世界の中心へ

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 草木も生えていない絶海の孤島で、葵は淡い淡い色合いの月明かりに照らされていた。夜空に二つ浮かんでいる月はすでに中天を過ぎていて、少しずつ水平線に向かって傾き始めている。砂浜に座り込んだ葵が空と海を交互に眺めているのは、ユアンの作業が終わるのをひたすら待ち続けているためだった。

 この絶海の孤島は世界のへそと呼ばれる場所で、草の一本も生えていない大地にユアンはせっせと巨大な魔法陣を描き続けている。魔法陣が完成したら世界の中心セントル・モンディアルに行くことが出来るようになるらしいのだが、作業はなかなか終わる気配を見せなかった。ユアンが作業を始めたのは夕方のことで、すでに何時間も待っている葵は密かにあくびを零す。

(手伝えたらいいのになぁ)

 自分に出来ることがあるのなら喜んでやるが、今は手伝えることが何もない。ユアンには休んでいていいよと言われていたが、彼が頑張っているのに一人で眠ってしまうのも忍びなかった。

 眠ってしまわないように、葵は時々体を動かしながらひたすら時間が過ぎるのを待った。それは永遠に続くかと思われるほど長く感じられたが、やがて背後からユアンの「出来た!」という声が聞こえてくる。振り返ってみるとユアンが手招きをしていたので、葵も急いで魔法陣の上に乗った。

「『扉』を開くのは月が出てる間じゃないとダメなんだ。アオイ、準備はいい?」

 ユアンが早口に捲くし立てるので、彼が急いでいる理由を察した葵もすぐに頷いて見せた。葵の手を取ると、ユアンはさっそく呪文の詠唱を開始する。

「我が名はユアン=ソレイユ=フロックハート。世界に選ばれし、人間界モンド・ゥマン調和を護る者ハルモニエである。我はこいねがう。親愛なる世界よ、我に道を開き給え。数多の記憶が永久とこしえの眠りに就いている原野に我を導き給え」

 そこで言葉を切ると、ユアンは葵に視線を傾けてきた。「行くよ」というユアンの声を聞いたような気がした葵は真顔で頷いて見せる。ユアンも頷き返し、顔を正面に戻した彼はゆっくりと目を閉ざした。

「開門」

 その一言が呪文の終わりだったようで、葵とユアンの周囲に展開されている魔法陣が一気に光を放ち始めた。天高くまで立ち上った眩い光は葵とユアンの姿を覆い隠し、視界が白一色に染まる。その純白は足元から塗り替えられ、最初は淡い灰色だったものが次第に黒色を増していった。やがて光は失われ、周囲が黒色のみに塗りつぶされる。その闇は自分の輪郭さえも分からないほど濃く、深いものだったが、ユアンと手を繋いでいる感触だけははっきりと感じられた。

「……ユアン?」

 視覚が閉ざされた闇の中、不安を募らせた葵は声を出してみた。するとすぐ傍から、ユアンの応える声が返ってくる。ホッとした葵は安堵の息をついた。

「ここが、世界の中心なの?」

「まだ。今はそこへ向かっている途中だよ。絶対に手を離さないでね」

「うん」

 葵が繋いだ手に力をこめると、ユアンもしっかりと握り返してきた。目には何も映らなくても、掌から伝わる温もりが不安を和らげていく。どうせ何も見えないのなら、目を閉じていた方がいい。そう思った葵は瞼を下ろしたのだが、しばらくすると閉じているはずの目に何かが映りこんできた。

(……あれ?)

 いつの間にか闇に、明かりが灯っている。白銀のきらめきは夜空に散った星々のもので、淡い光は川の流れのようになって輝いていた。こんな光景を、いつかも見たことがある。そう思いながら目を開くと、一気に視界が開けた。陸、海、空。様々な場所の様々な光景が現れては消えていく。それがフラッシュバックなのか、現実に起こっていることなのか分からなくなった葵は呆けながら独白を零した。

「私……これ、知ってる」

「え?」

「見たことが、ある」

 葵が呟きを重ねた刹那、前方の暗闇から突如として光が押し寄せてきた。ただの光ではなく、葵とユアンは何かに衝突した時のように吹き飛ばされる。前後左右が分からない無重力のような状態が失われ、落下した葵は硬い地面に叩きつけられた。

「い、いったぁ……」

 不自然な体勢で地面と接触した葵は涙目になりながら体を起こした。刹那、目前に佇んでいる人物に目を留めて驚愕する。

「や……弥也やや!?」

「葵!?」

 叫び声を上げたのは、二人ともほぼ同時だった。葵と同じくチェックのミニスカートに白いワイシャツといった高等学校の制服を身に纏っている弥也は、目を見開いたままキョロキョロと辺りを見回す。最後に空を仰ぐと、彼女は再び葵に視線を戻して来た。

「い、今、一体どこから……」

 どうやら何もない所から突然出現したらしく、弥也は驚きのあまり普通に口がきけなくなってしまっている。葵も葵で突然の出来事に驚いていたため、すぐには弥也の疑問に答えることが出来なかった。

(帰って……来たの?)

 実感を求めて周囲を窺えば、弥也の背後に高等学校の正門があった。周囲の風景も通い慣れた学校近辺のもので、小雨に濡れた景色がじわりじわりと実感を呼び寄せる。しとしとと降っている雨も、湿気をたっぷり含んだ息苦しいような風も、異世界にはなかったものだ。

(帰って……来たんだ、)

 ようやく実感が湧いてきて、葵は一人で歓喜した。しかし誰かにワイシャツを引っ張られたことにより、葵の喜びは瞬く間に霧散してしまう。振り返るとそこに、この世界では場違いな恰好をしたユアンの姿があったからだ。

「ユアン!?」

 驚愕している葵に、ユアンが何かを話しかけてきた。しかしそれは見知らぬ国の言葉のようで、何を言っているのか理解出来ない。つい先程まで普通に話していた相手の言葉が突然分からなくなってしまったことに、葵はさらなる困惑を覚えた。

「一体、何がどうなってるの……」

「あたしの方が聞きたいよ。そのガイジンの男の子、誰? 何で空から降って来たの? 今まで一体どこにいたのよ」

 痺れを切らせた弥也が矢継ぎ早に質問を投げかけてきたので、ただでさえ混乱していた葵は頭を抱えてしまった。何がどうなったのか確認をしようにも、ユアンと言葉が通じないのではどうにもならない。

 葵が途方に暮れていると、ユアンが手を伸ばしてきた。優しく顔の向きを変えられて、紫色の瞳に覗き込まれる。何かを囁くように言うと、ユアンはそっと口唇を重ねてきた。弥也などはユアンの行動に瞠目していたが、葵にはキスをされたことに対する驚きはない。だが何かが、ひどい胸騒ぎを生じさせた。

「ユアン……?」

 座り込んだ恰好のままユアンを見上げると、彼はとびきり優しい笑みを浮かべて見せる。その後、手を振られたことにより、葵は彼の意図を理解した。

「ユアン!」

 あのキスは、別れの挨拶だ。そう思ったら何も考えられなくなり、葵はケープを翻して去って行ったユアンの後を追った。背後で弥也が叫んでいたが、足を止めることは出来ない。

 路地を走っているユアンの背を追いかけていると、彼の姿は忽然と消えた。目の前で起きたことに焦った葵はさらに速度を上げ、路地を疾走する。目的の場所に辿り着くと、マンホールの蓋が開いていた。もしや落ちてしまったのではないかと、それまでとは別な心配を募らせた葵は慌ててマンホールを覗き込む。だが縦穴の中は真っ暗で、そこにユアンの姿を見出すことは出来なかった。

「アオイ!」

 正常な思考を失っている葵はマンホールの中に入ろうとしたのだが、追いついて来た弥也に肩を掴まれて止められた。その際に後方へ引っ張られたため、バランスを崩した葵は尻餅をつく。弥也が言葉を続けなかったので、葵は二人分の乱れた呼吸音を聞きながら、茫然とマンホールを見つめた。

 ユアンが、消えてしまった。マンホールに落ちたのか、彼がいるべき世界に帰ってしまったのかは定かでないが、一つだけはっきりしていることがある。それはもう、二度と彼に会えないということだ。ユアンだけでなく、クレアやレイチェルや、異世界で共に過ごした人達の顔を見ることも、もう出来ない。

(こんな……)

 あっけないことがあって、いいのだろうか。確かに生まれ育った世界に帰りたいと切望していたが、念願が叶ったにもかかわらず、嬉しさは微塵も感じない。それどころか異世界で過ごした日々ばかりが蘇り、後悔が押し寄せて来る。親しかった人達にちゃんとした挨拶も出来ずに、こんな形で別れたくなかった。そして、何より……。

(……アル……)

 異世界に召喚されてから一番傍で、一番長く共に過ごしてきた者の顔を浮かべると、無数の針で刺されたように胸が痛んだ。世界から消されてしまった彼を救い出すには危険を冒さなければならず、今頃ユアンは、たった一人でそれに立ち向かっているのかもしれない。せっかく自分にも出来ることがあったのに、結局はまた何も出来ずに終わるのだ。その無力感は葵の心を苛み、虚ろな気持ちにさせた。

「何がどうなってるのか、説明してよ」

 走ったせいで乱れた呼吸を整えていた弥也が話しかけてきたので、葵は胸を鬱いだままそちらに顔を傾けた。すると弥也の後方に、何やら光を発しているものがあるのが目に留まる。導かれるように立ち上がった葵はその光に近付き、目を見開いた。

 淡い光を放っていたのは、脇に退けられていたマンホールの蓋だった。円形のそれには何故か魔法陣が描かれていて、それが弱々しい光を発しているのだ。その輝きは、見る見る薄れていく。何かを考えている時間もないままに、葵は弥也を振り返った。

「ごめん、弥也。絶対にまた帰って来るから」

「え? ちょっと、葵!?」

 腕を伸ばしてこようとした弥也を振り切り、葵はマンホールの蓋に飛び乗った。しかしその足は、着地点を得ることなく吸い込まれて行く。予想外の急降下に見舞われ、葵は絶叫しながら落ちて行った。






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