金木犀の香りに絆されて

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 倒れた翌日、結衣は母親に車で送ってもらい登校した。いつもより早く着いてしまったため誰もいない教室で一人、結衣は頬杖をつきながら窓の外を眺めている。一年生の教室は四階にあるので、窓からはオレンジの花をつけている金木犀がよく見えた。

(金木犀、かぁ……)

 昨日の五時間目、金木犀が咲いている時期にしては珍しく結衣の気分は良かった。だが結衣は、突然倒れてしまったことには金木犀が関わっているのではないかと疑っていた。

 母親に送ってもらっている道中、結衣は件のファミリーレストランの横を通過した。そこに横山拓海の姿があったかどうかは定かではないが、結衣は拓海の妙な口ぶりを思い出さずにはいられなかった。

 結衣の体は金木犀に異常な拒絶反応を示す。そのことを、話してもいないのに拓海は知っていたのだ。

 拓海の言動は普通ではなく、結衣は彼のことを気味が悪いと感じていた。理解の及ばない存在に対する恐怖が結衣の心に芽生えたことは確かである。だが同時に、金木犀の前で立ち止まっていた拓海の姿が焼きついたまま離れないでいた。

(……今日、いるのかな)

 また会いたいとの申し出を結衣は無下に断った。もし一方的であるにしろ約束が結ばれているのであれば、すっぽかしたことにもなるのである。普通に考えればいるはずがないが、結衣はもう一度だけ行ってみようかという気になっていた。

(一回だけよ。今日いなかったら、もう気にしないことにする)

 誰に咎められたわけでもないのに結衣は言い訳がましい理屈を自分に押し付けた。






 母親に迎えはいらない旨をメールで伝え、あえて響子も誘わずに、結衣は駅前のファミリーレストランを訪れた。接客に出てきた店員に待ち合わせであることを伝え、しかし該当するような人物もいなかったので、結衣は一人寂しく窓際の席に着いた。

 何も頼まないのは良心が咎めるのでドリンクバーを頼み、オレンジジュースを持って席へ戻った結衣は頬杖をついた。店の入り口には客の姿があったが目的の人物ではなく、結衣は窓の外へと視線を移す。

(来ないよね、普通)

 手持ち無沙汰になってしまったので結衣は意味もなくストローをいじる。何気なく窓の外へ向けていた結衣の視線は、やがて一人の男に留められた。

 結衣の視線を感じたからか、もしくは初めから予定していたことであったのか、駅前の雑踏で拓海は足を止めた。ガラス越しにしばし見つめ合い、我に返ったような表情をした拓海は足早に姿を消す。結衣が店の出入り口を振り返ると拓海が駆け込んでくるところであった。

 店員と一言交わした拓海は真っ直ぐに結衣が座る席へ寄る。結衣の脇で立ち尽くした拓海からは甘い香りが漂ってきた。

(この匂い……)

 結衣の顔の位置にある拓海のカットソーから香っているのは金木犀である。だが気分が悪くなることもなく、結衣はゆっくりと目を上げた。

「あの……横山さん、座りませんか?」

 立ち尽くしていた拓海は結衣の一言で困惑した表情になり、おずおずと空席に腰を落ち着けた。だが視線は外さず、拓海は結衣の顔を見続けている。拓海の不可解な行動に何かがあると確信した結衣は肚を決めて自分から口を開いた。

「横山さんが今、ここを通ったのは偶然ですか?」

 結衣に強い口調で問われた拓海は不意に目を泳がせる。その態度からおそらく偶然ではないと結衣は思ったが拓海が答えるまで待った。

「……偶然じゃない」

 しばらくの沈黙の後、拓海は目を逸らしたまま言い辛そうに呟いた。拓海が自分から話をするとは思えなかったので結衣が再び口を開く。

「昨日、来たんですか?」

 拓海は頷いたまま俯いた。結衣は短く息を吐き、話を続ける。

「昨日は、ちょっと事情があって駅を使わなかったんです。断ったつもりでしたけど、待っていたなら謝ります。すみません」

 一応謝った後、結衣は拓海の反応を窺った。拓海は難しい顔をして何事かを考えている様子だったがやがて、大きく息を吐いた。

「俺の言動、怪しいよな。それは自分でも分かってる」

 独白のように零した後、背もたれに体を預けた拓海は脱力した。突然の出来事に言葉を失った結衣はあ然として拓海を見つめる。拓海は大雑把な性格を思わせる動作で頭を掻き、勢いをつけて体を起こした。

「正直に言うと俺、一昨日より前から中村さんのこと知ってた。いや、それもちょっと違うか」

 結衣に向けて話を始めたかと思うと拓海は不意に考えに沈む。横山拓海という人物像を掴めず結衣は混乱した。

「一人で何を言ってるんですか?」

 思わず零れた結衣の一言に拓海は泳がせていた視線を戻した。拓海に凝視された結衣は目を合わせていられず俯き、奇妙な沈黙が流れる。

「……事情って?」

 気まずい空気を破ったのは拓海の声だった。意味を掴み損ねた結衣は顔を上げ、眉根を寄せる。

「何ですか?」

「さっき言ってた事情って何?」

 ようやく会話が成立したことにホッとした結衣は深く考えることもなく倒れてしまったのだと答えた。刹那、顔色を変えた拓海が席を立つ。

「大丈夫か!?」

 テーブルに身を乗り出した拓海は店内に響き渡るほどの大声を上げた。呆気にとられた結衣は言葉もなく拓海を見上げていたが店内の視線が集中していることに気がつき慌てて取り繕う。

「座ってください、横山さん」

 結衣の険しい声を聞いた拓海は周囲を見回し、決まりが悪そうに腰を下ろす。ちょうどその時、結衣の携帯電話が鳴った。

 バイブレーションを察した結衣は鞄から携帯電話を取り出しディスプレイに目を注ぐ。着信表示は弟の久史であり、結衣は拓海に断りを入れて席を離れた。

「もしもし?」

 女子トイレの個室へ逃げ込んだ結衣は息を弾ませながら電話に出た。電話口の久史は不審そうな声を上げ、どうしたのかと問う。何でもないと言い聞かせてから結衣は本題を口にした。

「どうしたの?」

『もう帰った?』

 久史に問い返された結衣は小首を傾げながら曖昧な返答をする。携帯電話の向こう側では久史の声の他に雑踏の賑わいがしていた。

『迎えに来た。チャリだけど』

「えっ!? 今、何処にいるの?」

『姉ちゃんの学校の前。もう帰ってるなら、いいんだけど』

 すぐ行くと久史に伝え結衣は通話を打ち切る。改めて携帯電話をチェックすると久史からメールが届いていた。メールを受信した時刻は一時間以上前だった。

 急いで女子トイレを出た結衣は拓海に事情を説明した。だが荷物を抱えて飛び出そうとする結衣の腕を、拓海が引く。

「何か書くもの持ってない?」

 焦っていた結衣は苛立ちも露わに拓海の腕を振り払おうとした。しかし拓海の手は結衣の腕を締め付ける。結衣は渋々鞄からノートと筆箱を取り出し拓海に渡した。

 筆記用具を受け取った拓海は英語と書かれたノートの余白にボールペンを走らせる。携帯電話の番号とメールアドレスが記されていく様を、結衣は複雑な気持ちで見つめた。

 拓海は何も言わず、閉じたノートと筆箱を結衣に差し出す。ひったくるように受け取った結衣は筆記用具を鞄に収め、逃げ去るようにファミリーレストランを後にした。






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