異世界からの客人であるヤヤを預かることになってしまったキリルは、彼女の滞在先としてエクランド公爵家が所有する別邸の一つを用意した。アステルダム公国にあるその別邸は、キリルが学生時代に主な住居としていた屋敷である。学園を卒業する前に本邸に戻ったため、アステルダム公国の別邸は現在使用している者はいない。広大な屋敷を丸々ヤヤに貸し与えて、身の回りの世話は使用人に任せることにした。そしてキリルは本邸に帰ったのだが、朝になって別邸を訪れてみると、なにやら屋敷の中が騒がしかった。
「キリル様、申し訳ございません」
キリルの姿を認めるなり、使用人達を束ねている者が深々と頭を下げてきた。不穏な空気を察したキリルは眉根を寄せながら口を開く。
「何事だ」
「それが、お客様が行方不明になられてしまいまして……」
「行方不明?」
どういうことだと、険を強めたキリルは使用人に詰め寄った。その問いには老齢の執事ではなく、年若いメイドが答えを口にする。
「今朝方、お客様は走って来ると言い置いてお出掛けになられました。バスの準備を頼まれましたので、用意を終えてお待ちしていたのですが……」
いつまで経っても、ヤヤが帰って来ない。そうした話を聞いて、キリルは嫌な顔をした。これは行方不明と言うよりも迷子になったと考えるべきだろう。恐縮しきりの使用人達は捨て置いて、キリルは自身で捜索を開始した。魔法で風を纏って空に浮かべば、広大な屋敷も一望することが出来る。屋敷からは遠く離れた後庭の片隅に人影を見つけたため、キリルはそちらへと向かった。遠目からでは人物まで特定することは出来なかったが、距離を詰めれば見て取れる。使用人達が言っていたように、確かにヤヤは走っていた。
キリルが進路を阻むように空から姿を現すと、ヤヤは驚愕の表情を浮かべた。同時に素早く地を蹴って後方に下がった彼女は、何故か顔の付近で拳を握る。しかしそれも一瞬のことで、眼前の人物がキリルであることを認めたらしいヤヤはすぐに拳を下ろした。
「何をしているのですか」
奇行を咎める響きを若干滲ませながら、キリルはヤヤに声を掛けた。一度は動きを止めたのに何故か歩き出しながら、彼女は問いに対する答えを口にする。
「日課なので、走らないと気持ちが悪くて」
「日課?」
「空手……って言っても分からないか。鍛えてるんです」
よく分からないことを口にしながら、ヤヤはキリルの横を通り過ぎて行った。どこへ行くつもりなのかと問えば、彼女は「そのへん」だと言う。
「走った後で急に止まると体に悪いんです。少し歩いてから戻りますね」
そう言い置いている間にも、ヤヤはあらぬ方角へ突き進んで行く。不慣れな客人を放置するわけにもいかず、キリルも仕方なく後を追った。
「毎朝、こんなことを?」
「はい。今日はちょっと走り足りないですけどね」
特に息を乱すわけでもなくそう言ってのけた彼女は、ここでも毎朝日課とやらをこなすつもりなのだろうか。それは貴族の屋敷では奇行と呼んで差し支えないもので、予測不能の行動が続くようならば使用人任せにしておくわけにもいかない。自分が付きっきりで世話をしなければならないのだろうかと、キリルは密かにため息をついた。
「呆れました?」
不意に顔を傾けてきたヤヤが胸裏を的確に言い当ててきたので、キリルは眉をひそめた。内心面倒だと思っただけに、返せる言葉がない。沈黙を肯定と捉えたようだったが、ヤヤは淡々と言葉を続けた。
「面倒だったら放っておいてくれて構いませんよ?」
ヤヤの口調には含みもなく、思ったままをただ口にしただけのようだった。だからこそ、キリルはムッとする。彼女は昨日、キリルと国王の会話を間近で聞いていた。その時に複雑そうな表情をしていたので、ヤヤはおそらく、キリルがこの話に乗り気ではなかったことを理解している。それなのに何故、そんな言葉が口を突いて出てくるのか。初対面では変に律儀で礼儀正しい娘だと思ったが、彼女の認識を改めなければならないのかもしれない。
「昨日、陛下からお話しがあったと思うのですが、この世界では魔法を使えないと困ることが数多くありますから」
口調に若干の嫌味をこめて、キリルはヤヤの立場を再度理解させようと試みた。彼女は少し間を空けてから、隣を歩くキリルを振り向いて言葉を続ける。
「私がいた世界では魔法なんてなかったですけど、それなりに暮らしていました。魔法がないと困るっていう基準が、たぶんキリルさん達とは違うと思います」
例えばキリルは先程、空を飛んでヤヤの前に現れた。空を飛べれば確かに移動は楽だろうが、同じだけの距離を歩けば目的地には辿り着ける。もともと魔法を使えないヤヤにとっては徒歩での移動が当たり前であり、魔法がないと困るというほどのことではないのだ。そう彼女が言うので、キリルは大きくため息をついた。
「ここから屋敷までの距離でしたら、その基準で問題ないでしょう。ですが、もっと長距離の移動の場合はどうしますか?」
「馬とか? 何か乗り物はないんですか?」
「貴方のいた世界にはデンシャという乗り物があるそうですが、この世界での移動は主に転移魔法によって成り立っています」
「電車?」
そこで何故か、ヤヤが怪訝そうに眉をひそめた。何が彼女の表情を変えたのか、分からなかったキリルは首を傾げる。
「何か?」
「電車なんてよく知ってましたね」
キリルが自分達の世界に滞在していた時は、確か使っていないはずだ。そうヤヤに指摘された時、キリルの脳裏には十年前の光景が鮮やかに蘇っていた。キリルの母校であるトリニスタン魔法学園アステルダム分校には、
キリルが立ち止まったので、少し先まで行ってしまったヤヤは引き返してきた。向き合う形で足を止めた彼女はキリルの反応を待っている。不自然な形で会話を途切れさせたことは理解していたが、キリルには発するべき言葉が何もなかった。ヤヤも、何も言わない。しばらくそのような時間が続いたが、やがて来訪者の気配があったため、キリルは屋敷の方角へ顔を傾けた。
「ハルが来たようです」
「え?」
突然のことに、ヤヤは訝しそうな表情をしながら視線を傾けた。キリルと同じ方向に目をやっても、彼女の瞳に映るのは遠い屋敷の姿だけだろう。慣れ親しんだ者は、その人物が発する魔力によって姿が見えずとも感知出来る場合がある。そうしたことを簡潔に説明し、キリルは許可を得てからヤヤの手を取った。
ヤヤと共に屋敷に戻ると、そこにはハルの他にアオイの姿もあった。ハルが来た時点でこの展開を予想していたキリルは、別段驚くこともなく来訪者達を迎える。キリルが何をしに来たのかと問う前に、ヤヤの姿を見たアオイが口を開いた。
「汗だくじゃん」
「また走ってたの?」
アオイに続いてハルが、やや呆れ気味に声をかけている。「うるさい」と応えたヤヤはその後も、ハルと親しげに話を続けた。その様子に、驚いたキリルは目を瞬かせる。
「話の前にさ、ヤヤはお風呂借りてきなよ」
ちょうどメイドが現れたので、アオイはヤヤを促しながら去って行った。二人きりになったため、キリルはまだ驚きの余韻を残しながらハルを振り向く。
「お前、変わったな」
いくらアオイの友達とはいえ、ハルは他人と積極的に話をするタイプではなかった。仲間内でいる時でさえ口数が多い方ではなかったのに。そうキリルが言うと、ハルは少し間を置いてから応えを口にした。
「ヤヤとは前、一緒に住んでたから」
「はあ?」
ハルから思いもよらない返答がきたため、キリルは思わず素っ頓狂な声を発してしまった。アオイと暮らしているというのなら理解出来るが、一体何をどうしたら彼女の友達と同居などという事態になるのか。しかし詳しく聞いてみると、それはまったくもって笑えない話だった。ハルはアオイと共に異世界へ行ったわけだが、アオイの家にハルを連れて行くことは出来なかったらしい。そのため宿無しになってしまったハルを救ってくれたのがヤヤだった。そうしてしばらく、ハルはヤヤの家に居候していたというのだ。ヤヤと親しげに見えたということは、彼はその苦難を乗り越えたということなのだろう。話を聞いているうちに空を仰いでいたキリルは、嘆息してからハルに視線を戻した。
「お前、苦労したんだな」
「どうなんだろう?」
そこで否定も肯定もしない返事を寄越してくるのは、キリルのよく知っているハルだった。やっぱりこいつは変わっていないのかもしれないなどと考えていると、ハルが言葉を重ねてくる。
「キルは? 変わった?」
「……さあな」
十年も経てば変わった部分もあるし、未だに変われないところもある。その思いは呑み込んで、キリルはハルを屋敷の中へと促した。
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