「疲れてる?」
顔を合わせるなりハルに問われてしまったのは、無駄に長い待ち時間に気力を奪われてしまったためだ。乾いた笑みを浮かべた葵は小さく首を振って、話題を変える。
「昨日、ごめんね」
通信では何か用事があるような口ぶりだったのだが、葵の言葉に対し、ハルは不思議そうな表情を浮かべた。何を言われているのか分からない様子だったので、葵は昨日の通信のことについて触れてみる。すると話の内容は理解したようだったが、昨日何をしていたのかと問われることもなかった。そして用事も、特になかったらしい。
(ただ会いたかった、ってことだよね)
なんとも恋人らしいやり取りが、今更ながら胸に沁みる。一人で幸せを噛み締めながら、葵は言葉を重ねた。
「今日はどこか行くの?」
「行きたい?」
「うん。出掛けたいかな」
「どこ行きたい?」
問いかけられた葵はしばし、考えに沈んだ。どこに行きたいかと問われても、この世界のデートスポットに心当たりなどない。パッと浮かんだのがパンテノンという街だったが、デートで出掛けるには近場すぎる。しかし初デートなら、そのくらいでいいのかもしれない。すぐにそう思い直して、葵はハルに提案を伝えた。
パンテノンという街は、葵やハルの通うトリニスタン魔法学園アステルダム分校から一番近い都会である。徒歩での移動も可能な範囲内にあるため、葵にとっては様々な思い出がある街だ。この街を、ハルと二人で歩く。それは葵にとって、想像以上に感慨深い出来事となった。
(色々、あったなぁ……)
夜空に二月が浮かぶ異世界に突然召喚されて、友達作りのためにとトリニスタン魔法学園に編入させられた。そこで出会ったマジスターは学園のアイドルで、女子生徒達はみんな彼らの虜だった。葵も初めは芸能人を愛するファンのような感覚で、女子生徒達と共に騒いでいた。それが変わってしまったのは、実際にマジスター達と関わりを持つようになったからだ。
ハルのことは、彼がマジスターだと知る前からカッコイイと思っていた。彼が学園のアイドルだと知ってからは個人的な関わりを持たないようにしようと思いつつも、彼の弾くバイオリンに魅せられて密かに『時計塔』へと通ってしまっていた。自分の抱く気持ちが恋ではないと必死に否定しようとしていたあの頃が、遠い昔のことのように感じられる。だがそんな彼が、今は恋人として隣を歩いているのだ。ハルとだけは絶対に恋愛関係になることはないと思っていたのに、人生とは何があるか分からないものだ。
(デートなら、手とかつないだ方がいいのかな?)
ふと思いついて、葵は隣を歩くハルの様子を窺った。しかしその瞬間、別の人物とこの街を歩いた時のことを思い出して顔を強張らせる。この街で同じシチュエーションを再現するのは、いくらなんでも不謹慎すぎる。デートらしい気分を味わいたいという思いはあったのだが、葵は結局、手をつなぐのは止めておくことにした。
(気にしすぎないように、)
誰かを傷つけて手に入れた恋なら、人一倍幸せになる努力をしなければならない。そう言ってくれたクレアを思い出して、葵は沈みかけた気分を立て直した。
「ただ歩いてるだけで、楽しい?」
特に目的もなく街を歩いていると、それまで無言でいたハルが唐突に口火を切った。抑揚のない口調も無表情も、ハルは平素と変わりない。質問の意図が分からなかったが、葵は頷いて見せた。するとハルは、葵が楽しいならいいと言う。
(ハルはつまらないのかな)
デートの場所など、どこでも良かった。葵はただ、ハルと共にいられることに幸福を感じたかっただけなのだ。しかしハルにとってパンテノンは身近な街で、何の面白味もないのかもしれない。それを目的もなく歩き回っていては、苦痛に感じるのも仕方がないことのように思えた。
「……ごめん」
せっかくの初デートなのだから、もう少し慎重に場所を選ぶべきだった。そう後悔した葵が謝罪しても、ハルはキョトンとするだけだった。
「何が?」
「別の場所にすれば良かったね」
「なんで?」
「なんで、って……」
退屈なのかと、感じたから。葵が顔をしかめながら補足すると、ハルは眉をひそめて見せた。
「そんなこと、言ってないけど」
「じゃあ、楽しい?」
とてもそうとは見えなかったが、葵はあえて尋ねてみた。視線を外したハルは空を仰ぎ、何かを考えている。そのままの態勢で、彼は答えを口にした。
「よく分からない」
返って来たのはなんとも曖昧な返答で、どう反応するべきなのか葵には分からなかった。葵が黙していると、ハルは言葉を続ける。
「場所が違ってもたぶん同じ。アオイが楽しければ、俺はそれでいい」
ハルの言葉は、一体どう解釈すればいいのか。再び反応に困った葵は考えに沈んだが、結局答えは得られずに弱りながら口を開く。
「あんまり出掛けるの好きじゃない?」
「……考えたことない」
必要があれば外出するし、マジスターの仲間達と共に出掛けることもある。だが主体的に何かをしようとすることはほとんどなかったと、ハルは淡々とした口調で語った。それは葵の知るハルらしい考え方であり、呆れるよりも、葵は笑ってしまった。
「ハル、好きな場所とかってないの?」
何気なく尋ねてみたことに、ハルは「ある」と即答した。また考えたこともないと言われそうだと予想していた葵は、予期せぬ返答に驚きながら会話を続ける。
「どんな場所なの?」
「行く?」
「! う、うん。行ってみたい」
葵が頷くと、ハルはすぐさま転移の呪文を唱えた。瞬きをした次の瞬間には視界が開けて、それまでとはまったく異なった景色が瞳に映り込んでくる。まず見えたのは、太い幹を持つ大きな樹。そしてその周囲には、どこまでも草原が広がっていた。この場所は高地にあるのか、平素よりも空が近く感じられる。燦々と照っている太陽にそれだけ近いということだが、風が吹いているせいか、暑さは感じられなかった。吹き抜ける風が草木を揺らす音が、耳に心地良く響く。気持ちのいい場所だと、葵は感想を口にした。
「昼寝場所。夜は星もきれいに見える」
言うが早いか、ハルは木陰に身を投げ出した。そういう理由で気に入っている場所なのかと、納得した葵は笑いながらハルの傍に腰を下ろす。
「夜もここで寝てたりするの?」
「たまに。外で寝てると姉さんに怒られるから、あんまりやらない」
「お姉さん……」
ハルの口から家族のことを聞いたのは初めてだったが、葵はその事実を知っていた。以前にアルヴァと世界を巡る旅行に出掛けた時、少し話を聞いたからだ。ヒューイット公爵家は、ハルの姉が家督を継ぐ者なのだという。どんな人なのだろうと、葵は一人で想像を膨らませた。
「アオイは?」
「え?」
「家族」
「あ、ああ……。私は、一人っ子だよ」
思いがけず口にすることになった家族の話題は、それまで浮足立っていた葵の心を深く沈みこませた。こうしている間にも、異世界にいる両親は自分のことを心配しているのだ。帰れないなどということになったら、彼らはどれだけ深く傷つくだろう。この世界へ来てから一度だけ聞いた両親の声を思い出しながら、葵は深く息を吐いた。
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