二月十三日は恋人たちの一大イベント、バレンタインデーの前日である。その日の授業が終わった放課後、マイはいつもより賑わっている家庭科室に顔を出した。放課後の家庭科室では調理部が活動を行っているのが、マイは部員ではない。しかしながらマイはお菓子を含めて料理が得意なので、イベントの前になると調理部から助っ人を頼まれることがしばしばあった。
家庭科室内ではすでに、チョコレートの匂いが漂っている。これから調理部がチョコレートケーキの作り方を実演するので、その見学のために家庭科室には女子ばかりが集まっているのであった。マイは助っ人を頼んできた友人を探すために人の輪の中に侵入していく。三角巾にエプロン姿で調理台の前に立っていた朝香がマイの姿を認めて声を上げた。
「あ、マイ」
「何手伝う?」
時間がないことを心得ていたマイはさっそく本題を口にする。朝香が部長の方をよろしくと言ったので、マイは調理部の部長である貴美子の姿を探した。中央の人だかりから離れた隅の方に目当ての姿を見つけたので、マイはそちらへ移動する。
「キミちゃん、来たよ〜」
「あ、マイちゃん。いつもごめんね」
マイの姿を認めると貴美子はすまなさそうに言った。マイは笑いながら首を振り、さっそく準備にとりかかる。助っ人扱いのマイは材料費を払わずに余ったチョコレートをもらえるのでお徳なのであった。
「気にしないで。お菓子作るのって楽しいし」
三角巾とエプロンを手早く身につけたマイが手を洗いながら言うと貴美子はほんわかとした笑みを浮かべた。すでに三年生は引退しているので、部長の貴美子もマイと同じく二年生である。貴美子とマイは同じクラスになったことはないが、朝香を通して仲良くなったのだった。
貴美子からどんなチョコレート菓子を作るのか簡単な説明を受け、マイはボウルや計量スプーンなどの器具を取り出す。家庭科室の中央ではチョコレートケーキを、貴美子やマイがいる隅の方ではケーキ作りに失敗してしまった人のために簡単な菓子を作るのだそうだ。チョコレートケーキが難しいことを知っているマイは調理部って親切だなぁと呟いた。
「キミちゃんは誰かにあげるの?」
お菓子作りに失敗しないコツはボウルをきれいにしておくことだと思っているマイは念入りにボウルの状態をチェックしながら貴美子に話しかけた。すでにチョコレートを刻み出している貴美子は手を止めないで話に応じる。
「うーん、どうしようかなって思ってるところ」
「え!? キミちゃんって好きな人いたの!?」
「マイちゃん、声、大きいよ」
貴美子に困った顔をされたマイは慌てて口を塞いだ。だが賑わっている家庭科室の中ではマイの言葉も大した意味がなかったようで、特に注目を集めたりはしていない。周囲を確かめたマイはホッとして、改めて貴美子に話しかけた。
「思ってるだけじゃダメだって。あげちゃいなよ」
「うーん……そうだよねぇ。でも、あんまり話したこともないから渡しづらくって。それに、今年はバレンタインが休みでしょ?」
今年のバレンタインデーは土曜日なのである。付き合っている相手に渡すのならいいが、片思いの相手に渡そうとするには『学校がない』というのは痛手なのだ。貴美子の言っていることがもっともだったのでマイは難しい表情をした。
「確かに、渡しづらいね」
「でしょう? だから、たぶん渡せないかな。朝香は家まで行って渡すって言ってたけど」
「えっ!? ホントに!?」
マイが再び声を張り上げたので貴美子は慌てて口元に人差し指を立てた。貴美子の仕種を見たマイは口元を手で覆い、ケーキの実演をしている朝香を振り返る。しかし人だかりが見えるばかりだったのでマイは貴美子を顧みた。貴美子は複雑な表情をしたまま小声で話を再開させる。
「来年の今頃は受験があるでしょ? だから今年が勝負なんだって」
「そっかぁ、受験かぁ……」
あまり考えたくない単語が飛び出したのでマイは曖昧に苦笑する。受験は誰にとっても重い出来事なので貴美子も苦笑いをし、話題を変えた。
「マイちゃんは? 誰かにあげないの?」
受験は他人事ではなかったが、マイにとってバレンタインデーは他人事である。だが不意に、甘党のクラスメイトの顔が浮かんだのでマイはその名を口にしてみた。
「ユウにでもあげようかな」
「小笠原くん? 甘いもの好きなんだ?」
貴美子が意外そうに言うのでマイは何の気なしに頷いた。小笠原ユウはマイの家の隣の隣に住む、いわゆる『ご近所さん』である。惰眠を貪ることが趣味のユウは強制参加でもなければ行事などにもまったく参加しないので、周囲からは謎の人と見られていた。
「マイちゃんって小笠原くんのこと好きだったの?」
貴美子が意外そうな態度を引きずったまま問いかけてきたのでマイは小さく首をひねる。
「そう見える?」
「……見えないかも」
考える様子もなく貴美子が即答したのでマイは笑いながら刻んだチョコレートを受け取った。
「ガナッシュ、作っちゃうね」
貴美子がテンパリングを始めたのでマイも話を打ち切って小鍋を火にかけた。生クリームと刻んだチョコレートが入った小鍋からはすぐに甘い香りが立ち上る。チョコレートの溶け具合を見ながら、マイはペパーミントのリキュールに手を伸ばした。
バレンタインデー前日に行われた調理部の実習会は盛況のうちに幕を下ろした。後片付けは手伝わなくていいと言われたので家庭科室を後にしたマイは一人、薄暗い校舎を歩いている。しかし部活動終わりと時間が重なったため、夕暮れの校舎内にはまだ生徒の姿がちらほら見られた。
渡り廊下から昇降口に向かっていたマイは知人の姿を見つけたので足を止めた。相手もマイに気が付き、目が合う。お互いに何となく歩み寄りながら、マイはジャージ姿の男子生徒に声をかけた。
「久しぶり」
マイが話しかけた人物は、一年の時に同じクラスだった久本である。マイと久本は友達というほど親しくはなかったが、一年生の時に委員会が同じだったのでそれなりに話はした、という関係であった。会うのが久しぶりなのは進級してから校舎が別になってしまったため、話すどころか見かける機会さえ激減してしまったからである。
「部活? 入ってたっけ?」
久本が怪訝そうな顔をしたので帰宅部のマイはこの時間まで学校に残っていた理由を簡単に説明した。話のついでに、マイは手にしていたチョコレートを久本に差し出す。
「食べる? 余りものだけど」
「お、サンキュ」
部活終わりの久本は空腹だったようで、マイが渡したチョコレートをさっそく口に放り込んだ。だがチョコレートという食べ物は水分のない状態で幾つも食べられるものではなく、久本はすぐに手を引く。『もういい』という合図を受け取ったマイは残りのチョコレートを鞄にしまった。
「チョコ、もうもらった? サッカー部ってモテるでしょ?」
マイが他意もなく問うと久本は呆れたような表情をした。
「サッカー部全員がモテるなんて思ってんの? 単純だな」
「じゃあ、もらってないの?」
「いや、もらったけど」
「なんだ、やっぱりもらってるんじゃん」
「マネージャーから部員全員にって、義理チョコをな」
「……本命チョコは明日渡すもんなんだよ、たぶん」
久本ならもっともらっていると思っていたマイは気まずさから微妙なフォローをした。マイの顔にはあからさまに『しまった』と書いてあったので久本は声を上げて笑う。ひとしきり笑った後、久本は忘れ物を取りに行く途中だったことを明かした。
「チョコ、ありがとな。もらったからにはホワイトデーに何か返すよ」
「えっ、ホントに? くれんの?」
「チョコレート一個分のお返しだけどな」
「うわぁ、逆に期待できそう。楽しみにしてるね」
久本は意味深長にニヤリと笑い、軽い足取りで去って行く。一ヶ月先に楽しみができたマイは弾んだ足取りで帰路を辿った。
Copyright(c) 2008 sadaka all rights reserved.