想いの檻

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「アル、君が囚われた人間を私は二人しか見たことがない。私には未だに解らないが、ミヤジマ=アオイという少女は大層な魅力を持っているのだな」

 稀有な表情から真顔に戻った後で、ハーヴェイはしみじみとそんな呟きを漏らした。どう反応すればいいのか分からず、アルヴァは黙ったままでいる。すると、それまで口を挟まなかったロバートが意気揚々と容喙してきた。

「彼女は希少な存在だ。アルが諦めたのなら私が欲しい」

「ロバート、もうそういう問題ではないだろう。ミヤジマ=アオイはヒューイット公爵の子息と交際しているのだからな」

 ロバートの軽口に応えたハーヴェイの一言で、アルヴァは不意に現実へと引き戻された。愛する人を失ったのだという絶望が、再び心に広がっていく。胸裏は面に表れてしまったようで、ハーヴェイとロバートが一様に口を閉ざした。二人の反応を見て、再度目の前の現実に戻って来ることが出来たアルヴァは苦い笑みを浮かべて見せる。

「そこまで慎重に心配されると気持ちが悪いな」

 大丈夫だからと言い置くと、ハーヴェイとロバートは安堵したようだった。沈みかけた空気を変えるために冷めた紅茶を取り換えてから、アルヴァは改めてハーヴェイを見る。

「君の弟はどうしてる?」

 ハーヴェイの実弟であるキリルの話は、ユアンやレイチェルから間接的に聞いていた。葵とハルが両想いであることを知った後、荒れ狂ったキリルは自家だけでなく他家の領地でも、散々に暴れまわったらしい。そして力尽き、最終的にはハーヴェイに回収されたのだそうだ。その後のことを尋ねると、ハーヴェイは苦々しい表情になって言葉を紡いだ。

「目覚めはしたが、精神状態が著しく不安定だ。しばらくは家人以外と接触させない」

「……そうか」

 キリルとアルヴァは同じ女性を好きになり、同じく失恋という結果を迎えた。だが同じ土俵に立っていたわけではなく、辛苦も同等ではない。葵に気持ちを伝えることさえ出来なかったアルヴァと違って、キリルは愚直なまでに戦いを挑んでいたのだから。加えて彼は友人にも裏切られていて、アルヴァよりも多くのものを失っている。キリルとは決して友好的な関係ではなかったが、彼の味わった辛酸を思えば胸が痛んだ。

「命懸けの恋とは、まさにロマンスだな」

 沈痛な面持ちになったアルヴァとは対照的に、場違いなほど明るく言い放ったのはロバートだ。彼はハーヴェイに怒られていたが、アルヴァはそのまま物思いに沈む。

(命懸けの恋、か)

 キリルに関して言えば、ロバートの発言は的を射ている。自分も彼のように、なりふり構わず必死になるべきだった。いまさら考えても仕方がないことだったが、そうした考えを止められない。それはきっと、自分の中に後悔があるからなのだろう。

(だけど、もう終わったんだ)

 どれだけ願ったところで、すでに確定してしまった現在いまは変えられない。ならばこの痛みと共に、現実の未来を受け止めていくしかないのだ。レイチェルやユアンに無様な姿を晒して、すでに頭の中ではそうした結論に行き着いている。しかし未だ生々しい傷を刻んでいる心が、立ち上がれないと嘆いていた。

「時に、アル」

 ハーヴェイとの会話を切り上げたロバートが目を向けてきたので、一人きりの思考を打ち切ったアルヴァも顔を上げた。後に続いたのはこれからどうするのかという問いかけで、即答出来なかったアルヴァは沈黙を保つ。答えは待たずに、ロバートは話を進めた。

「校医の替えなどいくらでもいる。辞めたくなったらいつでも、退いてもらって構わない」

 それは思ってもみなかった提案で、意表を突かれたアルヴァは目を瞬かせた。だが意外に感じたのはアルヴァだけだったようで、ハーヴェイもロバートの提案に頷いて見せる。

「君なら他にいくらでも、その才を活かせる場所があるはずだ」

「いつまでもレイチェルに代理をさせておくわけにはいかないからな。生徒達が浮足立って、保健室は連日大賑わいだ」

 アルヴァは分校の生徒達を冷たくあしらっていたが、レイチェルは違う。立派に『保健室の先生』をこなしてしまう彼女は大人気で、アステルダム分校の保健室には常に長蛇の列が出来ているのだという。ロバートからそんな話を聞かされて、アルヴァは複雑な気持ちになった。

「さすが、としか言いようがないね」

「アルの代理である以上、妥協はしないということだろう」

 弟思いの良い姉だと、ロバートは笑っている。ハーヴェイは呆れていて、アルヴァは黙り込むより他なかった。

 アルヴァはもともと、世を忍ぶためにアステルダム分校の校医に収まった。そこには教育者としての熱意も誇りもなく、生徒と向き合おうなどという意思もない。すでにメリットもなくなってしまっているため、いつ手放してもいいような地位なのだ。それでもアステルダム分校の校医を続けてきたのは、そこにミヤジマ=アオイという少女がいたからである。彼女の助けになるという一念だけでアステルダム分校に居続けたが、今は、もう……。

(僕の助力は必要ない)

 制約が無くなった今、葵は様々な人から力を借りることが出来る。アルヴァがそこにいなくても、彼女は十分にやっていけるのだ。それならばもう、潮時なのかもしれない。離れる選択をするべきかと、アルヴァは葵の顔を思い浮かべた。

 ミヤジマ=アオイという少女と出会ったのは、冬の時分のことだった。現在は二度目の夏月かげつ期を迎えているため、彼女と知り合ってから一年以上の歳月が経過していることになる。その間、アルヴァは常に彼女と共にいた。初めは仕方なく、近頃は自ら望んで、傍に居続けたのだ。歴代の『恋人』達ですら、これほど長く共にいた者はいない。何より、未だ彼女を愛おしむ気持ちが胸の奥底にある。そんな状態で葵と離れて、自分は本当に耐えられるのだろうか。

 アル、と気安く自分を呼ぶ葵の声が、耳の奥で聞こえた気がした。何度でも、そうして名前を呼んで欲しい。手を伸ばせば届く距離で、笑顔を見ていたい。失いたくない、彼女の傍にいたいと、心が叫んだ。そしてその望みは、今ならまだ叶えることも出来る。ただしその場合、本心は押し隠さなければならないが。

(どちらが、より辛いんだろうな)

 離れても思慕が募り、傍にいれば彼女の幸福に苦しめられることになる。そのことが解っているから、会いたいのに会えない。身動きが取れなくて視界が暗くなっていく。

「……、アル、」

 自分を呼ぶ声が耳に届いて、我に返ったアルヴァはいつの間にか伏せていた目を上げた。微かに眉根を寄せたロバートとハーヴェイが、じっとこちらを見ている。話しかけられたようだったので、アルヴァは平静を装って口を開いた。

「校医の件は考えておく」

 話を聞いていなかったため、会話は成立していなかったかもしれない。現にハーヴェイが何かを言おうとしていたが、目線でそれを遮ったロバートが立ち上がった。そのままハーヴェイを促して、ロバートは暇を告げる。急なことではあったが、話をすることに疲れてきていたアルヴァは引き止めることをせず、そのまま旧友達を見送った。






「見ていられない」

 暇を告げてアルヴァがいる部屋を後にすると、すぐにハーヴェイが苦々しい口振りで独白を零した。なにやら憤っている様子のハーヴェイを促して、ロバートは歩きながら話に応じる。

「アルがあそこまで憔悴した姿を見せるとは、私も驚きだ」

「それほど気に病むくらいなら奪いに行けばいいものを。何故、彼はそうしないのだ」

 怒りに任せて発言をしたハーヴェイが珍しく浅慮だったので、ロバートは楽しくなりながら彼の疑問に答えた。

「確かに、アルが本気になれば大抵のことは成し遂げるだろう。しかしな、ハーヴェイ。君の弟御は奪いに行ったが上手くいかなかった」

 男女の仲というのはそういうものなのだとロバートが諭すと、表情から憤りを消し去ったハーヴェイは黙り込んだ。先程本人も言っていたが、彼のように恋愛をする必要のない身分の者は、その機微が理解出来ない。しばらく考え込んだ後、諦めた様子で肩を竦めたハーヴェイは、やはり自分には理解出来そうもないと嘆息していた。それに対してロバートが何かを言うよりも先に、どこからか第三者の声が聞こえてくる。

「貴族には貴族の、恋愛の形っていうのがあるんじゃないかな。エクランド家は慣習に準じて血筋を保ってきたんだから、それはそれで悪いことじゃないと思うよ」

 物陰から突然現れた少年に、ロバートとハーヴェイはギョッとした。見事なまでに気配を消して出現したのは、この屋敷の主である。未来の主君の登場にロバートとハーヴェイは畏まったが、ユアンは朗らかな笑みを浮かべて話を続けた。

「貴族っていう観点から恋愛を語ると、エーメリー卿はちょっと特殊だよね」

 基本的には婚約者をそのまま伴侶とするのが貴族だが、愛人をつくる者がいないわけではない。そんな中においても、ロバートの奔放さはかなり特異な部類だろう。ユアンがそう言っていたので、名指しされたロバートは応えを口にした。

「すでに御存知かもしれませんが、エーメリー家は当主が寛容ですから」

 ロバートの父親であるエーメリー公爵は、かなりの好色で愛人も多い。かくいうロバートも愛人の子であり、好色は遺伝なのだ。そういった事情もすでに知っているらしく、ユアンは微苦笑を浮かべている。しかしすぐに表情を改め、彼は話題を変えた。

「アオイはね、ずっとハルのことが好きだったんだ。アオイの傍にいたから、アルはそのことを知ってる。自分がアオイのことを好きだっていう気持ちとは別に、アルはアオイの幸せを壊したくないと思ってるんじゃないかな」

 それが意識的なものなのか無意識なのかは、分からない。だがその優しさがアルヴァの言動にブレーキをかけていて、今からでも奪い取るという発想に思考を持っていかない。諦めるしかないのは苦しいよねと、ユアンは弱々しい笑みを浮かべて憶測を述べた。

「アルがこの先どうするのかは分からないけど、もう少し、猶予を与えてあげて欲しいんだ」

 主にハーヴェイに向けて、ユアンは語り掛けている。絶対者である彼の言葉ではなくとも、それは胸に迫る発言だった。ようやく納得した様子でハーヴェイが頭を垂れると、ユアンは彼の弟についても話題に上らせた。

「キリルのこと、ちゃんと見ててあげてね」

 そう言った後でユアンは、自分も助力を惜しまないとハーヴェイに告げた。ハーヴェイは一瞬怯んだ表情を見せたが、すぐ真顔に戻って謝意を口にする。そこで話が終わったので、ハーヴェイとロバートはユアンに暇を告げた。

「末恐ろしい御方だ」

 屋敷を辞去すると、ハーヴェイが口にせずにいられないといった様子で独白を零した。同意を示して、ロバートは笑う。

「深慮遠謀がレイチェルにそっくりだったな」

「ああ。ユアン様が御傍にいらっしゃれば、アルがこのままということはないだろう」

 憂慮は、晴れた。ならば貴重な夜の時分を無下にするのは忍びないと、ロバートはハーヴェイに別れを告げることにした。これから何をするのか察しがついたのだろう、ハーヴェイは呆れた表情を見せる。

「また夜会か、ロバート」

「ご婦人が私を待っているのだから、行かねばなるまい。君もたまには顔を出したらどうだ?」

「私は帰宅する。やらねばならぬことが、あるからな」

 家人の問題を解決するのも当主の役目だと、難しい顔で呟いたハーヴェイは転移魔法によって姿を消した。ハーヴェイにとってそれは、今までにない難問となることだろう。友人の健闘を密かに祈りつつ、ロバートもその場を立ち去った。






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