etc.ロマンス 番外編 10 years later

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 自分という境界すら光に呑まれてしまったような感覚があった後、キリルは落下の衝撃で我に返った。どうやら転んでいるようだったので、立ち上がって服の汚れを払う。それから改めて、辺りを見回してみた。まず目についたのは何かの建物の壁で、周りには木が茂っている。薄暗い場所で、人気はなかった。

 異世界への転移が成功したのかどうかは、空気ですぐに解った。キリルの生まれ育った世界では服に体感温度を調節する魔法がかかっているため、季節に因らず極端な寒暖を感じることは少ない。しかしこの場所は立っているだけで汗が噴き出そうなくらい熱く、空気も湿っていた。

(これが異世界か)

 何やら耳慣れない音は聞こえてくるが、建物があったり木が茂っていたりと、生まれ育った世界とそれほど大きな違いはない。さっそく携帯電話を使ってみようとしたところで、あることに気が付いたキリルは足元に目をやった。そこには淡い光を放つ魔法陣がくっきりと描かれている。何かをした覚えはなかったので、形状記憶カプセルに封じられていた魔法陣だろう。形状記憶カプセルは固い場所に叩き付けて使えと言われていたので、落下の衝撃で意図せず使用してしまったのかもしれない。

 少し考えた末、キリルが出した結論は『まあいいか』というものだった。どのみち使う予定だったのだから、場所はどこでも構わないだろう。帰る時はここに戻って来ればいいだけだと思い、キリルは落ちていた魔法書を拾い上げると歩き出した。人の声がする方角に向かって歩を進めながら、携帯電話の操作にもとりかかる。

(確か、これを押すんだったな?)

 幾つか並んでいるボタンを一つ押し、教えられた通りに携帯電話を耳に近付ける。すると耳の近くで音が鳴り出したのだが、それはすぐにキリルの意識から遠ざかって行った。明るい場所に出て目にした光景に、全ての感覚が奪われてしまったからだ。

 キリルが転移した場所は、学校の裏庭だった。まだ日中ということもあり、そこには当然、同じ制服を着た生徒達がいる。白いワイシャツにチェックのミニスカートという女生徒の格好は、キリルもよく知っているものだった。しばらくそれを呆然と眺めていたが、やがてキリルは大きく首を振る。生まれ育った世界でよく目にしていたアオイの服装が制服だったとしても、それはもう十年も前の話だ。キリルの母校であるトリニスタン魔法学園にも制服はあったが、卒業と共に着る機会は失われた。この世界の学園の仕組みなど知らないが、さすがに十年も経てば同じ服を着ていることはないだろう。

「葵、ケータイ鳴ってない?」

 生徒達の不審な目に晒されながら立ち尽くしていたキリルは、どこからか聞こえてきた声を拾って体を震わせた。その間も携帯電話はコール音を鳴らし続けていたが、キリルの耳には届いていない。恐る恐る声のした方を振り向いたキリルは、一階の部屋の中にいる二人の女子生徒に目を留めた。

「あ、ほんとだ。誰だろう?」

「ダンナじゃないの?」

「ううん、非通知」

 窓が開いているおかげで、二人の会話は建物の外にいるキリルにもはっきりと聞こえてきた。携帯電話を手にしている少女の顔はよく見えないが、その声は間違えようがない。気が付いた時には、キリルは走り出していた。

「えっ!?」

 一階とはいえ窓から侵入して来た不審者に、手前にいた少女が驚きの声を上げる。その前を勢いよく通り過ぎて、キリルは部屋の奥にいた少女の腕を掴んだ。目を丸くしてこちらを向いたのはやはり、キリルが異世界まで迎えに来た人物だった。予想とは違って、何故か記憶にあるままの姿ではあったが。

(……ああ、)

 アオイの顔を見た瞬間、好きだと思った。どうしてあんなに執着していたのか分からないと思っていたのに、顔を見ただけで、そう思ってしまったのだ。だからこそ余計に、理不尽な怒りがこみあげてくる。

「なんで、十年前と同じなんだよ」

「……え?」

 困惑顔のアオイが眉をひそめたのを見たのが、記憶にある最後だった。次に気がついた時、キリルは薄暗い場所で低い天井を見つめていた。意識がはっきりしない中、ひとまず上体を起こしてみる。すると頭が痛んで、キリルは小さく呻き声を洩らした。

「気が付いた?」

 声がしたのでそちらに目を向けると、狭い部屋の中には人影があった。室内が暗いせいで鮮明ではないが、その人物は壁に背を預けて座り込んでいるようだ。顔は、見えない。しかし声で、キリルにはそこにいるのが誰なのか分かった。

 暗がりの人影は立ち上がると、壁に手を伸ばした。カチッという音がして、次の瞬間には室内に明かりが灯る。そこにいたのは栗色の短髪にブラウンの瞳といった容貌の少年。アオイと同じく彼も、十年前に別れた時のままだった。

「久しぶり」

 無表情のまま再会の挨拶を寄越してきたハルは、どうやら状況を正しく認識しているようだ。その状況こそが理解出来なくて、キリルは眉をひそめる。

「オレが誰なのか、解ってて言ってんだよな?」

 頷いて見せてから、ハルは歩み寄って来た。ベッドの上で上体を起こしているキリルと目線を合わせるように座り込むと、彼は突拍子もないことを口にする。

「殴りたかったら殴っていいよ」

「はあ?」

 どうしていきなりそんな話になるのか、キリルにはまったく理解が及ばなかった。間抜けに口を開けたキリルを見て、ハルは違うのかと首を傾げる。頭痛を覚えたキリルは痛む頭に手を当てながら話を続けた。

「ハルはオレが、お前を殴りに来たと思ったんだな?」

「そうでも、そうじゃなくてもいい」

「なんだそれ。意味わかんねーよ」

「どっちでもいいけど、キルが殴りたかったらそうすればいいと思って」

「……もしかしなくても、アオイのこと言ってんだよな?」

 十年前、キリルがアオイに猛烈なアプローチをしていた時、ハルは横から彼女を攫って行った。その裏切りが赦せなくて、ハルが血を吐くまで殴ったことがある。しかしそれは、もう十年も前の話なのだ。今さらそんなことをしてどうなるのだと、キリルはため息を吐き出した。

「あのな、お前らにはそんな昔の話じゃねーのかもしんねーけど、オレにとっては十年前の話なんだよ。そのくらい見て解れ」

 劇的に顔が変わったりはしていないが、現在のキリルには少年らしさなど微塵も残っていない。見た目の変化は明らかな歳月の経過を予想させるだろうに、ハルの話を聞いていると、そんなことはどうでもいいことのように思える。彼は昔から無頓着が過ぎるのだ。異世界に行ってもまったく変わらなかったらしいハルは、そのまま淡々と言葉を続けた。

「じゃあ、殴らない?」

「殴んねーよ」

「そう。良かった」

 顔だけは殴られたら困るのだと、ハルはよく分からないことを言う。その理由を聞いてもさっぱり分からなかったので、その話は終わらせることにして、キリルは嘆息した。

「大体、悪いと思ってるなら謝るのが先だろ? 考えてみたらお前から謝られたこと、一度もねーぞ」

 殊この件に関しては、謝罪の言葉があれば少しは心持ちも違ったかもしれない。そう言おうとして、キリルは口をつぐんだ。当時を思い返せば、それは無理だろう。ハルも同じことを考えていたらしく、彼は謝っても許してもらえるとは思えなかったからだと心中を明かした。

「だから、キルの気が済むまで殴られようかと思って」

 それは、アオイのこともキリルのことも諦める気はなかった、ということだ。キリルは知らなかったのだが吐血するまで殴られた後も、ハルはキリルに会いに来ていたらしい。キリルの家では門前払いを食らい、ある人物からは会いに行くなと諭されても、彼はめげなかった。そして今もなお、殴りたければ殴ってくれと言う。そんなことが出来るのは、いつかやり直せるだろうと信じているからだ。許されるかどうかなど、分かりはしないのに。

 ハルの話を聞いているうちに、キリルはおかしくなってきてしまった。口数が少ない上に表情を動かすことも少ないのでハルは何を考えているのか分からない人物と言われるが、その性根は傲慢で純真だ。結局は、折れた方の負け。ただそれだけのことだったのだと気が付いて、キリルは声を出して笑った。その様を奇妙に眺めていたハルに、笑いを収めたキリルは問いかける。

「今、幸せか?」

 常人ならば躊躇しそうな場面でも、ハルは遠慮もなく即答した。迷いなく頷いたハルを見て、キリルは出立前にアルヴァに語ったことを思い返す。これが十年前なら、彼の想いを受け止めることは困難だっただろう。やはりあの時は、会わなくて良かったのだ。十年経った今になって、そう、心の底から思った。

「ごめん、」

 キリルの胸中に変化が訪れたことを察したのか、神妙な表情になったハルが突然、頭を垂れる。すでにわだかまりを失っていたキリルは「もういい」と呟いて、その話題を終わらせることにした。





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