Crazy for you

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 軽めの朝食を終えると、体調の優れないクレアは休むと言って自室に帰って行った。特にやるべきことが見当たらなかった葵はエントランスホールにある階段に腰かけて、ちょうど正面に見据える形になった玄関が開くのを待っている。この世界には時計というものがないので、待ち合わせの時刻を決めることが出来ない。そのため約束を交わした相手がいつ訪れるか分からず、頬杖をついた葵は半眼で玄関を見つめていた。

(……眠い)

 昨夜はハルのせいで一睡も出来なかった。加えて朝食で体を温めたことが、抗い難い眠気を誘う。しかし寝てしまうわけにもいかず、葵は自分の頬をつねったりしながら気を紛らわせていた。やがて表の方で動きがあって、玄関の扉が乱暴に開かれる。そこに待ち人の姿を見つけた葵は、スカートの裾を払って立ち上がった。

「おはよう」

 歩み寄りながら声をかけると、勢い込んで進入してきたキリルは眉をひそめた。

「お前、ここでずっと待ってたのかよ」

「そんなにずっとじゃないよ。クレアと朝ごはん食べたりしてたし」

「だったら呼べよ」

 葵自身は魔法を使えないが、クレアに頼めばキリルが言っているようなことも可能だっただろう。平素のクレアであれば気を利かせてくれたかもしれないが、今日の彼女は調子が悪いのだ。それに少しのあいだ待っていたことが、それほど重要なこととも思えない。そう感じた葵は軽く受け流そうとしたのだが、キリルは歯がゆそうな表情を見せて食い下がった。

「呼べば、待たせることなかっただろーが」

 くぐもった声で放たれた一言で、葵はキリルが何を気にしているのかを理解した。だが待たされた・・・・・ことなど、取るに足らない出来事だ。

「そんなの、気にしなくていいよ」

「オレはイヤなんだよ!」

 いつもの調子で怒鳴った後、こちらを向いたキリルが真顔に戻った。その唐突な変化に、葵は首を傾げる。

「何?」

「これ、どうした?」

 言葉を紡ぎながらキリルが腕を伸ばしてきたので、葵はとっさに身を引いてしまった。葵の頬に触れようとしていたキリルの手は、行き場を無くして停止する。キリルの動きが止まったことで、葵はハッとした。

「あ、ごめん。何?」

 葵の態度が取り繕ったものに感じられたからだろう、キリルは不機嫌そうに閉口してしまった。気まずく思い、自身の頬に手を当てた葵は目を伏せる。先程つねっていたために、もしかしたら赤くなっていたのかもしれない。

(……最悪、)

 とっさに体が動いてしまったが、心配した相手にあからさまな拒絶をされればキリルでなくともムッとするだろう。何故、あんなにも身を引いてしまったのか。やってしまった今となっては後悔するしかない。もう一度謝ってもさらに機嫌を損ねそうだったので、葵は話題を変えることにした。

「行こう?」

 恐る恐る声をかけると、キリルは仏頂面のまま口を開いた。

「どこ行くんだよ」

「どこでもいいけど、キリルは行きたいところある?」

「別に、どこでも」

 朝食の席でクレアに忠告された通り、さっそく行き詰ってしまった。一つだけでも案を考えておいて良かったと、葵は内心で安堵しながら観劇を提案する。キリルにも異論はないようだったので、二人はパンテノンという街に移動することにした。

 この世界で言うところの『観劇』は、葵がいた世界で言うところの『映画』に近い。セブンス・アベニューにある劇場も映画館のような造りになっていて、観客はゆったりとしたシートに身を委ねて映画を鑑賞する。以前に来た時もそうだったのだが、ラインアップは少なく、今回は恋愛ものとスレイバル王国の創成を描いた歴史ものの二本しかなかった。協議の末に恋愛ものを観ることになったのだが、寝不足が祟った葵はすっかり寝入ってしまった。幸運にも芝居が終了する前に目を覚ましたため、寝ていたことがキリルに知れたかどうかは定かではない。劇場を後にしてから沈黙を保っているキリルは、怒っているのだろうか。そう勘ぐってしまえば迂闊に話しかけることも出来ず、罪悪感でいっぱいの葵はただ黙々と、少し先を歩くキリルの後を追いかけていた。

(もう、ほんと最悪。ありえない)

 本来ならば今頃は、以前クレアとそうしたように、芝居の内容について語り合っていたはずだ。恋愛ものの映画を観て、キリルがどんな感想を抱いたのか尋ねてみたい。そうした他愛もない会話を重ねることで、キリルという人物を少しずつでも知っていけたなら。このデートにはそうした目的があったはずなのに、芝居の内容を理解していない状態では質問を投げかけることすら出来なかった。

(こんなはずじゃなかった、)

 幾度目になるか分からない呟きを胸中で繰り返して、葵は腹立たしさを感じながらハルの顔を思い浮かべた。彼が妙なことさえしなければ、寝不足になることもなかったのだ。寝不足にさえならなければ、芝居をちゃんと観ることが出来ただろう。なによりキリルに対して、こんな風に罪悪感を覚えることもなかったはずだ。

(大体、ステラとうまくいったんじゃないの?)

 ハルは以前、葵の友人でもあるステラ=カーティスという少女と付き合っていた。一度は別れてしまったが、彼らはきちんと話し合いをして、再び元の鞘に収まったはずなのだ。だからこそ葵は、長い片思いを終わらせることが出来た。それなのに今更、気まぐれのようにちょっかいをかけられてはたまったものではない。

「……おい」

 それまで黙々と歩いていたキリルが不意に声をかけてきたので、鬱々とした思考に沈んでいた葵はハッとした。伏せていた目を上げてみると、立ち止まった彼はこちらを振り向いている。反射的に何事か尋ねると、キリルは真顔のまま言葉を続けた。

「どこ行くんだ?」

「え?」

 劇場を出た後、キリルは先頭に立って歩を進めていた。そのため葵もなんとなく後を着いて来たのだが、どうやら目的地があったわけではないらしい。観劇の後の予定は特に決めていなかったので、葵はキリルの希望を尋ねてみた。すると「別にない」という答えが返ってきたので、二人はひとまず、飲食店が立ち並ぶフォースアベニューに移動することにした。

(そういえば、この辺りって……)

 まだステラがトリニスタン魔法学園アステルダム分校にいた頃、葵はマジスター達と共にこの辺りを訪れたことがあった。キリルはいなかったが、ハルやウィル=ヴィンスという少年と一緒に、フォースアベニューカフェでお茶をしたのだ。あの頃はマジスター達とも出会って間もなかったので、彼らの奔放さに驚かされた記憶がある。

(ハルも、キリルと同じこと言ってたな)

 歩き出したハルにどこへ行くのかと尋ねたら、適当という答えが返ってきた。それまで周囲にそういった人種がいなかったので、あの頃はあ然としたが、今はすっかり慣れてしまっている。そんなことをしみじみと考えたところで、葵はハッとした。

(だから、ハルのことなんかどうでもいいって)

 考え事をしながら歩いていたのが悪かったのか、葵は頭を振った拍子に通行人とぶつかってしまった。その人物に謝罪した後、葵は踵を返す。キリルを追おうとしたのだが、彼は歩みを止めて待ってくれていた。

「今の奴、何だ」

「ちょっと、ぶつかっちゃって」

 葵が知り合いと邂逅したのだと思ったらしいキリルは、事の真相を知ると険を解いた。だが今度は、微かな怒りを滲ませながら雑踏に目を向ける。

「どこに目ぇつけて歩いてんだ」

「ちょっと? 変なこと考えないでよね」

「うるせーな。大体、お前も鈍くさいんだよ」

 ぶっきらぼうに言うと、キリルはやや乱暴に葵の手を取った。歩調を合わせるようなことはせず、そのままキリルはぐいぐいと葵を引きずっていく。初めは呆気にとられていたものの、ある出来事を思い出してしまった葵は顔をしかめた。


――鈍くさいな


 記憶から引き出された声は、キリルのものではない。比べるつもりなどないのに掌から伝わる熱に違いを感じて、吐き気がするほどの自己嫌悪が押し寄せてきた。キリルには今朝から最低なことばかりしてきたが、これ以上に最悪な仕打ちもないだろう。何も知らないキリルを直視出来なくて、きつく唇を噛んだ葵は顔を伏せた。






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