マリッジ、ブルー

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 シエル・ガーデンでウィルと別れた後、葵は一人で塔を訪れていた。この塔はシエル・ガーデンの北の方にあって、二階部分にぽっかりと穴が開いている。そこに時計を嵌めこめばちょうど良さそうな感じがすることから、葵はこの塔のことを『時計塔』と呼んでいた。

 ウィルと別れた後のことはよく覚えていないので、自分が何故この場所に足を運んだのかは分からない。しかしこの塔では携帯電話が繋がるため、ちょうどいいと思った葵は電話をすることにした。ポケットから取り出した携帯電話を片手に壁に背を預けて座り込むと、コール二回で相手が電話に出る。通話相手は異世界の友人である、弥也ややという少女だ。

『もしもし?』

「あ、弥也? 久しぶり〜」

『……うん。久しぶり』

 葵がいる世界と弥也がいる世界では時間の流れ方に差異があるのだが、すでにその話を聞いている弥也は葵の調子に合わせてくれた。彼女の声音が微妙なのは、前回の通話からさほど時間が経っていないからだろう。クスリと笑って、葵はそのまま話を続けた。

「ヨーコさんの苗字、分かったよ。マツモトだって」

『マツモトヨーコね。分かった、その情報追加しとく』

「反応は、どう?」

『何回か本人ですとかいう書き込みがあったけど、全部ウソだった。まあ、ネットだからね。期待はしない方がいいって』

「そっか……」

 弥也にマツモトヨウコという人を探してもらっているのは、そこからバラージュの情報が得られないかと考えたからだった。しかしバラージュが発見され、彼がウィルの英霊となってしまった今となっては、もう『ヨーコさん』を探すことにも意味はない。それでも、弥也に「もういい」と言えなかったのは藁にも縋りたいという思いがあったからだろうか。きつすぎると胸中でぼやき、葵は携帯電話を耳に当てたまま膝を抱えた。

『どうしたの? 何か元気ないね』

「実はさ、結婚することになっちゃって」

『結婚!?』

「まさか十七で結婚することになるなんて思ってもみなかったよ」

『ってか、何でそんなことになってんの! 相手は誰! 帰って来ないとか言うんじゃないでしょうね!』

 弥也から矢継ぎ早に質問を浴びせられたため、葵は苦笑いを浮かべた。一つずつ答えていこうとしたのだが、その前に人の気配を感じたので膝に埋めていた顔を上げる。すると目前に、ハルの姿があった。

「ごめん、弥也。また電話する」

 慌てて通話を切り上げた葵は携帯電話を折り畳んだ後、恐る恐るハルを見た。

「今の話……もしかして、聞いてた?」

「誰と結婚するの?」

 ハルは無表情のままだったが全て聞かれていたと知って、葵の方はため息をついた。まだ誰にも言ってはいけなかったのに、よりによってマジスターの一人に聞かれてしまったのだ。この場をどう乗り切ろうかと考えを巡らせていると、ハルは何事もなかったかのように隣に腰を落ち着ける。その後も彼からは問いかけてくるような気配がなかったので、葵は眉根を寄せながらハルを見た。

「何も、聞かないの?」

「話したくないんだろ?」

 話したくないというよりは話せないのであって、実のところは何もかも話してしまいたい。やり場のない思いを吐き出して、誰かに慰めて欲しいのだ。しかし親しい人達に話してしまえば事が一気に大きくなってしまう。だが自分に関心のないハルが相手なら、どうだろう。

 葵の知る限り、ハルは誰かのために動くといったことをしない人間である。常に傍観者でいる彼が自分から動くのは、一人の少女が絡んだ時だけだ。今の状況で真情を吐露する相手として、これほどまでに適任な者は他にいないのではないだろうか。そう思った葵は目を伏せ、重い口を開いた。

「ウィルと結婚する」

「ウィル?」

 結婚相手がウィルだと知って、ハルは少なからず驚いたようだった。それは声音から伝わってきたが顔は見ないようにして、葵は言葉を続ける。

「ウィルがバラージュを英霊にしたの。帰る方法が知りたかったら結婚しろって言うから」

 ハルが口を挟んで来ないのをいいことに、葵は坩堝島での出来事や先程ウィルに言われたことなどを洗い浚い話して聞かせた。ろくに息継ぎもせず早口で喋り切って、深く息を吐き出す。その嘆息を機に気持ちを切り替えて、ハルを振り向いた葵は笑みを浮かべた。

「ね、バイオリン弾いてくれない?」

 ハルは物言いたげな表情をしていたが、結局は口を開くことなく立ち上がった。異次元からバイオリンを取り出して構える姿を、葵は食い入るように見つめる。聞きたい曲はもちろん、パッフェルベルのカノンだ。この世界では、ヴァリア・ヴェーテと呼ばれている。そのことは伝えなくても察してくれたようで、バイオリンが葵の心に副った曲を奏で出した。

(ハルの……バイオリン)

 懐かしくて、狂おしいほどに愛おしいメロディが、心に様々なことを喚起させる。回顧はハルと出会った頃の記憶から始まり、次第に生まれ育った世界のことに及んでいった。パッフェルベルのカノンは葵にとって思い出深い曲であり、この曲を聴くと最愛の人だった芸能人を思い出すのだ。その人の名は、加藤大輝。普通の女子高生をしていた頃は寝ても醒めても彼のことばかり考えていた。

 久しぶりに加藤大輝の顔を思い浮かべながら、葵は中学校の二年生だった時に見に行った映画のことを思い出していた。加藤大輝が出演していたその映画は恋愛もので、胸を焦がすような激しい恋が描かれていた。いつかはあの映画のような恋がしてみたい。そんなことを考えて胸を高鳴らせていたことが、今は遠い昔の出来事に感じられる。それでも……と、葵は胸中で呟きを零した。

(結婚は好きな人としたかったよぉ)

 ごく当たり前の望みが、どうして自分には叶えられないのだろう。そう思ったら泣けてきて、葵は膝を抱いて縮こまった。膝に顔を埋めて必死で嗚咽を堪えていると、やがて演奏が終わってしまう。バイオリンの音が聞こえなくなってからも顔を上げられずにいたら、不意に温もりに包まれた。

(……えっ?)

 何が起こったのか分からずに、葵はしばらく茫然としていた。やがて自分がハルの腕の中にいることに気がつくと、頭に血が上っていく。

「は、ハル……?」

「そんな風に泣くな」

 耳元で囁かれた一言は意外なものだったが、少しずつ驚きが感銘に変わっていった。ハルに、慰めてもらっている。そう実感出来ることが、涙が出るほど嬉しい。

 ハルの胸にもたれかかると、心臓の音がトクントクンと聞こえてきた。乱れのない安定した鼓動は安らぎを感じさせ、先程まで混濁していた意識を清澄なものに変えてくれる。純粋な心が囁きかけてきたのは、誤魔化しようのない本心だった。しかしそれを口にすることも、ハルに縋ることも出来はしない。これからは苦しくなる一方だということが分かっていたので、葵はハルに礼を言って離れてもらった。

「ありがとね、慰めてくれて」

 無理矢理に作った笑顔で言うと、ハルは表情を変えることなく「いつかの礼」だと言った。それがこの場所でハルを『慰めた』時のことだと気がついて、葵はさらなる苦しみを覚える。彼にとっては自分を抱きしめたことなど、大したことではないのだろう。今日の出来事を意味のあることにしてならないと、葵は拳を握った。

「ウィルの機嫌が悪くなると大変だから、結婚のことは黙っててね」

 じゃあと言って手を振るまでは笑顔を崩さず、葵はハルに別れを告げると踵を返した。彼に背を向けた途端、作り笑いは儚くも崩れ去る。学園を出るまでは堪えていたのだが、校門を通り抜けた刹那、堰を切ったように涙が溢れてきた。

(ハル……、)

 どうして優しくするのかと罵ってしまいたくなるほど好きで、好きで、堪らない。それなのに彼は絶対に振り向いてくれない人で、自分は別の人と結婚しなければならないのだ。もう何をどう考えていいのかすら分からず、葵は大粒の雪が降りしきる中、泣きながら帰路を辿った。






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