ただいま特訓中

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 気がつくと、床に座り込んでいた。そこは先程までいたはずの広大な空間ではなく、四方どちらを向いても壁が近い小部屋だった。クレア・オリヴァー・マシェルの姿は見当たらず、その部屋の中にはキリルだけが佇んでいる。ついさっきあんなことがあっただけに、最悪だと思った葵は状況を確認しても口を開くことが出来なかった。

「おい」

 しばらくするとキリルから押し殺したような低い声が発されたため、怯えた葵はまた拒絶を示してしまった。葵の変化を直視していたキリルは眉根を寄せ、悲しげに顔を歪める。キリルの傷ついたような表情を見た葵は彼に『殴る』気がないことを実感して、そこでようやく体の力を抜いた。

(悪いこと、したかな)

 そう思った葵はキリルに謝ろうとして、やめた。もとはといえばキリルが粗暴な振る舞いをするから悪いのであり、そもそも葵はまだ『ノゾキ』の件さえも謝ってもらっていないのだ。そんな状況で自分だけ謝るのも癪だと思った葵が黙っていると、やがてキリルが結んでいた唇を開く。しかし言葉は発さずに、彼は再び閉口した。

(……?)

 何かを言いたげに、しかし言葉は発さずに口を閉ざしてしまう。キリルはそういった動作を二度、三度と繰り返し、結局は諦めた様子でため息をついた。その後、何かの努力をやめたらしい彼は平素の調子で言葉を紡ぐ。

「お前らの試験、やめさせてやるよ」

「……え?」

 何を言われたのか分からなかった葵は呟きを零すと、それきり反応を停止してしまった。葵が理解していないことを見て取ったキリルははっきりと、試験を受けなくて済むよう便宜をはかってやるという旨を言葉にする。どうやら厚意を向けられているらしいと察した葵は、しかし小さく首を振った。

「それはダメだよ」

 卑怯だから断る、ということではない。アルヴァが試験を受けろと言ったからには、そこには何か意味があると思ったからだ。しかしアルヴァのことは口外してはならないので、葵は追及されてしまう前に言葉を重ねた。

「私もクレアも、やるだけやってみようと思ってるの。だから気持ちだけもらっておくね」

 ありがとう。葵が最後にそう付け加えると、キリルは不機嫌そうな表情になってそっぽを向いてしまった。申し出を断られたことで機嫌を悪くしたのかとも思ったのだが、どうもそういうことではないらしい。つっけんどんな態度を取っていてもキリルは耳たぶまで赤くなっていて、彼が照れているのだと分かってしまった葵は複雑な気持ちで口元を緩ませた。

(気、遣ってくれたんだ……)

 キリルがさきほど言いよどんでいたのは、もしかしたら謝りたかったのかもしれない。しかし直接的な謝罪が出来なかったため、間接的に厚意を示すことで謝罪とした。もしこの推測が当たっているのなら、キリルはどれだけ不器用なのだろう。

(そういえば、キリルとまともに話したことってほとんどないなぁ)

 以前のキリルはいつも一方的に怒りをぶつけてくるだけの存在で、とっつきにくい事この上なかった。あの頃のキリルからは他人を気遣う心持ちなどないように思われたが、今は彼が冷酷無情というわけではないことを知っている。少なくともマジスターの仲間達の前では、彼はちょっとワガママが過ぎるだけの普通の少年なのだ。

(あの魔法のせい、だったのかな)

 キリルは以前、実兄によって魔法の実験台にされていた。そのせいで人格を歪められたらしい彼は、もともとは引っ込み思案な性格だったのだという。今の彼からは想像もつかないが、物を破壊したり人を殴ったりするような人物ではなかったのだとオリヴァーが言っていた。最近、マジスター以外にも気遣いを見せるようになってきたのは、キリルが『変わった』というよりも『元に戻って来ている』ということなのかもしれない。彼とちゃんと向き合ってみれば必要以上に怯えることもないと思った葵は、この機会にキリルと話をしてみることにした。

「あのさ、前から聞きたかったんだけど」

「……何だよ」

 友人と接するように自然な感じで話しかけてみると、キリルからは至ってまともな反応が返ってきた。やはり、変に冷やかされたりしなければ案外普通に話せる人なのかもしれない。そうした手応えを得て、葵はキリルとの距離感を探りながら言葉を続ける。

「私のこと、好きなの?」

「! バッカじゃねーの!? ちげーよ!!」

 ここは是非とも真相を確かめておきたかったところだったのだが、顔を真っ赤にしたキリルに力いっぱい否定されてしまった。その反応は明らかな天邪鬼だと思われたが、本人が否定する以上は本当に違うのかもしれない。判断のつかなかった葵は次にどう話を進めていいのか迷ってしまい、眉根を寄せて考えを巡らせた。その間に、てんぱっているらしいキリルはマシンガントークを始める。

「勘違いすんな! オレがお前を好きなんじゃねぇ、お前がオレにホレるんだ! そうじゃなきゃキスの練習とかしたのが全部無駄になるだろ!?」

「キスの、練習?」

 何だそれはと思った葵が訝しげに問い返すと、キリルは『練習』の内容をペラペラと捲くし立てた。どうやら彼は葵にヘタクソだと言われたのがショックで、人間を相手に実際のキス練習をしたらしい。それで格段にテクニックが上がっていたのかと納得するのと同時に、葵はキリルの破滅的な恋愛感に呆れてしまった。

「そんな練習、必要ないよ」

「えっ……」

 葵の一言に、それまで饒舌だったキリルは絶句する。彼のことを恋愛対象として見ていない葵は淡々と、自身が思ったことを述べた。

「誰だって初めから上手に出来るわけじゃないんだから、一緒に上手くなっていけばいいじゃない。いくらキスが上手くたって、それが自分じゃない別の人と練習した成果だって言われたら女の子は嫌がるんじゃないかな。私だったら、やっぱり嫌だし」

 過去に恋人と経験を積んでキスが上手いというのならともかく、テクニックを磨くためだけに別の女性とキスをしたというのでは、いくらそれが自分のためだと言われても、女の子には受け入れ難いだろう。下手をすれば、浮気よりもタチが悪いと思われるかもしれない。そうした女の子側の意見を聞くと、キリルは顔色を変えてしまった。

「くそっ、ウィルのやつ!!」

 騙されたと叫んでいるキリルを見て、葵はウィルの考えそうなことだと変に納得してしまった。その後、何故かキリルに弁解されたため、困惑した葵は眉根を寄せる。付き合ってさえいないのに、なんだか彼氏の浮気を咎めた彼女の気分だ。

「もうお前以外の奴とはしないから、許せ」

「……え?」

 長々とした弁解の後にキリルの口から飛び出したのはそんな一言で、葵は呆気に取られてしまった。許すも許さないも、キリルは何かを勘違いしている。

「あの……別に、私はしてもいいけど?」

「えっ、今か?」

「え、今?」

「そう言われるとやりにくいだろーが!」

「……!? 違っ……! そういう意味じゃないから!」

 キリルが何を言っているのか理解した葵は慌てて彼の考えを否定すると後ずさりした。確かに誤解を招くような発言をしてしまったかもしれないが、それを『今、キスをしよう』と解釈してしまうキリルの思考回路はカオスとしか言い様がない。

「そうじゃなくて、私は別にキリルが他の女の子とキスしてもいいよって言っただけ!」

「何だ、それ。さっきはするなって言ったじゃねーか」

「あれは一般的な……」

「オレだってお前としかしたくねーんだよ!」

 唐突にストレートすぎる言葉をぶつけられて、そんな科白を予想していなかった葵は絶句した。対するキリルは自分が何を口走ったのか分かっていない様子で、葵が驚いていることを不審がっている。聞かなかったことにしようと思った葵は気持ちを立て直してから話を続けた。

「ところでさ、これからどうしたらいいと思う?」

「どーもこーも、先に行くしかねぇんだろ?」

 キリルが意外とすんなり話に乗ってくれたので、葵は心底ホッとした。視線を周囲に移してみると、この小部屋には一つだけ扉がついていて、先へ進むためにはそれを開けるしかない。

「行くぞ」

 短く言い置くと、キリルは先頭に立ってさっさと扉を開けた。決断の早さは『この先に何が待ち受けていても対処出来る』という自信の表れで、この状況でさらりとそれをやってのける彼は頼もしい。

(ううん……)

 惚れることは難しそうだが、友達としてなら付き合っていけるかもしれない。そんな微妙なことを考えながらキリルの後に続くと、扉の先は屋外になっていた。見慣れた噴水の傍にクレアの姿があったので、葵は真っ先に彼女の元へ駆け寄る。

「無事やったか」

「うん。こっちは何にもなかった。そっちは大丈夫だったの?」

「見ての通りや」

 答えたクレア自身も、彼女と一緒にいたオリヴァーとマシェルにも怪我などはないようだった。何が起きたのかと葵が問うと、クレアは「よく分からないが、いきなり外に放り出された」のだという。マシェルやオリヴァーがイミテーション・ワールドは消失したという話をしていたので、何が起こったのかは誰にも分からなかったが、とりあえず屋敷は元に戻ったようだった。





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