ダメなの。アッシュのことはもう、そういう対象として見れない」
「……そう、か」
ショックを受けた表情で、アッシュは嘆息した。しかし長いため息を吐ききってしまうと、彼は笑みを浮かべる。
「どうにも、ならないんだな」
「ごめん……」
「もう、いいよ。どうしてフラれたのか分かってスッキリしたし、アオイの気持ちを変えられないことも分かったから」
そう言うと、アッシュは顔を下方へと傾けながらシルクハットを被り直した。葵の横を通り過ぎて行った彼は裏門に描かれている魔法陣の上に乗り、そこで振り返る。
「こんな所まで押しかけて来て、ごめん。じゃあ、元気で」
再会を約束しない別れの言葉を残して、アッシュは姿を消した。最後にもう一度低頭してアッシュを見送った葵は、魔法陣が輝きを失ってからも顔を上げられずに唇を噛む。俯いていると涙が零れそうだったので、やがて葵は勢いよく曇天を仰いだ。
(私に、泣く資格なんてない)
泣きたいのはむしろ、散々な思いをさせられたアッシュの方だろう。それなのに彼は責めることをせず、笑顔を残して去って行った。
(……ありがとう)
もう伝えることの出来ない謝意を胸中で呟くと、葵はシエル・ガーデンには戻らずに屋敷に帰ることにした。転移の魔法は使わずに、裏門をくぐって坂の道を下る。小雪が舞う道は頭を冷やすのに都合がよく、小一時間ほどかけて屋敷に帰り着いた時には感情の波がだいぶ静かなものになっていた。
「アオイ」
屋敷の玄関前にはクレアの姿があって、彼女は葵の姿を見つけるなり走り寄って来た。
「探したで。大丈夫か?」
「……うん。ごめん、何も言わずに帰って来ちゃって」
「話は後や。とりあえず、行くで」
そう言うと、クレアは葵の手を引いた。連れて行かれた先は一階のサルーンで、暖炉にはすでに火が入れられている。暖められた室内ではお茶をする準備までもが整っていて、クレアの手際の良さに葵は笑ってしまった。
「あ、
「うん、大丈夫だよ。ビックリはしたけどね、かなり」
「うちも驚いたわ。まさかあないに根性のある奴やとは思うてへんかった。それと、あの出で立ちにもビックリしたわ。最初、誰か分からへんかった」
クレアの話によるとアッシュは、昼の休憩を終えて学園に戻って来た生徒を呼び止めては、ミヤジマ=アオイという少女を知らないかと尋ねて回っていたらしい。いったん屋敷に戻っていたクレアがたまたまそこへ帰ってきたことで、彼らは再会を果たしたとのことだった。
「ほんまに貴族やったんやなぁ。物腰もなんや落ち着いとって、別人みたいやったわ」
「そうだね」
「で、凛々しい姿を見ても気持ちは変わらへんかったと?」
「……うん。よりを戻そう的なこと言われたけど、やっぱりダメだった」
「アッシュ、ほんまにアオイのこと好きやったんやな。生き別れるんが
「クレアのせいじゃないよ」
悪いのは全て、はっきりとした理由も話さずに一方的な別れを告げた自分だ。葵がそう言うと、クレアは苦笑いを浮かべた。
「そう思うんやったら、次はいい恋愛せなあかんな?」
「もう恋愛はいいよ。どっちみち、元の世界に帰る時には別れなきゃいけないんだし」
「何でや?」
「え?」
「別に別れんでもええやん」
元の世界に帰る時には一緒に連れて行けばいいと、クレアはとんでもないことをサラリと言ってのける。考えもしなかった見解に度肝を抜かれた葵は、しばし瞬きを繰り返した。
「いや……無理でしょ?」
「そんなのは当人達の気持ち次第やろ? 難しく考える必要なんてあらへん」
「だって、別の世界で暮らすって大変なことなんだよ? 私もけっこう苦労したし」
「せやけどそれ、過去形やろ?」
自分でも気付かなかった変化を指摘され、驚いた葵は目を瞠った。異世界暮らしが一年も経った今となっては、確かに以前ほど苦労をしているわけではない。慣れることの恐ろしさを改めて感じた葵は焦燥感に駆られたのだが、そんなこととは知らないクレアは朗らかに笑った。
「人間、何があっても意外と何とかなるもんや。せやから、つまらんことは気にせんと、思うようにしたらええねん」
「思うように……」
恋愛のことはともかくとして、クレアのポジティブシンキングには見習うべきところも多い。顔を覗かせた焦燥感を胸の奥に押し返した葵は気持ちを切り替えて笑みを浮かべた。
「ありがと、クレア。なんか、ちょっとやる気になってきた」
「そらええことや。で、今のところ二人の男がアオイに想いを寄せとるわけやけど、どっちかと付き合ってみようとかいう気はないんか?」
「それはどうでもいい」
クレアはあくまで恋愛関係の話をしているつもりのようだったのだが、葵の前向きな思考はすでに『元の世界に帰る方法を探す』という方に傾いていた。クレアに対してはもう質問をするのに制約がないので、葵は次々に思いついた疑問を投げかけてみる。それに律儀に答えながらも、恋愛をざっくりと切り捨てた葵に、クレアは若干呆れたような表情をしていた。
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