国王との謁見から二日の後、キリルは母校であるトリニスタン魔法学園アステルダム分校を訪れていた。約十年ぶりに足を運ぶことになったのは、異世界へ旅立つ出発地点として指定されたからだ。二階部分の壁面に穴が開いている塔に辿り着くと、そこには複数の人物の姿があって、キリルの到着を待ち構えていた。その中に国王夫妻が揃っていたため、キリルは跪いて臣下の礼をとる。
「お待たせしてしまい、申し訳ございません」
「気にしなくていいから、頭を上げて」
フランクな口調でキリルに姿勢を正させたのは、スレイバル王国の国王となったユアンである。キリルがこの学園で出会った当時、彼は十三歳の子供だった。それが今ではすっかり大人になって、大国の支配者として辣腕を振るっている。ただ彼は昔から、非公式な場での礼節を好まない人物だった。この時もやはり普通にしろと言われて、困ってしまったキリルは黙り込む。すると横から、すかさず助け舟を出してくれた人物がいた。
「そないに器用なこと、誰でも出来るわけやあらへん。勘弁したってや」
独特の言葉遣いで容喙してきたのは、赤味の強いブラウンの髪とアンバーの瞳が特徴的な女性。この場にいることを許され、ユアンの無茶な要求にもすんなり対応出来る彼女は名をクレアという。クレアはこれから迎えに行くアオイの友人であり、現在は休業しているが、ユアンが国王に即位する以前から仕えてきた使用人でもある。そのためクレアはユアンの扱いに慣れていて、特にレイチェルが引退してからは、王城内でも重宝される存在となっていた。心底ホッとして、キリルはそのままクレアに話題を移す。
「貴方もいらしていたのですね」
キリルにとってクレアは数少ない女性の友人であり、普段はもっと砕けた話し方をしている。それを改めざるを得なかったのは、ユアンだけでなく王妃であるシャルロット=L=スレイバルまでこの場にいたからだ。しかしキリルのそうした口調に慣れていないクレアは奇妙な表情になり、ユアンもまた大袈裟に顔を曇らせた。
「僕達は仕方がないとしても、クレアにそれはないんじゃない?」
ユアンが気持ち悪いと断言すれば、クレアもそれに頷いて見せている。クレアの反応を見て、ユアンは彼女の隣にいる人物にも声をかけた。同意を求められて苦笑いを浮かべているのは、がっしりとした体躯の青年。長い茶髪を無造作に束ねている彼は、名をオリヴァーという。
「キル、マトがクレアに同調した」
オリヴァーが口にしたマトとは、彼が腕に抱いているワニに似た魔法生物の名前である。魔法生物は人間が使うような言葉は持たないが、その身を触れ合うことによって、自分の考えを他者に伝えることが可能である。マトを抱いているオリヴァーは、クレアが形容し難い顔をした時に同じような感情を彼から受け取ったのだという。それを聞いて、ユアンとクレアが同時に笑い出した。
「ほら、やっぱり気持ち悪いんだよ」
「あんまり
爆笑するユアンとクレア、そしてそれを苦笑しながら見ているオリヴァーから、キリルはそっと目を離した。シャルロットの様子を盗み見ると、彼女は言葉を発さないながらも微笑みながらこちらを見ている。そういう雰囲気ならば仕方がないと、キリルも態度を改めることにした。
「ウィルは?」
彼の姿だけが見当たらなかったので、キリルはオリヴァーに尋ねてみた。するとオリヴァーは、再び苦笑いを浮かべながら口を開く。
「誘ったんだけど断られた。アオイやハルがこっちに来たら会いに行くって言ってたぜ」
友人の科白としては淡泊この上ないが、見送りだけなら行かないという選択はウィルらしいものだった。見送りを期待していたわけでもないので、キリルは相槌を打って話を終わらせる。すると真顔に戻ったオリヴァーが、少し声を低くして問いかけてきた。
「俺も一緒に行くか?」
「は?」
「いや、一人だと色々大変だろ?」
色々という言葉で濁してはいたが、オリヴァーの言いたいことは明白だった。驚きを収めたキリルは嘆息して、膨らみを持ったクレアの腹部に目をやる。それから改めて、オリヴァーを見据えた。
「バカ言ってんじゃねーよ。一人でやれるから心配すんな」
そう断言してしまえば、さすがにオリヴァーも二の句を継げなかった。そこで話が一段落したのを見て取って、それまで成り行きを見守っていたアルヴァが容喙してくる。
「長く城を空けることは好ましくありません。陛下、そろそろお願いします」
「分かった」
アルヴァに頷いて見せると、ユアンはキリルに小さな箱型の物体を手渡した。それに見覚えがあったキリルは眉をひそめて、ユアンへと視線を戻す。彼はすぐに、意図を説明してくれた。
「ケータイって言うんだって。それは十年前にアオイが持っていた物を形状記憶カプセルで
召喚魔法とは、転移魔法を高等に応用したものであると言える。転移魔法では魔法陣を介して位置を特定するが、今回のように異世界へ行く場合は転移先に魔法陣が存在しない。そのため、この携帯電話を使って異世界のどこへ行くのかを特定させるらしい。
「キリルの持ってるコピーと、アオイの持ってるオリジナルがうまく引き合ってくれるといいんだけどね。それだけじゃ不安だから、この魔法陣も残しておいたんだ」
説明を加えながらユアンが視線を移したので、その場の視線は床に描かれている魔法陣に集中した。キリルは知らなかったのだがアオイとハルは十年前、この場所から異世界に旅立ったのだという。その時のことが記録されている魔法陣を再利用すれば、さらに対象物の近くに転移出来る可能性が高くなるという説明だった。
「向こうに行ってアオイに会いさえすれば、あとは簡単だから」
そう言ってユアンは、さらに魔法書と形状記憶カプセルを一つ、キリルに渡してきた。形状記憶カプセルには魔法陣が入っていて、異世界でそれを展開すれば自由に行き来することが可能な道が出来上がるという仕組みらしい。魔法書は、転移魔法を使う際の補助道具である。さらに携帯電話には、もう一つの役割があるのだとユアンは話を続けた。
「そのケータイっていうの、レリエと同じ機能があるんだって」
ユアンが口にしたレリエというのは通信魔法を使用する際に使われる
「気、つけてなぁ」
「帰って来たらみんなで一杯やろうぜ」
クレアとオリヴァーが声をかけてきたので、キリルは彼らに頷いて見せた。アルヴァは軽く身を屈めたことで見送りの意を示したが、シャルロットは何故か魔法陣の傍まで歩み寄って来る。キリルが怪訝に思っていると、彼女は突然頭を下げた。
「よろしくお願い申し上げます」
王族が臣下に頭を垂れるなど、いくら非公式の場とはいえ本来あってはならないことだ。呆然とするキリルの前で、シャルロットは慌てた様子のアルヴァにたしなめられている。そこへユアンがやって来て、彼はシャルロットの肩を優しく抱いた。
「アオイはね、シュシュの初めての友達なんだ」
ユアンから補足を受けたことで、キリルは昔に聞いた話を思い出した。はっきりと認識はしていなかったが、思い当たる節はある。よほど大切な存在だったのだろうと思いを馳せ、キリルはシャルロットに向かって言葉を紡いだ。
「王妃様のご友人は私が必ずお連れ致します。ですからどうか、お心を安らかにお待ち下さい」
キリルの発言を聞くと、シャルロットは花が開いたような笑顔を見せた。ユアンも嬉しそうに笑って、シャルロットと共に魔法陣から遠ざかる。ユアンが呪文の詠唱をしている間、キリルは自分の胸に広がった感情に名をつけられず、不思議な心持ちで国王夫妻を見つめていた。
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