アステルダム分校にある『時計塔』でハルと別れた後、屋敷に戻った葵は寝不足が祟って眠りに落ちてしまった。覚醒したのは体を揺り動かされたからで、重い瞼を持ち上げてみるとぼやけた視界に誰かの影が映る。やがてそれがクレアであることが分かったので、葵はベッドの上で起き上がった。
「今、何時?」
「ナンジって何や?」
「あ〜……何でもない」
「寝ぼけとるんか?」
寝ぼけた頭でも自分が寝ぼけているという自覚があり、ベッドを下りた葵はクレアに「ちょっと待ってて」と言い置いてからフラフラと別室に向かった。溜め置いていた水で顔を洗うと少しはスッキリしたのだが、寝室に戻って来た葵の顔を見るなりクレアは眉をひそめる。
「ひどい顔やな」
「ん? 寝すぎでむくんでる?」
「……そうやない」
呟きながら目を逸らしたクレアには、いつもの元気がなかった。そこで初めてクレアの様子がおかしいことに気がついた葵は眉根を寄せる。
「学校で何かあった?」
「ちょっと、付き
葵の返事も聞かず、クレアはサルーンで待っているよう言い置くと姿を消した。急に寒さを感じた葵は厚手のカーディガンに袖を通し、言われた通りに一階のサルーンへと向かう。部屋の一面が窓になっているサルーンでは中庭に雪が降り注ぐ様が寒々しかったが、暖炉に火が入っていたので室内は暖かかった。
暖炉の傍でリクライニングチェアに腰かけて待っていると、やがてクレアがワゴンを手に姿を現した。手作業で紅茶を淹れ始めたクレアを見て、葵は首を傾げる。
(話でもあるのかな?)
話が長くなる場合には紅茶が付き物なので、葵はなんとなくそう思ったのだった。どうやらその通りだったようで、二人分の紅茶を淹れ終えたクレアは自分も椅子に腰を落ち着けてから口火を切る。
「話は、聞いた」
「話?」
「おたくとハルのことや」
クレアの口からハルの名前が出たので、ドキリとした葵はティーカップを手にしたまま動きを止めてしまった。表情まで凍っている葵を見て、クレアは深々とため息をつく。
「こないに分かり易いのに、何で今まで分からんかったんかな」
「ちょっと、待って。誰から何を聞いたって?」
「せやから、おたくとハルの過去や。好き、やったんやろ?」
「それは……」
葵は必死になって言い訳を考えたが、どう言い繕ったところで過去にハルを好きだった事実は変えられない。過去形ならば問題はないかと思い直した葵は、仕方なくクレアに頷いて見せた。
「確かに好き……だった、けど、本人には言ってないし、それに諦めたの」
「ハルが、ステラっちゅー女と本校に行ったからやろ? それも聞いたわ」
「……そっか。ステラのことも、聞いたんだ」
誰からどう話を聞いたのかは分からないが、ハルが一途にステラを想っていた過去も変えられない。クレアはすでにステラの存在を知っていたが、詳しい話を聞いた後では彼女に対する認識が変わったのだろうか。どことなく沈んで見えるのは、そのせいなのかもしれない。
「ステラはね、正統派お嬢様って感じの子だったんだけど、すごく芯が強い子だった。ハルもステラの、そういうところが好きだったみたい」
「過去のことは、どうでもええねん」
「過去じゃないよ」
ステラは元恋人などという存在ではなく、ハルは未だに彼女のことを想い続けている。この話をクレアにするのは躊躇われたが、彼女はすでに誰かから話を聞いてしまっているのだ。それならば自分の言葉で伝えたいと思い、葵は言葉を重ねた。
「こんなことクレアに言うのもなんだけど、でも、知ってて欲しい。ハルはまだステラのこと好きだよ。だけどクレアが、それでもいいって思えるのなら優しくしてあげて」
葵が力ない笑みを浮かべると、クレアは何故か目一杯口角を下げた。その表情はとても奇妙で、予想外の反応に葵は眉をひそめる。
「それ、どういう時の顔?」
「なんや、腹立ってきた」
「えっ、怒ってる時の顔なの?」
「アオイはちょお、黙っとれ」
凄みを利かせて葵を黙らせると、クレアは自身の肩口にいるワニに似た魔法生物に呼びかけた。クレアのパートナーである彼は、名をマトという。
「ハリセン……?」
「こぉんの、アホウがっ!!」
「いたっ!!」
マトが変態したハリセンに目を奪われているうちに、それで思いきりどつかれた。唐突な出来事だったので大袈裟に痛がってしまったが、実際の痛みはそれほどでもない。だが不意打ちを食らったショックは大きく、葵は叩かれた頭を押さえながら涙目でクレアを見た。
「いきなり何すんの!?」
「おたくがアホやからや! 心にもないこと言いよってからに!」
初めはクレアが何に怒っているのか分からなかったのだが、その言い分に葵はあ然としてしまった。だがよくよく考えてみれば、どこかで聞いたような科白だ。
『バカ!!』
心にもないことを笑顔で言ってきたハルに、葵も昼間そう叫んだ。クレアの憤りは、あの時に葵が感じたのと同じものだ。それが分かってしまうと途端に気まずくなって、葵は口をつぐむ。話が通じたことを見て取ったクレアはマトを元の形状に戻してからため息をついた。
「元恋人に未練を残してるような男に優しくするなんて、うちには出来ん。せやからそれは、女々しい男をそれでも好きやって思っとる女に任せることにするわ」
ハルのことを本気で好きなくせに、クレアは自ら身を引こうとしている。それが自分のためであることはもう分かっていたので、葵はひどい胸苦しさを覚えた。
「クレア、でも……」
「アホ! いつまで他人に気ぃ遣っとんのや! そんな暇があるんやったら自分のこと考えんかい!」
ステラのことも関係がない。葵が自分にまで嘘をついているのが腹立たしいのだと、クレアは一息に捲くし立てた。彼女のストレートな憤りが胸を塞いでいた様々なものを突き崩して行き、押し込めていた本当の気持ちが顔を覗かせ始める。それを再び殺すことはもう難しく、葵は呆けたような気持ちでクレアの顔を見つめていた。
「うちは身を引くんやない。女々しい男に愛想を尽かしたんや。そこのところ、勘違いするんやないで?」
最後に精一杯の強がりを言うと、クレアは「仕事があるから」と告げてサルーンを出て行った。取り残された葵は体から力が抜けていくのを感じて、リクライニングチェアに背中を沈める。
(
ハルが本来の人格を歪ませてまで自分に嘘をついているように、葵も自分の気持ちをごまかし続けてきた。葵にそうしなければならない理由があったように、ハルにも自分を偽らなければならない理由があるのだろう。ハルの本心が垣間見えてしまったのは、似ていたからなのかもしれない。だけど嬉しくはないと、葵は自嘲に唇を歪めた。
(ハル……)
下ろした瞼の裏に彼の姿を浮かばせ上げると、胸が切なく軋む。この気持ちは彼が本校に行ってしまう前に抱いていた感情と同じもので、葵はもう駄目なのだと思い知った。自分に嘘をつくことが自分だけのことで済むのなら、いい。しかし葵やハルの場合、その嘘が他人を巻き込んでしまうのだ。そうして、二人がかりでクレアを傷つけた。
嘘が絡み合って渦を巻いている今の状況を、何とかしなければならない。そう強く思った葵は瞼を持ち上げ、しばらく中庭に降る雪に目を注いでいた。
Copyright(c) 2012 sadaka all rights reserved.