時の欠片

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 夏月かげつ期最初の月である、岩黄いわぎの月の五日。その日の早朝、アステルダム公国にあるエクランド公爵が所有する別邸には、クレア・オリヴァー・ウィルの三人が集っていた。キリルが私室として使用している部屋でソファーに座している彼らの視線は、奥の部屋へと続く扉に向けられている。彼らの前には紅茶の入ったティーカップが置かれていたが、それはすでに湯気を上げてはいなかった。

 室内には静寂が流れていたが、しばらくすると、奥のベッドルームへと続く扉が開かれた。それを合図に、三人は一斉に立ち上がる。そのためベッドルームから出てきたアルヴァは、クレア・オリヴァー・ウィルの三人を迎える形となった。彼らが言いたいことはすでに承知していたため、アルヴァは誰かが何かを言い出す前に、自ら口火を切る。

「まだ意識が戻っていないからなんとも言えないけど、外から見た限りでは体に異変は見られない。煤けていただけで目立った外傷もないし、ひとまずは安心してもいいと思うよ」

 アルヴァの見解を聞いて、オリヴァーとクレアが明らかな安堵の表情を浮かべた。ウィルはあまり表情を動かさなかったが、短く嘆息している。ベッドルームに向かうオリヴァーとウィルを一瞥してから、アルヴァは疲れたため息をついた。

 アルヴァは昨日、急遽王城に召喚された。そこで会議に参加した後、姉であるレイチェルと共に様々な調整を行って、明け方近くに帰宅した。すると手紙レトゥルが届いていて、今度はエクランド公爵が所有する別邸に来ることになった。そこで待ち構えていたクレア達に昨日の出来事を聞かされて、この別邸の主とも言えるキリルを診察することになったのだ。怒涛の一日だったため、漆黒の上着を手にしているアルヴァは、まだ正装から着替えられてすらいない。

「忙しいとこ、悪かったわ」

 すまなさそうに謝罪をしてきたのは、唯一その場に残ったクレアだった。真顔に戻ったアルヴァは少し意外に思いながら、彼女の顔を見る。

「構わないよ。緊急事態だったんだろうしね」

 人間が精霊にケンカを売るなど、常識で考えれば有り得ないことだ。その常識が通用しないのがキリルという少年であることは分かっていたのだが、改めてそうした話を聞かされると、呆れを通り越して僅かながら尊敬さえ覚える。だが事件当時に周りにいた者達は、そんなことを考える余裕などなかっただろう。誰に頼ればいいのか分からずに、クレアはそうとう気を揉んだに違いない。まして昨日は、彼女が真っ先に頼りにするであろうレイチェルやユアンは掴まらなかったのだ。そういった場合、自分に連絡が来るのは当然のことのように思えた。

 アルヴァが意外に思ったのは、彼女がオリヴァーやウィルと共にキリルの許へ行かなかったことだ。何か他に言いたいことでもあるのかと、アルヴァはクレアを注視する。思えば彼女と顔を合わせるのは、ユアンの所できついことを言った、あの夜以来だった。

「アオイはどうしとった?」

 アルヴァの視線から逃れるように扉へ目を移して、クレアは問いかけてきた。アルヴァが背にしている扉の奥には、キリルと共に葵がいる。彼女がこの場に留まった理由がなんとなく分かったような気がして、アルヴァは胸中で「ああ……」と呟きを零した。

「休むように言ったんだけど、キリルが目を覚ますまで傍にいると言っていた」

「…………」

「何か、言いたそうだね?」

「別に、なんもないわ」

 言葉とは裏腹に、複雑そうな表情をしているクレアからは言いたいことを胸に秘めている感じが見て取れる。その無言の声を聞き取って、アルヴァは嘆息した。

「今から少し、話さないか?」

「話?」

 またきついことを言われると思ったのか、反射的に身構えたクレアは眉根を寄せている。警戒感を露わに何の話かと訊かれたので、アルヴァは苦笑いを浮かべた。

「建設的な、今後の話だよ。聞く気があるなら保健室まで来てくれ」

 後の判断はクレアに任せることにして、アルヴァは先にトリニスタン魔法学園アステルダム分校へ行くことにした。ここの保健室がアルヴァの職場なわけだが、トリニスタン魔法学園の生徒は滅多に保健室など利用しないため、プライベートな空間とあまり変わりがない。着替えを済ませて紅茶を淹れていたところにクレアが姿を現したので、アルヴァは彼女の分も紅茶を用意してから口火を切った。

「さっき何も言わなかったのは、この間のことを気にしているからか?」

 特別な事情があるとはいえ、葵がキリルに独占されている。その状況を黙認するアルヴァに、以前のクレアならば嫌味の一つも投げかけてきたことだろう。実際のところ、胸中ではそういった考えを秘めているに違いない。ただ、それを口にしなかっただけだ。クレアから返事が返ってこなかったので、アルヴァは話を続けた。

「まあ、少しくらい気にしてもらわないと言った意味がないからね。考えを改めてくれたなら僕にとっては喜ばしいことだけど、実際はどうなの?」

「……おたく、ほんまにイヤな奴やな」

 呆れ顔で言うと、クレアは荒っぽい動作で髪を掻き上げた。ようやく話をする気になったようで、彼女はそのまま言葉を重ねる。

「キリルのことは確かに、うちが考えなしやったのかもしれん。二人とも異世界に行ってしもうたら、うちに出来ることは何もないからなぁ」

「いっそのことクレアも、ミヤジマの世界に行くっていうのは?」

「何アホなこと言うとるんや」

 そんなことをして、一体何になるというのか。クレアが呆れながらそう言うので、アルヴァは真顔で頷いた。

「そう、バカなことなんだよ」

 クレアが即答したように、彼女が異世界へ行ったところで何にもならない。それはクレアに限らず、この二月が浮かぶ世界に生を受けた者すべてにとって同じことだ。そう言うと、クレアはすかさず反論してきた。

「それは違うやろ。うちにはキリルみたいに異世界に行く目的がないさかい……」

「異世界に行く目的なら、クレアにだってあるだろう?」

 何を指摘されたのかすぐに察したようで、クレアは口をつぐんだ。その反応で彼女の気持ちをはっきりと認識したアルヴァは、淡々と話を続ける。

「好きな人が異世界に行くと言うのなら、キリルみたいに追いかければいい。けれど君は、そういう考えを抱いてはいない。それはキリルほど深く、相手のことを愛していないからなのか? 違うと、僕は思う」

 クレアが何かと突っかかってくるようになったのは、アルヴァが素顔を明かしたことにより性格の不一致が判明したからなどではない。彼女はキリルを、愛しているのだ。その気持ちを自覚したからこそ、キリルには好きな人と幸せになってもらいたいと思っているのだろう。だから葵の隣を独占していたいアルヴァと、何かにつけて衝突してしまうようになったのだ。

「自分が彼を幸せにしようとは思わないのか?」

「出来るわけ、ないやろ」

「そうだね、今は難しいかもしれない。だけどミヤジマが生まれ育った世界に戻ったらキリルにはどうしようもなくなる。時機を待とうとは考えないのか?」

「そないに浅ましいこと、せんわ。そういうアルこそ、アオイのことどう考えとるんや」

 葵のことが好きなくせに、キリルのように異世界に着いて行くような気概もない。それどころか想いを伝えることもせず、ただ彼女の隣に居座っている。そんな煮え切らない態度が腹立たしいのだとクレアに言われ、アルヴァは笑みを浮かべた。

「ようやくクレアらしくなってきたね」

「うるさいわ。はぐらかそうとしても、もう譲らんで」

 いつもの調子を取り戻したクレアは睨みを利かせてきたが、初めからはぐらかすつもりのなかったアルヴァは寂しさを孕んだ表情になって答えを口にした。

「昨日、王城で会議があった。詳しいことは言えないけど、ミヤジマは生まれ育った世界に帰ることになると思う」

「そう……なんか、」

 アルヴァが口にした内容が予想外のものだったらしく、クレアは虚を突かれた様子で言葉を紡いでいた。胸裏の複雑さを面に表したクレアを見て、アルヴァは話を続ける。

「ミヤジマとはずっと一緒にいたいけど、彼女に帰るなと言うことは出来ない。ずっと一緒にいたから分かるんだ。生まれ育った世界の話を聞かせてくれる時、ミヤジマはすごく嬉しそうな表情をする。そして時に、とても寂しそうな表情も浮かべていた」

 アルヴァには共感しにくいことだが、葵は出会った当初から故郷への強い思いを抱いていた。それはアルヴァがどれほど彼女を愛そうと、消し去れる感情ではないだろう。そんな彼女に、ここに残って自分の傍にいてくれと言うことは出来ない。だがキリルのように、自分が葵に着いて行くと言うことも、アルヴァには出来なかった。






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