トリニスタン魔法学園アステルダム分校にある
シエル・ガーデンの秘密の通路は空中に浮かぶ回廊になっていて、どこからでも広大な花園を一望出来る造りになっていた。その回廊の途中には五つほど『部屋』が設けられていて、創立祭の夜に葵が訪れたのは、この五つあるうちの部屋の一つだったようだ。さらに調査を進めた結果、回廊はそれ自体が魔法陣であることも分かった。五つの部屋はそれぞれ、儀式をする際に人が配置される場所らしい。つまり五人の人物が儀式を行うということであり、その人数はマジスターの人員に相当する。しかしアステルダム分校のマジスターは現在、欠員が出ていた。
秘密の通路を調べたことで儀式の大要が判明すると、さっそく封印を解いてみようという話になった。マジスターの欠員はクレアが補うことになり、この場にいない二名にはオリヴァーとキリルが連絡を入れている。しかしタイミングが悪かったようで、残りの二人は掴まらなかった。彼らは一人一人が気ままに行動しているため、こういうことは珍しくないらしい。
アステルダム分校の封印を解くことは、今日は出来そうもない。シエル・ガーデンでそういった結論に至った後、葵は一人で校舎一階の北辺にある保健室を訪れていた。そこで昨日の報告からシエル・ガーデンでの出来事までを説明し終えると、保健室の主であるアルヴァは「話は解った」と頷いて見せた。
「じゃあ、アステルダム分校の封印はマジスターが揃い次第やるのか?」
「うん。どうせ、もうすぐ創立祭だからって」
トリニスタン魔法学園では
「なるほどね」
「で、アルにお願いがあるんだけど」
葵がスカートのポケットから取り出した掌サイズの手帳を見せると、アルヴァは首を傾げながら受け取った。手帳に目を落としたアルヴァは数ページめくって見てから、改めて葵に目を向けてくる。
「これは?」
「公爵たちの連絡先」
トリニスタン魔法学園は王家直轄の本校を除き、各地を治める公爵達の私財である。本校に行った際、葵は友人達から『分校を訪れるなら、その地を治める公爵と繋がりを持っていた方が効率がいい』と助言を受けた。そして、たまたま本校にいた公爵を紹介してもらったのだ。事情を説明すると、彼らは快く協力することを約束してくれた。
「学校に行く前に連絡くれれば話をつけておくからって、その魔法陣を教えてくれたの」
葵が手帳を指差して補足すると、アルヴァは小さく頷いてから手帳を閉じた。
「ミヤジマはトリニスタン魔法学園の分校が幾つあるのか知っている?」
「十六でしょ?」
「正解。アステルダム分校と、ここのマジスターの親が管理している分校はいいとして、手帳に載っていない公爵は八門か。あとは僕が調べておくよ」
皆まで言わずとも『お願い』の内容を察してもらえて、葵は「さすがアルヴァ」だと感心した。
たまたま本校に居合わせた公爵達が教えてくれたのは転移用の魔法陣だったのだが、自力で魔法が使えない葵にはそれを有効活用することが出来ない。ステラやマシェルはアステルダム分校のマジスター達に頼めばいいと言っていたが、彼らがどれだけ貴族同士の付き合いを持っているのかは謎だ。アルヴァは貴族でこそないが、彼の姉であるレイチェルなどは有力な貴族達とも付き合いがある。それに、こういった交渉事はアルヴァの方がうまくやってくれるだろう。そう思ったからこそ、葵はアルヴァに手帳を渡したのだった。
「ところで、ミヤジマ」
「うん?」
「キリル=エクランドに異世界へ一緒に行こうと言ったというのは、本当のこと?」
本題が終わったところでアルヴァが切り出してきた話題に、葵はギョッとした。口に運びかけていたティーカップをソーサーに戻し、葵は眉をひそめながらアルヴァを見る。
「誰が、そんなこと言ったの?」
「オリヴァー=バベッジ。彼はキリル=エクランドから聞いたと言っていた」
「……そっか」
まだクレアにも話していなかったのだが、アルヴァの耳に入っているようでは周囲は大方知っているのだろう。広まるのが早いなと、葵は苦笑いを浮かべながら言葉を続けた。
「うん。確かに、言った」
「何でまた」
そんなことになったのかと、アルヴァは眉根を寄せながら問いかけてくる。その表情は実に渋いもので、とても葵の決断を支持しているとは思えない。小言を言われそうだと察した葵は肩を竦めながら言葉を次いだ。
「キリル、婚約を解消したんだって。別に頼んでないけど、それって私のためでしょ? キリルがそこまでしてくれるなら、私も『本気』を受け流してちゃ悪いなぁと思って」
「それが『誠意を汲む』ということか」
「まあ、うん。私に出来るのってそのくらいだから」
「僕は、反対だ」
アルヴァがきっぱりと言い切ったので、彼の雰囲気に気圧されした葵は口をつぐんだ。固まっている葵を見据えたまま、アルヴァは淡々と言葉を続ける。
「ミヤジマのいた世界には魔法が存在しないんだろう? 言葉も通じないし、常識もまるで違う。そんな所へ行って容易く暮らせるわけがない。そのことはミヤジマ、君が誰よりも理解していると思っていたんだけどね」
アルヴァの言葉には責める響きがあって、反論出来なかった葵は目を伏せた。確かに葵は、生まれ育った世界とは異なる世界で暮らすことの大変さをよく知っている。だからこそ、初めのうちはキリルの申し出を拒絶していたのだ。そしてその思いは、今もなくなったわけではない。
「私も、出来れば来ない方がいいとは思ってるよ。帰れるかどうかも分からないんだしね」
元の世界に帰れる保証もないのに異世界へ行って、目的も果たせなかったとなれば目もあてられない。そのくらいの心配は、葵だってしている。だからキリルには、それでもいいのならと注意しておいたのだ。しかしそれでも、キリルは譲らなかった。そういった話をするとアルヴァは呆れ顔になる。
「キリル=エクランドには思考力が欠如しているとしか思えない」
「まあ、私がいくら反対しても、結局どうするかを決めるのはキリルだから」
葵はもう、後のことはキリルに任せようと思っていた。それは決して投げやりな気持ちから出た言葉ではなかったのだが、葵の発言を聞いたアルヴァは表情を険しくする。
「ミヤジマ、それは誠意じゃないよ」
「え?」
「ミヤジマが本当に彼の誠意を汲もうと思ったのなら、君はもっと彼に冷たくするべきだったんだ」
キリルと葵が両思いなら、苦難を承知で共に異世界へ行くのもいいだろう。だが彼らは恋人同士ですらないのだ。一緒に異世界へ行った結果、それでも想いが報われなかったらキリルはどうなる? その問いかけの答えを、アルヴァは自ら口にした。
「ミヤジマのことを諦めても、彼は生まれ育った世界に帰れるわけじゃない。だとしたら、彼は異世界で腐っていくんだよ。新たな道も見つけられないままにね。そんな彼の姿を見て、ミヤジマは絶対に後悔しない自信がある?」
葵にとってもいつか、キリルの存在が必ず重荷になる。そうアルヴァに指摘されて、後悔しないと即答出来なかった葵は顔をしかめた。この先、仮にキリルのことを好きになったとしても、破局が訪れないという確証などない。葵にとってはともかく、キリルにとっては危険率の高すぎる賭けなのだ。
「もう一度、よく考えてごらん。彼の『誠意』に報いるためには何をすればいいのか」
「……うん、」
諭されるように言われてしまえば、葵にはもう頷くより他に術がなかった。キリルにあんなことを言ってしまった後だが、アルヴァの意見にはあの時の決断を覆させるだけの説得力がある。キリルと話をする前にアルヴァに相談すれば良かったと、心底後悔した葵は空を仰いだ。
「一緒に行こうなんて、言っちゃいけなかったんだね」
「キリル=エクランドにそんな話をする前に、僕に相談してくれたら良かったのに」
「私も今、そう思った」
「大体、ミヤジマはキリル=エクランドの望みを否定していただろう? どうして急に、彼の『誠意』を汲もうなんて思ったんだ?」
「それはクレアが……」
クレアの名前を出した途端にアルヴァが顔色を変えたので、葵はハッとして閉口した。息を呑むほどに、アルヴァの表情が険しくなったのだ。しかしそれは一瞬のことで、彼はすぐ「仕方がない」というように嘆息して見せた。
「やっぱりね。そうじゃないかと思ったよ」
今はもう剣呑な空気を消し去っているが、アルヴァの口調はどことなく刺々しい。何があったのか知らないが、どうやら彼らの間には深くて広い溝が出来てしまっているようだ。クレアのアルヴァに対する態度もおかしいので、葵はタブーをはっきりと認識した。
(……何があったんだろう)
アルヴァにもクレアにも尋ねにくいが、自分にとって最も近しい二人がギスギスしているのは居心地が悪い。そう思った葵は後味の悪さを引きずってしまったのだが、アルヴァは何事もなかったかのように話を続けた。
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