信じる心

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 目を開けると、いつもと違う眺めが視界を占めた。寝不足で重たい体をベッドの上で起こした宮島葵は辺りを見回し、「ああ、そうか」と胸中で呟く。ここは慣れ親しんだ自室でも、ユアンから貸し与えられた屋敷でもない。コレクションハウスという名の檻の中なのだ。

 しばらくボーッとした後、葵はベッドから抜け出した。とりあえず身支度を整えたものの、その後どうしていいのか分からなかった彼女は再びベッドに戻る。この屋敷に来てから自力で覚醒したのは、これが初めてのことだった。

(今日は呼び出し、なかったんだ……)

 コレクションハウスには召喚獣の世話役であるおばさんがいて、王女から召喚があった時には有無を言わせず起こしに来る。それがなかったということは、今日は王城に行かなくてもいいのかもしれない。そう思ってホッとした葵は次に、これからのことについて考えを巡らせた。

(これから……どうしよう)

 今日これからのことはもちろんだが、この先自分がどうなるのかも不透明である。アルヴァがあんなことになってしまった以上、頼れる人はもうユアンとレイチェルしかいない。だが彼らが助けに来てくれるかというと、それも難しいような気がした。

(…………)

 考えれば考えるほど望みがなくなるような気がして、気分転換をしようと思った葵は部屋を出ることにした。キョロキョロしながら適当に歩いていると、やがて前方に何かの影が見えたので足を止める。視界の隅に映った影に視点を据えてみると、そこにいたのは一匹の黒猫だった。

(猫……)

 コレクションハウスの特異性と黒猫を結ぶ事柄に心当たりのあった葵は、緊張に心臓を跳ねさせた。まさかと思いながら近付き、行儀良く座している黒猫の傍にしゃがみ込んだ葵はそっと囁きかけてみる。

「管理人さん……?」

 葵が以前に住んでいた『ワケアリ荘』というアパートの管理人は異世界からの来訪者だった。彼は人間の姿と猫の姿の両方を持っていて、猫になった時の毛並みは艶やかな黒だったのだ。

 葵からの呼びかけに、黒猫はニャーと鳴いて応えた。それはタイミング的には肯定のようだったが、どうにも違和感が残る。ワケアリ荘の管理人をしていた青年は、猫の姿の時でも人語を操れたからだ。どっちだろうと思った葵が困惑していると、不意に立ち上がった猫は尻尾を翻して歩き出した。その姿が半開きになっていた扉の向こう側に消えてしまうと、我に返った葵は慌てて後を追う。結果的に、猫を見失うことはなかった。だが室内の片隅で顔を洗っている猫よりも、別の物に目を奪われた葵は茫然と立ち尽くす。

 その部屋の中にあったのは大きな水槽だった。部屋のほぼ全てを閉めている水槽は無色透明で、中に入っているものがよく見える。なみなみと注がれた水の中には岩が一つ浮いていて、その上に尾ひれを水に浸からせた人魚が座していた。ただし、おとぎ話で見るような美しい乙女ではなく、老齢の。

(う、うわぁ……)

 色々な意味で衝撃的で、葵はどんな感想を抱けばいいのか分からなかった。動けずに突っ立っていると人魚が尾ひれを動かし、その衝撃で水槽の外にまで水が飛んでくる。偶然なのか狙ったのかは分からないが、葵はそれを頭からかぶってしまった。

「見ない顔だね。新入りかい?」

 きつそうな性格をにおわせる口調で話しかけられ、葵は老婆の方を振り向いた。謝罪の言葉がないところを見ると、水はわざとかけたものらしい。胸中では「なんだかなぁ」と呟きを零しつつも、葵は素直に頷いた。

「宮島葵っていいます」

「そうかい。わたしゃレムだよ。生粋のヴィジトゥールさね」

 レムと名乗った老婆がわざわざ『生粋』と強調して見せたのは、ハンターに狩られる対象として召喚獣の子孫達の存在があるからだろう。二世や三世でないということは、彼女はこの世界の誰かに召喚されてやって来たか、もしくは自力で世界の狭間を越えたということになる。この違いは重要だったため、葵はレムにどちらなのかを尋ねてみた。すると彼女は、前者の方なのだという。さらにレムを召喚した人物の名を聞いて、葵は驚いた。

「バラージュって、召喚魔法を生み出した人じゃん!」

「ほう。バラージュを知っておったか」

 そこで口を閉ざすと、レムは顔を俯けた。前傾姿勢になると長い白髪が顔を隠してしまうのだが、彼女はすぐに髪を背後へと払いながら顔を上げる。すると何故か、払い除けられた髪が色づき、肌に刻まれていたシワがきれいに消えていく。呆然と変化の様を眺めていた葵と目を合わせる頃には、レムの姿は老婆からおとぎ話通りの美しい乙女へと変わっていた。

「今……何したの?」

「本来の姿に戻っただけよ」

 忌々しげに顔をしかめたレムが言うところによると、先程の老婆の姿は閉じ込められている腹いせだったらしい。彼女が老婆にカモフラージュしたのは百年以上前のことで、今生の王女はレムの本来の美しさを知らない。そのため一度見物に来ただけで召喚されることもないと、レムはヤケクソ気味に胸を張った。

「それに、この姿の方があなたも話しやすいでしょう?」

 確かに、神経質そうな老婆を演じられているより、見た目は同年代に近い少女の姿の方が話しやすい。そう感じた葵が素直に頷くと、レムは微笑みを浮かべた。

「あなたはいつ、この世界に来たの?」

「えっと……一年前くらい、かな?」

「そう。最近のことなのね」

 葵の感覚では少しも『最近』という感じはしなかったが、長生きなレムにとっては一年くらいの歳月はどうということもないのだろう。召喚魔法の祖であるバラージュに召喚されたのだという彼女は、一体どれだけの月日を生きてきたのか。疑問に思った葵が尋ねると、レムは事もなげに千年ほどだと答えた。

「いちいち数えてたわけじゃないから、おおよそだけどね」

「それでも、千年って……」

 ワケアリ荘の管理人が百年ほどだと言っていたのと比べても、長すぎる。葵が絶句していると、レムは少し首を傾げながら言葉を次いだ。

「あなたの種族はどのくらい生きるの?」

「長くて、百年」

「短命なのね」

「そうかなぁ? 想像もつかないけど、百年も生きられれば十分だと思う」

「まあ、長生きをしてもいいことがあるとは限らないわね。こんな事になるのだったら、わたしもあの時に帰っておけば良かったと思うし」

 レムの言葉が独白じみていたので、意味が分からなかった葵は首を傾げた。それを見たレムは再び自分のことを語り出す。

「あのね、バラージュがどこかへ行ってしまう前に異世界からやって来た者を元いた世界に送り届けてくれたのよ。わたしも帰ろうと思えば帰れたのだけれど、その時は帰りたいって言わなかったから」

「どうして? 召喚されたってことは、無理矢理連れて来られたってことでしょ?」

 もしも現代に送還の魔法があるのなら、葵は今すぐにでも生まれ育った世界に帰りたいと思っている。だからこそ、同じ立場にあって帰らなかったレムを不思議に思ったのだ。空を仰いだレムは懐かしそうな表情になり、微笑みを浮かべながら過去を回顧する。

「わたしが生まれた世界には海しかなくてね、この世界が珍しかったの。それにあの時は、まさかこんな時代が来るとは思わなかったしね」

「こんな時代?」

「召喚魔法が封印されて、稀少価値扱いのヴィジトゥールが人間に収拾される、こんな時代」

「…………」

「今では帰れる方法もないし、自分が長生きなのが恨めしいわ」

「今は召喚魔法も送還魔法も封印されてるって聞いたんだけど、それってどうにかならないものなの?」

「どうにかなるものなら、今ここにいないわ」

 召喚魔法の祖に召喚されたのだという者と話をしてみても大した情報は得られず、密かに期待していた葵は肩を落とした。やはり、元の世界に帰る方法などないのだろうか。そう思って気落ちした葵をレムはしばらく眺めていたが、ふと、あらぬ方向へと顔を傾けた。

「王女が来たみたい」

 独白のように告げると、レムは再び老婆の姿に戻る。彼女がどうやって王女の来訪を感知したのかは分からないが、レムが背を向けるのと同時に扉が開いて王女が姿を現した。その後に続いて室内に進入してきた人物の姿に、驚いた葵は目を瞠る。しかし名前を呼びそうになるのは、なんとか堪えた。






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