アオイとハルが朝も早くからキリルの元へやってきたのは、別の世界を体験するのが初めてのヤヤを気遣ってのことだった。その後、ヤヤに観光をしてもらおうという話になり、キリルはアオイやハルと連れ立って王都に来ている。観光案内は主にアオイがしていて、女子二人は楽しそうだ。それに時々ハルが加わるのを、キリルは一歩下がった場所から眺めていた。彼らの会話に口を挟むつもりはないので、特にすることもない。暇を持て余したキリルは同行者達の姿を目で追っているうちに、いつしか過去へと思いを馳せていた。
十年前、キリルはどうしようもなくアオイに焦がれていた。彼女がこの世界にいた時のことを思い返せば、その記憶しか浮かんでこないくらいに。しかし十年という歳月は人の心を変えるには十分な時間で、いつの間にか過去の情熱は風化していた。少なくとも異世界へ旅立つ前までは、キリルはそう感じていたのだ。それなのに好きだと思ってしまったのは、久しぶりに再会したアオイが十年前と変わらぬ姿だったからだろう。その後すぐ気絶してしまったため、あの瞬間の気持ちが過去と同じ情熱だったのかどうかは解らない。だがハルの話を聞いた後では、そのようなことはどうでもいいように思われた。
(こーゆーのはどうすりゃいいんだ?)
困ってしまって、キリルは眉根を寄せながら空を仰ぐ。十年という歳月が流れていても、キリルはアオイとの些細な過去を覚えていた。忘れてしまわなかったのはやはり、彼女が特別な存在だったからだろう。改めて思い知らされて、今朝は衝撃を受けた。だが好きだと思ったからといって、昔のように彼女を欲しているわけではない。十年越しにハルの想いを聞いて、その点については自分の中で答えが出てしまっているのだ。
好きなのに求めないとは、一体どういう感情なのだろう。経験が豊富な者ならば自分を理解して落としどころを見つけられるのかもしれないが、生憎、キリルが恋心というものを抱いたのは人生で一度だけだ。誰かに相談してみようかとも考えたのだが、キリルはすぐに思い付きを却下した。アオイはすでに住む世界の違う人間である。この世界にいるのも一時のことで、彼女は再び自分の前からいなくなるのだ。ならばアオイがこちらの世界にいる間だけ、極力関わりを持たずに過ごせばいい。
「キル、そろそろ帰るって」
キリルがぼんやりしている間に王都観光は済んだようで、ハルが声を掛けてきた。アオイとヤヤも近くに来たので、キリルは少女達に視線を移す。話しながらこちらへ来た彼女達の話題は、ヤヤがどこへ帰るのかということのようだった。
「ユアンはああ言ってたけど、やっぱこっち来る? ハルの実家広いから、部屋ならいっぱい余ってると思うよ」
アオイがそう提案しているのは、自分といた方がヤヤが気兼ねしないと思ったからだろう。今朝のやり取りを思い返したキリルは、ヤヤは誘いに乗るだろうと思った。しかし彼女は、悩む間もなくアオイに首を振って見せる。
「あたし、キリルさんのとこにお世話になる。葵もハルも、もう来なくていいよ」
そっちはそっちで勝手にやりなよと、ヤヤは友人であるはずのアオイに淡泊なことを言ってのけた。断られると思っていなかったらしいアオイが目を剥いたが、それ以上に驚いたのがキリルだ。驚愕を引きずっているうちに話がまとまってしまい、アオイとハルは転移魔法によって姿を消してしまう。二人になるとヤヤが目を向けてきたので、無表情に戻ったキリルは感情を押し殺すことに努めながら口火を切った。
「何故、断ったりしたのですか?」
キリルと行動を共にすることはヤヤも本意ではなかったはずだ。その証拠に彼女は今朝、自分のことは放っておいてくれて構わないと言ってのけたのだから。キリルが何を言っているのか、解らなかったわけでもないだろう。それなのにヤヤは、アッサリと問いの答えを口にする。
「気が変わったんです。葵やハルといるより、この世界の人に教えてもらった方が楽しそうだと思って」
ヤヤにとってアオイやハルは日常の一部である。どうせ異世界にいるのなら日常を綺麗さっぱり忘れて非日常を愉しんでみたい。そうヤヤが言うので、キリルは呆れながら黙るしかなかった。昔の自分なら絶対に放り出しただろうが、今はそうもいかないのである。
「よろしくお願いします」
話が切れたところで改めて、ヤヤが頭を下げた。気まぐれでワガママを言ったりもするが、礼儀正しい彼女は決して、悪い娘ではない。そう自分に言い聞かせて、キリルは仕方なくヤヤからの申し出を受け入れることにした。
アオイやハルと共に王都を観光した翌日、キリルはヤヤを伴ってオリヴァーの元を訪れていた。オリヴァーは前バベッジ公爵の長子だが爵位を放棄したため、クレアと結婚した現在はアンダーソン伯爵邸で暮らしている。アンダーソン伯爵にはクレア以外の子がいないのだが、クレアは家督を継ぐことを拒絶した。自分は生涯ユアンの使用人だと言って譲らない彼女に代わって、オリヴァーがアンダーソン家を引き受けたのだ。そうして三世代が暮らすことになったこの屋敷はいつ来ても、絵に描いたような幸福に満ちている。
「なるほどなぁ」
応接室でキリルから話を聞いた後、オリヴァーは眉根を寄せて空を仰いだ。キリルがヤヤを伴って友人宅へ来たのは、彼女をどこに連れて行けばいいのか分からなくなってしまったからだった。ヤヤに尋ねてみても、この世界の知識がまるでない彼女には行先の希望というものが浮かんでこないようなのだ。世話をするといっても、これではどうしたらいいのか分からない。
「アオイに聞いてみたらいいんじゃないか?」
少し考えた末、オリヴァーはそうした提案をしてきた。それはキリルも真っ先に考えたことだったのだが、昨日の様子から察するにヤヤは受け入れないだろう。案の定、彼女はあっさりとオリヴァーの意見を却下した。
「葵はなしでお願いします」
「なんで?」
「その方が面白そうだから」
「うーん」
オリヴァーが困り顔で再び空を仰いだ時、ノックの音がしてクレアが姿を現した。台車を押している彼女に続いて、幼い子供達も室内に入って来る。それを見たオリヴァーが姿勢を正し、子供達に向かって口を開いた。
「こら、お前たち」
「ええやないか。深刻な話しとるわけでもないんやろ?」
子供達を嗜めようとしたオリヴァーだったが、それはクレアに一蹴されてしまった。苦笑いを浮かべたオリヴァーが構わないかと尋ねてくるので、キリルとヤヤは頷いて見せる。手作業で紅茶を淹れながら、クレアがヤヤに目を向けた。
「うちはクレアいうんや。よろしくなぁ」
「高木弥也です。こちらこそ、よろしくお願いします」
クレアとヤヤが名乗り合っているのを見て、そういえば初対面だったとキリルは思い返した。淹れたての紅茶を配り終えたクレアはオリヴァーの隣に腰を下ろし、ヤヤに親しげな笑みを向ける。
「アオイが来た時に言うとった。おたく、アオイを怒っとった友達やろ?」
「怒る?」
「アオイがこっちの世界におった時、向こうの世界の友達と話しに行って、帰って来たら浮かない顔しとったんや。友達に怒られたー言うとったで」
「……たぶん、私ですね」
アオイが行方不明になっている間に連絡を取っていたのは自分くらいなものだと、ヤヤは苦笑している。その後真顔に戻り、ヤヤは改まった様子で口火を切った。
「みなさんは葵とどういう関係だったんですか?」
「なんや、アオイから聞いてへんの?」
「ハルを連れて来た時に怒ったから、そういう話は聞いてないですね」
アオイはごく普通の家庭で育った、どこにでもいる普通の少女である。それが何日も行方不明になって、見ず知らずの男を連れ帰って来た。そのような状況で娘の交際相手を受け入れるような家庭は、ヤヤ達の世界ではあまり存在しない。そのことを解っていながらハルを連れて来たアオイに、ヤヤはこっぴどく説教をしたらしい。おそらくはそれで、アオイは異世界での出来事を自分に話し辛くなったのだろう。ヤヤはあっけらかんとそう言っていたが、その話に対するリアクションは人それぞれだ。オリヴァーは無言で苦笑いを浮かべているし、クレアはヤヤのことをしっかりした子だと言って笑っている。キリルは、何も反応することが出来なかった。異世界で行き場のなかったハルを救ったのも彼女であることを、知っていたからだ。
その後、クレアが十年前の出来事を語り出したため、思い出話に花が咲いた。オリヴァーも懐かしそうな顔をして、昔話に参加している。キリルは黙っていたが、ヤヤがそれについて触れてくることはなかった。しばらく過ごしていると、大人の話に飽きたらしい子供達がヤヤに絡み始めた。彼女は子供の扱いに慣れているらしく、子供達は楽しそうにしている。そして結局、この日はどこも観光することなくアンダーソン伯爵邸で過ごすことになったのだった。
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