おかえり

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 世界が夏の空気に包まれた静かな夜、黄色い月明かりの下に少年と少女の姿があった。タキシード姿の少年とドレス姿の少女は向かい合っていて、お互いに言葉もなく見つめ合っている。やがて静寂を破ったのは、少年の方だった。

『好きだ』

 少女に向けた、愛の告白。少年のブラウンの瞳にはシックな黒いドレスを纏った少女しか映っておらず、彼の心も彼女にだけ向いていた。夜に舞い降りた天使のような微笑みで、少女も少年の想いを受け入れる。そして彼らは口づけを交わしたのだが……。

「何でそうなるのよ」

 自分の呟く声で葵は目を覚ました。瞳に現実を映しても、脳裏には先程の夢がくっきりと焼きついている。夢に見たのは数ヶ月前の、自分の記憶。途中まではその再現が行われていたのだが、口づけを交わした二人が静かに離れた後、夢は記憶から外れていった。夢の中の少年とキスを交わしたのが、いつの間にかクレアだということになっていたのだ。どうしてそんな夢を見てしまったのか、心当たりがあった葵は深々とため息をつきながら上体を起こした。

 ベッドを抜け出してカーテンを開けてみると、幾日かぶりに昇った朝日が新雪を煌かせていた。普段ならばキレイだと思える光景だが、隈のできた目には眩しすぎる。目を焼かれてしまった葵は痛みに涙を流しながらカーテンを閉め、その場で蹲った。しばらくすると痛みが引いて行ったので、顔を洗うために室内にある別室へと向かう。汲み置きの水で顔を洗ってから鏡を見ると、自分の顔がかなりひどい有り様になっていた。

(うわぁ……)

 ホラー映画に出てくる死人のような顔になってしまっているのは、まとまった睡眠がとれなかったせいだ。その理由は夢見の悪さのせいではなく、夜遊びに繰り出して行ったクレアにある。

 クレアとハルは昨日、衆人監視の中で堂々と交際をスタートさせた。そしてその夜には、クレアが初デートへと出掛けて行ったのだ。二人きりで何をして夜を過ごしたのかと思うと、もう気が気ではない。そんなこんなで、葵は熟睡の機会を逸してしまったのだった。

(だって、有り得ないじゃない。ステラはどうしたのよ)

 ハルはいとも容易くクレアの告白を受け入れて見せたが、彼には想い人がいたのだ。ステラ=カーティスという名の彼女を追いかけて、ハルはアステルダム分校を去って行った。幸せになったのだと思っていたのに、こんなのはあんまりだ。

 ふと、扉をノックするような音が聞こえてきたため、葵はベッドルームへと戻った。するとそこに、気になって仕方のない人物を発見した葵は反射的に頬を引きつらせる。しかし夜遊び帰りのクレアは葵の変化に気がつかなかったようで、明るく話しかけてきた。

「今起きたんか?」

「あ、うん……。クレアは今帰ってきたの?」

「せや。今日は午後から仕事やさかい、今から寝て仕事へ行くわ」

 だから学園には行かないのだと言い置くと、クレアはさっさと踵を返した。出て行こうとする彼女を、葵は慌てて呼び止める。

「ね、ねぇ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「ん〜? 何や?」

 デートはどうだったと訊きそうになり、葵は喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。そうではない。尋ねなければならないのは、もっと別のことだ。

「クレアってさ、『大人の男』が好きだったよね?」

「なんや、藪から棒に」

「いや、ほら、ハルってまだ子供だし、クレアが好きになるタイプとは違うんじゃないのかなぁと思って」

 クレアに訝しがられないように、葵はできるだけ第三者的な目線を装って尋ねてみた。自分でも何か思うところがあったのか、クレアは腕組みをしながら頷いて見せる。

「確かに、今まで好きになったタイプとはちょっと違うかもしれんなぁ」

「だよね? だったら何で、ハル?」

「男気があって、カッコええやん。アオイはそう思わへん?」

「男気……」

 ハルにそんなものがあっただろうかと、葵は思わず眉根を寄せてしまった。同意されなかったことに気を悪くした風でもなく、クレアは熱っぽく私見を述べる。

「ジノクもキリルも幼稚な愛情表現しか出来ん子供や。あの二人を黙らせた時の啖呵はシビレたわぁ」

「俺が売れられたケンカだ、ってやつ?」

「せや。あんな男らしい科白吐かれたら惚れてまうやろ」

 葵には、あの一言が本来のハルからかけ離れたものであるように感じられた。しかし今現在のハルしか知らないクレアには、あの一言が彼の性質を見極める上での重要事項だったようだ。本当のハルはあんなことを言わない人だとも言えず、葵は口をつぐむ。葵から反応が返ってこなくなっても、喋りに火がついたクレアは話を続けた。

「うちなぁ、今まで『大人の男』が好きなんやと思っとったけど、ちょっと違ったみたいや。うち、スマートな男が好きみたいなんよ」

 自然に腰を抱くことが出来たり、気障にならない口説き文句をさらっと言えたりする人がいいのだと、クレアは言う。それは確かに、過去に彼女が好きになった男達に当てはまるところがあるような気がした。しかし、とんでもない理由からクレアとの付き合いを了承したハルはスマートというより、どストレートだ。葵が遠慮がちにそのことを口にすると、クレアはまったく気にしていない素振りで笑った。

「あんなんは決まり文句みたいなもんや。実際、ハルはかなり手馴れててええわ」

 朗らかに言ってのけたクレアの発言が卑猥に聞こえてしまったのは、葵自身の問題だったのだろうか。眩暈を起こしそうな額に手を当てて、心が乱された葵はなんとか再起を図る。

(彼女がいるんだから、女の子の扱いには慣れてて当然だって)

 自分の考えでハッと我に返った葵は腕を下ろしてからクレアに顔を向けた。

「ねぇ、ハルはステラって子のこと何か言ってなかった?」

「ああ、昔の恋人らしいな。今はもう関係ない言うてたで」

 過去の恋のことは気にしない主義なのか、クレアはあっけらかんと答える。しかしその内容が、葵には衝撃的だった。

(関係ない、って……)

 それは、ステラとは別れたということなのだろうか。だから彼は、一人でアステルダム分校に戻って来たのか。

「じゃあ、うちはそろそろ寝るわ。アオイも早く支度せんと遅刻するで」

 そう言って話を切り上げると、クレアはアクビをしながら葵の部屋を出て行った。一人で私室に取り残された葵はその場を動くことが出来ないまま、思考の海に沈んでいく。

(ハルがステラと別れるなんてこと、本当にあるの?)

 いつからそうだったのかは知らないが、葵が出会った当初からハルは一途にステラを想っていた。先に本校への編入を決めたステラに置いていかれると絶望して、それなのに彼女らしい選択だと苦しそうに語っていた姿は今でも瞼の裏に焼きついている。その苦悩を乗り越えて、ハルはステラと共にいることを選んだのだ。そんな二人に一体、何があったというのだろう。

(どうしちゃったのよ……。ハルも、ステラも)

 ハルが語らないのならステラに会って、何があったのか聞きたい。だがそれは出来ないことなので、葵は他に方法がないかと考えを巡らせた。

(マジスターなら何か知ってるかな)

 オリヴァーが知らないと言っていたので望みは薄そうだが、尋ねてみる価値はある。そう思った葵は急いで身支度を整え、一人で学園へと向かった。






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