二月十四日、土曜日。恋人たちの一大イベント、バレンタインデーである。この日、マイの友人である朝香は一年間片思いをしていた相手にチョコレートを渡しに行って玉砕した。そのため、マイのバレンタインデーは傷心の朝香を慰めることで終わったのである。
二月十五日、日曜日。バレンタインデー前日に作ったチョコレートを持って、マイは二軒隣の家を訪問した。来客の対応に姿を現したのはユウの母親であり、彼女は玄関先に佇むマイの姿を見つけると柔らかな笑みを浮かべる。マイは軽く頭を下げ、あいさつをした。
「ユウ、起きてます?」
マイが問うとユウの母親は首を傾げるついでに二階を仰いだ。
「どうかしら。約束でもしてた?」
「約束はしてないです。じゃあこれ、ユウに渡してもらえますか?」
ラッピングされた小袋を受け取ったユウの母親が不思議そうにしていたので、マイは簡単に事情を説明した。ユウの母親は納得したように頷くと受け取ったばかりの小袋をマイに差し出す。
「マイちゃんから渡してあげて。さあ、どうぞ」
ユウの母親が満面の笑みで家の中へと誘うので、マイはチョコレートの小袋を抱えて従った。ユウの母親はそのまま一階に残り、マイだけが二階へ続く階段を上る。ユウの部屋をノックしても反応がなかったので、マイは少しだけ扉を開いて声をかけた。
「ユウ?」
声をかけても、やはり反応はない。マイが室内に侵入すると案の定、ベッドには丸い膨らみがあった。すでに昼を過ぎていたのでマイは呆れながらベッドに寄る。
「ユウ、起きなよ」
マイが揺さぶると丸い物体は呻き声を発した。寝顔すら覗いていなかったのでマイは少し掛け布団をずらす。するとユウの寝乱れた髪が出現したが顔が寒かったのか、ユウは再び布団を引き上げた。意識があるのかないのかは分からなかったがユウが起きることを拒んでいたのでマイはため息をついて手を退ける。
(無理に起こさなくても、置いてけばいいか)
早々に諦めたマイは机の上にチョコレートを置いて帰ろうとした。だが机の上にはすでに可愛らしくラッピングされた小袋があり、マイは首を傾げる。マイが机の上に視線を注いでいると軽いノックの音と共にユウの母親が姿を現した。
「起きない?」
お盆に乗せたカップを机の上に置いたユウの母親は振り返りながらマイに尋ねる。マイが苦笑を返すとユウの母親はベッドに向かった。無言のまま、ユウの母親は掛け布団に手を伸ばす。そして一気に、掛け布団を引き剥がしたのだった。
ユウの母親は物腰が柔らかく、普段は淑やかな印象である。それが息子とはいえ手荒な扱いをすることに、マイは驚きを隠せなかった。掛け布団に張り付いていたユウは床に転がり、呻き声を発しながら体を起こす。ユウの母親は息子の様子には目も止めず、お盆を手にしてマイを振り返った。
「ゆっくりしていってね」
ただ頷くだけのマイに柔らかな笑みを向け、ユウの母親は去って行く。室内にはしばらく沈黙が流れていたが、やがてユウが寝起き丸出しの声を発した。
「何でいるんだ?」
ユウは床に座り込んだ格好で掛け布団にくるまっており、眠そうな顔でマイを見上げている。ユウの家を訪れた理由を思い出したマイは机の上に置いた小袋を手にとってユウの傍にしゃがみこんだ。
「あげる」
マイが小袋を差し出すとユウは床に寝転がりながら「置いといて」と言う。色々な意味で呆れたマイは掛け布団の端を引っ張った。
「ユウ、そんな所で寝てると風邪ひくよ」
「んー」
「ユウ、起きなってば」
「……ん……」
「……寝ぼけてんの?」
「うう……」
「起きろ!」
マイが布団を引き剥がすとユウはようやく体を起こした。ユウの母親が手荒になる理由を得心したマイは深々と頷く。パジャマ姿のユウはベッドに背を預け、二、三度頭を振ってからマイを見上げた。
「……何でいるんだ?」
「……その科白、二度目だよ?」
夏はこんなに酷くなかったのにと、マイは嘆きながら同じ説明をくり返す。今度こそ状況を理解した様子で、ユウは床に転がっている小袋を手にした。
「寝起きに甘いもの食べると頭がはっきりするらしいよ。今、食べたら?」
冷ややかに言い置き、マイは机の上に目を移した。そこにはユウの母親が運んできたカップが二つあり、一つをユウに渡したマイはもう一方のカップに口をつける。カップの中身はホットコーヒーだったが、すでに温くなっていた。
「それ、俺のカップ……」
ユウが小声で抗議したのでマイはギョッとしてカップから顔を遠ざける。サッカーボールが描かれている白いカップから視線を移し、マイは決まりが悪く思いながら口唇を尖らせた。
「口つけてから言わないでよ。ユウが寝ぼけてんのが悪いんじゃん」
「……まあ、いいけど」
抗議はしたもののそれほど気にしていないらしく、ユウは袋を開けてチョコレートを口に放った。糖分をとったことで少しは頭が冴えてきたのか、ユウは自ら話し出す。
「何でチョコレート?」
ユウが平然と尋ねてきたのでマイは呆れを通り越して言葉を失った。眩暈がしたマイは頭を抱えながらユウの正面に腰を落ち着ける。
「あのね、ユウ。今日は何月何日?」
「……忘れた」
「二月十五日! あ、あれ?」
ユウに言い聞かせようとしていたマイは自分が予想と違うことを言い出したことに気がついて動転した。ユウはマイペースにチョコレートを口に運び、それから不思議そうにマイを見る。
「何の日?」
「……バレンタインデーの次の日」
「ああ、バレンタインのチョコか」
ユウは納得したように頷いたがマイには後味の悪さが残った。マイが黙っているとユウはコーヒーを一口含み、口の中を空にしてから言葉を紡ぐ。
「これ、作ったの?」
ユウの態度が普段とまったく変わらないのでマイも細かいことを気にするのはやめにして話に応じた。
「うん。調理部の手伝いして、余り物もらってきただけなんだけどね」
「ふうん」
「あ、そういえば。あの机の上にある袋って、もしかしてチョコレート?」
マイが机の上を指すとユウはあっさり頷いた。興味を引かれたマイは可愛らしくラッピングされたチョコレートについて質問を続ける。
「誰にもらったの?」
「松丸さん……だったと思う」
「松丸さん? え、あの、松丸さん!?」
マイの知る限り、松丸という苗字の女子は同学年に一人しかいない。そしてその松丸という女の子は非常に可愛いのである。
「ど、どんな子だった? 髪の毛が茶色っぽい?」
マイが急いて問うとユウは思い出すようにしながら頷いた。ユウの言っている『松丸さん』が間違いなく学校でも一、二を争う美少女だと確信したマイは思わず感嘆の息を吐く。
「……奇跡」
年中寝てばかりのユウが、誰が見ても可愛いと思える女の子からバレンタインデーにチョコレートをもらう。これが奇跡以外の何なのかと、マイは感慨深く思ったのである。だが当の本人は怪訝そうな表情をしていた。
「奇跡?」
「そっかぁ、ユウの良さを分かってくれる人っているんだねぇ。松丸さん、可愛いから。ユウ、きっと男子に羨ましがられるよ」
「は?」
「えっ?」
ユウが女の子から告白されたということに感動すら覚えていたマイは会話がまったく成立していないことに気が付いて眉根を寄せた。頭を爆発させているユウもまた、眉間に皺を刻んだままマイを見据えている。
「男子に羨ましがられるって、何で?」
「えっ、だって、松丸さんにチョコレートもらったんでしょ?」
「もらったけど、それが何で羨ましがられるんだ?」
ユウが不可解だという態度を崩さないのでマイはチョコレートをもらった時の状況を詳しく聞いてみた。ユウの話によれば十四日の夜にたまたま家の近くで松丸に会い、知り合いだったので少し雑談をした上でチョコレートをもらっただけとのことであった。直接的な告白をされていないのでユウは理解していないようだが、バレンタインデーにたまたま家の近くで会って、たまたまチョコレートをもらうなどという状況などあるはずがない。
(……鈍い。鈍すぎるよ、ユウ)
松丸の想いはマイの口から説明していいものではないので、マイに出来ることはただ頭を振ることだけであった。
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