水底の変人

BACK NEXT 目次へ



「久しぶりね、ヘン=ジン」

 ワニのもののような尻尾を生やした女は、柔らかな笑みを浮かべて黒いローブの男に声を掛けた。考え込んでいた葵は女が放った一言に思考を中断させられて、思わず呆気にとられる。

(変人って)

 確かに黒いローブの男は変わっているが、いきなり面と向かって『変人』扱いはないだろう。葵はそう思ったのだが、男に怒るような様子は見られない。その後も二人が普通に会話を続けたことから、葵にもようやく話が見えてきた。

(もしかして、名前?)

 二人は知己のように喋っているし、そう考えればずいぶんな挨拶にも納得がいく。それにしても名前が『ヘンジン』とは、いかにもすぎる。そんなことを考えていると笑いそうになって、葵は自身の口元を慌てて覆い隠した。その動作が目を引いたわけではないのだろうが、尻尾を生やした女がこちらに目を向けてくる。その視線を受けて真顔に戻った葵は、なんとなく佇まいを正した。

「こうして話をするのは初めてね。言葉なんてなくても意思の疎通は出来るけれど、やっぱり言葉を紡ぐのってステキだわ」

 尻尾を生やした女は嬉しそうに話しかけてきたが、語り掛けられたはずの葵には言葉の意味が理解出来なかった。それでも、一つだけ確かになったことがある。やはりこの人物とは、どこかで会っているのだ。言葉を使わなくても意思の疎通が出来るという一言から、葵はマトを連想した。彼女はやはり、マトが変態した姿なのではないだろうか。自分の考えが合っているのかを確かめるために、葵は口を開くことにした。

「えっと……マト?」

「アタシはフィオレンティーナ=アヴォガドロ。この体は変態メタモルフォーゼの能力を借りているものだから、マトと言えばマトなんだけどね」

「……フィー?」

 彼女のフルネームを聞いたことで、葵は思い出した。その名は、以前にオリヴァーの実家に遊びに行った時に聞いたものだ。そのとき一緒にいたユアン=S=フロックハートが彼女のことをフィーと呼んでいた。葵は思い出した単語をそのまま口にしただけだったのだが、フィオレンティーナは無邪気に笑う。

「そう。アナタもフィーって呼んでいいわよ」

「あ、ありがとう。でも、フィーって……」

 記憶が確かならば、フィオレンティーナ=アヴォガドロという女性は英霊のはずだ。英霊は過去に生きていた人間が召喚されたもので、普通は盟約を結んだ者としか意思の疎通をすることが出来ない。実際、オリヴァーの実家で会った時は彼女と話をすることなど出来なかった。それが何故、今はこうして話していられるのか。葵のそうした疑問を汲んでくれたようで、フィオレンティーナは自ら説明を始めた。

「今は魔法生物の体を憑代よりしろにしているから、人間だった頃の状態に近付いているの。だからこうして、言葉を交わせるというわけ。アナタはオリヴァーの大切な人だし、盟約も問題ないわ」

 オリヴァーの友達だからと言われるのなら分かるが、大切な人とはずいぶん大仰な物言いだ。そこに妙な照れ臭さを感じたが、葵は触れないことにして話を進めた。

「どうしてフィーがここにいるの? 何でマトに……その、えっと……」

「どうしてマトに憑依したのか?」

「ああ、うん。それ」

 憑依と言うと聞こえが悪そうで躊躇したのだが、本人が言っているのだから気にすることはないのだろう。そう察した葵が頷くと、フィオレンティーナはじっと見つめ返してきた。

「それはもちろん、アナタと話をしてみたかったからよ」

「話?」

「そう。ちゃんと、言葉を使ってね」

 『言葉』を使って、話をする。それはフィオレンティーナにとって、何か特別な思い入れのある事柄のようだった。しかし葵にはその深みが分からず、単純に首をひねる。

「どうして私と?」

「アナタがどんな人間なのか知りたかったの。アナタがどうしてここにいるのかは、人王から聞いたわ」

「ああ……そうなんだ」

 人王とはユアンのことであり、フィオレンティーナとユアンは以前、オリヴァーの実家で二人だけにしか分からない会話をしていた。おそらくはその時に、葵の事情も聞いたのだろう。そう推察したことでふと、葵はあることを思い出した。

「そういえば、レムを探してくれたんだよね。ありがとう」

 レムは葵と同じく異世界からやって来た、半人半魚の女性である。とある事情でレムを探すことになった時、彼女を見つけてくれたのがフィオレンティーナだったのだ。あの時は、非常に助かった。葵がそう言うと、フィオレンティーナは柔らかく微笑む。

「大したことではないわ」

 レムは水生生物なので、探すのに苦労はしなかったとフィオレンティーナは言う。どうやら彼女は水に関係するものと相性が良いらしい。だからマトの体を借りたのかもしれないと、葵は一人で納得した。

「そういえばフィーって、精霊化してる英霊なんだっけ? 確か、ユアンがそんなこと言ってたような気がする」

「それは大袈裟ね。確かにアタシは英霊として召喚されてから永いこと留まっているけれど、精霊と英霊はまったくの別物だから」

「そうなんだ?」

「英霊は人類の括りからは外れない存在なのよ。アナタもそう思うでしょう?」

 フィオレンティーナがいきなり黒いローブの男を振り向いたので、彼の存在をすっかり失念していた葵はハッとした。視線を移してみると、ヘンジンはいつの間にやら何かの作業を始めている。紙とペンを持って佇むヘンジンの前で、上部から滝のように流れてきている水が溜まっていた。桶などは見えないが、その様は巨大なプールのようだ。

「相変わらずね」

 いつの間にか出現していた巨大プールに呆けていた葵は、フィオレンティーナが発した一言で我に返った。誰に向けての発言なのか分からなかったので、真意を尋ねてみる。

「何が、相変わらず?」

「ヘン=ジンよ。他のことにはまるで興味がないの」

「えっと、あの人とはどういう知り合いなの?」

「彼も、英霊」

「え?」

 フィオレンティーナから思いもよらぬ答えが返ってきたので、葵はまじまじとヘンジンを見た。こちらの会話など聞こえていないかのように、ヘンジンは自分の作業に集中したままでいる。その姿はどこからどう見ても普通の人間にしか思えず、葵は再びフィオレンティーナに視線を移した。

「でも、普通に喋ってるよ?」

「ヘン=ジンは肉体を有したまま英霊になったから。その代わり、この地に縛られているの」

 葵には英霊の仕組みがよく分からなかったが、おそらくヘンジンは幽霊でいうところの地縛霊みたいなものなのだろう。自分なりの解釈で納得して、葵は話を続けた。

「ここって、何なの?」

「時の鐘、というものを知っている?」

 またしても思いがけない言葉が返ってきて、葵はドキリとした。時の鐘、それはトリニスタン魔法学園のどこかにあると言われている時間を告げる鐘のことだ。その鐘を鳴らすための時をここで計っているのだと、フィオレンティーナは付け加えた。

「あそこに水が溜まっているでしょう? あの水が満杯になると鐘を鳴らすの。ヘンジンはここで、水の管理をしているのよ」

 水量は常に一定でないといけないので、異物の混入は困る。そう、ヘンジンは言っていた。それはつまり、流れ落ちてくる水が適量でないと正確な時が計れないということではないだろうか。ヘンジンの発言にようやく得心がいったところで、葵は別のことにも気がついた。

(そっか、水時計なんだ)

 ウォータールーフ分校にある池は、それ自体が巨大な水時計となっているのだろう。葵という『異物』が池に落ちてしまったため、水量が増減して正確な時が計れなくなってしまった。だからヘンジンは困る困ると繰り返していたのではないだろうか。そう察した葵は大変なことをしてしまったかもしれないと青褪めたのだが、顔色を読んだらしいフィオレンティーナがすぐに宥めてくれた。

「大丈夫。ヘン=ジンが修正しているわ」

 そのために、彼はここにいる。そう告げたフィオレンティーナの言葉は力強く、ひとまず安心した葵は胸を撫で下ろした。

(でも、時計って……)

 夜空に二月が浮かぶこの世界へ来て、葵が違和感を覚えたものの一つに時計がないことが挙げられる。時間の確認が出来ないことに、初めのうちはずいぶんと戸惑ったものだ。しかし大雑把に思えた世界にも、時計は存在していた。これは確実に、時の精霊と関係のある事柄だろう。

 ふと、あることが引っかかった葵はスカートのポケットを探った。取り出したのは、卵型のカプセル。今はその封印を解くことは出来ないが、中には各分校で集めたものが詰まっている。その一つ一つの形状を思い浮かべ、葵は愕然とした。

(時計……?)

 飛び飛びの数字(文字盤)が六つ、長さの違う細長い針が二つ、小さなネジが一つ。まだ全てを集めていないので文字盤などは埋まっていないが、これの全体像は時計なのではないだろうか。土台があればそれらしく見えるし、ネジを回して使うタイプの時計もあると聞いたことがある。

(そうだよ、間違いないって!)

 魔法道具マジック・アイテムの全体像が分からなかったので、今までは各分校から集めて来たものが目的の物と合致しているのか分からなかった。しかし封印を解いてきた物は、まず間違いなく探し求めているマジック・アイテムの欠片だろう。真っ先にキリルの顔を思い浮かべた葵は彼の献身が無駄にならなかったことに安堵して、それから歓喜に拳を握りしめた。






BACK NEXT 目次へ


Copyright(c) 2016 sadaka all rights reserved. inserted by FC2 system