金木犀の香りに絆されて

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 横山拓海という人物と出逢った翌日、久史の顔を立てるために家まで迎えに来てくれた響子と並んで歩きながら結衣は昨日の出来事を語った。朝から天気もよく雨の気配がまったくないので、結衣は今日もマスク着用姿である。

「変な人だね」

 興味津々といった様子で結衣の話を聞いていた響子は面白がりながら言う。気が気でない結衣はマスクの下で渋面をつくった。

「親切なんかするんじゃなかった。後味悪いよ」

「もしかしてさ、その横山って人は結衣のこと知ってたんじゃない?」

 響子が突拍子もないことを言い出したので結衣は目を丸くした。

「えー、それはないよ。初めて見る人だったし」

「でもさ、結衣が知らなくても向こうは知ってたってこともあるんじゃない? 電車でいつも一緒だとか、結衣の行きつけの場所でよく見かけるとか」

 響子に突っ込まれた結衣は首を捻って記憶を探ったが思い当たる節もなく、小さく首を振る。だが響子は話を続けた。

「知り合うキッカケなんて何処にあるか分からないよ。その横山って人、結衣の顔見て驚いてたんでしょ?」

「……うん」

「だったら向こうは結衣のこと知ってた可能性が高いよ。また会いたいなんてさ、一目惚れってやつじゃないの?」

「そんなこと言われても……」

 返す言葉に詰まった結衣は困り果てて空を仰いだ。しかし視線の先には金木犀があり、結衣は慌てて口元を手で覆う。

「で、行くの?」

 響子の問いに結衣は即答した。

「行くわけないじゃん。それに、断ったからいないよ」

「そんなの分かんないじゃん。もしいたら、どうすんの?」

「……行かないよ。怖いもん」

 結衣はマスクの下でもごもごと呟いた。響子はしばらく考えるような素振りを見せていたが決意の顔で結衣を振り返った。

「久史君に頼まれてるし、あたしも行くよ。それで、もし横山って人がいたら話つけてあげるから安心して」

「えっ、行くの?」

 結衣は難色を示したが響子は真顔のまま言葉を続けた。

「考えてもみなよ。うちらは三年間、そのファミレスの傍を通って学校に行くんだよ?」

 問題を放置した結果拓海がストーカーにでもなれば結衣は安心して学校へ行くことも出来なくなるのである。そういった響子の心配を汲み取った結衣は口をつぐんだ。

「授業終わったら迎えに行くから。教室で待ってんのよ?」

 厄介なことになったと思いつつ、結衣は響子の駄目押しに頷くより他なかった。






 昼休みが終わって五時間目、結衣のクラスは体育の授業だった。体育は男女別、二クラス合同で行われるので隣のクラスである響子も体育である。体操服姿の響子は制服姿のままの結衣の傍へ寄った。

「大丈夫? 気分悪くない?」

 晴天の下、校庭の隅に植えられている金木犀が強烈な芳香を放っている。マスクをつけたまま日陰のベンチに座っている結衣は軽く手を振って見せた。

「平気。何だか知らないけど今日は気持ち悪くないから」

「マスクのおかげかしらね」

「どうなんだろうね」

 マスクをしていても気持ちが悪くなることもあるので結衣は曖昧に頷いた。集合がかかったので響子はグラウンドへと走り去って行く。ベンチに背をもたれ、結衣は空を見上げた。

 校庭では準備体操が始まり教師の吹く笛の音と生徒達の声が混ざり合っている。秋空には雲が流れ、風が花の香を乗せて結衣の頬を過ぎていった。

 甘い香りが鼻についたので結衣は視線を傾けた。校庭の隅では金木犀が花を咲かせており、匂いの出所はそこであるようだ。

(……あれ?)

 いつもならば金木犀の匂いを感じた途端に気分が悪くなり、結衣には香りを楽しむ余裕はない。だが今日は、鼻につく強い芳香をいい香りだと感じた。

(こんな匂いなんだ……)

 甘く鮮烈な香りは結衣の心を惹きつけた。思わずマスクを外し、結衣はしばし金木犀の香りに酔いしれる。ひとしきり楽しんだ後に目を開け、結衣は眉根を寄せた。

 並んで植えられている三本の金木犀の間に人影がある。その出で立ちは明らかに在校生ではなく、結衣は目を凝らして見つめる。

 金木犀を背後にこちらを見据えている男の顔は結衣の知っている人物のものだった。だが服装がおかしく、午後の日射しに晒された姿は朧に揺らいでいる。

(……横山さん)

 ぼんやりとした頭の片隅で結衣は男の名を呟いた。真昼の幽霊のような男は、顔は横山拓海であったが服装も髪型もずいぶんと古めかしいものだった。

 結衣が発した声になっていない呼びかけに男は応じた。男は柔らかな微笑を浮かべたが、その姿は太陽の光に溶けこんでゆく。激しい目眩に襲われ、結衣は意識を失った。






 結衣が意識を取り戻した時、すでに窓の外は夜になっていた。ベッドから体を起こした結衣は呆けている頭でも無意識に状況を確認しようと周囲を見渡した。

 そこは、結衣の部屋であった。意識を失う前の記憶が曖昧だった結衣はベッドから下り、自室を出て居間へと向かう。居間には母親と弟の久史がいて、彼らは姿を現した結衣を驚きをもって迎えた。

「姉ちゃん、もう大丈夫なのか?」

 慌てて駆け寄って来た久史へ結衣は間延びした声を発する。

「何が?」

「学校で倒れたんだって」

 久史から説明を受けても結衣は首を傾げるばかりであった。久史から話を引き受けた母親がゆっくりと補足を加える。

「五時間目の体育の時間に結衣が倒れたって学校から連絡があったの。それで、お母さんが迎えに行ったのよ。気分はどう? 病院に行く?」

 事態を理解した結衣は慌てて首を振った。

「平気、大丈夫。病院は行かなくていいから」

「そう? でも念のため、今日は寝てなさい」

 早めに引き上げた方がいいと察した結衣は母親に頷いてから踵を返す。すると、久史が声をかけてきた。

「姉ちゃん、響子さんにメールしときなよ。心配してたから」

「ああ、うん。ありがとう」

 久史に短く礼を言ってから結衣は居間を後にした。電気のついていない自室へ戻り、ベッドに腰を下ろした結衣は眉根を寄せて首をひねる。

(今日は気分も良かったのに……何で倒れたんだろう)

 気を失う前のことを思い出してみても倒れた理由は分からず、結衣は諦めて鞄へ向かう。響子に「大丈夫」というメールを打った後、結衣は再びベッドへもぐりこんだ。






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