Loose Knot

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バレンタインの動悸


 朝から珍しく小雪が舞っていた二月のとある日、マフラーに顔を埋めながら教室に入った小笠原ユウは室内の一画に異様な空気が漂っているのを見て取り、眉根を寄せながらそちらへ向かった。彼が何故その場所へ向かったのかと言えば、それは澱んだ空気を醸し出している人物達がユウの席付近にいるからである。自席に鞄を置き、手袋とマフラーを外し、それらをしまってから初めて、ユウは一様に下を向いているクラスメート達に声をかけた。

「何してんの?」

 ユウの声に反応し、級友二人が顔を上げる。しかし彼らの顔は、一日の始まりとは思えないほど憔悴しきっていた。

「小笠原はいいよなぁ、呑気で」

 目の下に隈をつくった国松が棘を含ませた口調で言う。意味が解らないと思いながらユウは自席に腰を落ち着けた。

「くそぅ、その涼しい顔がムカツク」

 腹立たしげに文句を吐き捨てたかと思ったら、ユウの席の前の席に横座りしていた国松は立ち上がって去って行った。だがそのまま自分の席へ行くでもなく、彼は教室の外へと姿を消してしまう。首を回して国松の後ろ姿を見送った後、ユウは説明を求めて渡部に視線を移した。

「最近やたらと絡まれるんだけど」

 国松がユウにいちゃもんをつけるのは毎度のことであったが、年明けからはそれがさらに酷くなった。近頃では投げかけられる言葉が文句というより恨み言であり、ユウは彼の変化を疑問に思っていたのである。しかしその理由は渡部も知らないようで、国松と同じく朝から疲れた顔をしている彼は小さく首を振った。

「今日は部活どころじゃないな。クニコも俺も」

 このまま雪が積もってくれれば練習もなくなり、早く帰れる。放課後になるといそいそと練習へ出かけて行く渡部が彼らしからぬ発言をしたので、ユウはまた眉根を寄せた。

「何かあった?」

「今日、何の日だ?」

 質問に問いで返され、釈然としなかったユウは眉をひそめたまま首を傾げる。ユウからすぐに答えが返ってこなかったので渡部はため息をついた。

「二月十四日と言えば?」

「ああ、バレンタインか」

 渡部に誘導される形で答えを見出したものの、何故それで彼らが沈んでいるのかユウには理解が及ばなかった。ユウにまじまじと見据えられ、渡部は苦笑いを零す。

「泣きごと、言ってもいいか?」

「別に、いいけど……」

「放課後が怖い」

「何で?」

「絶対、チョコ渡されるから」

「ふうん」

 言葉の端々に引っかかるものを感じつつも、ユウは深く追及することをしなかった。ユウが聞き下手なので渡部も困ってしまったらしく、彼は視線を泳がせて会話の糸口を探しているようである。今日はバレンタインなのかと、ユウは雪が舞う窓の外に目をやりながら独白を零した。

「甘いの、嫌いなのか?」

 クリスマスに国松の家でパーティーをやった時、渡部はケーキに口をつけていなかった。そのことを思い出したユウはそれがチョコレートをもらいたくない原因なのかと思い、尋ねてみたのだった。しかしユウの問いは渡部の真意から外れていたようで、彼は渋い表情になる。

「あんまり好きじゃない。だから彼女がいた頃は、それでけっこう苦労した」

「ふうん」

「小笠原は好きなのか?」

「好き」

「へえ……なんか、意外。もらうアテとかあったりするのか?」

 渡部の泣きごとを聞いていたはずがいつの間にやら問い返され、ユウは顎に手を当てて考えに沈んだ。記憶にある限りでは、バレンタインデーにチョコレートをもらったのは中学二年生の時だけである。くれそうな相手といえば隣の隣に住んでいる倉科マイくらいしか思いつかないが、イベント事に関心のないユウは特に期待をしてもいなかった。

「マイがくれれば、もらう」

「ああ、義理チョコね。いいよなぁ、義理チョコは気楽で」

 渡部までもが国松と同じことを言い、深々とため息を吐く。ユウも本命チョコの重みを知らないわけではなかったので、確かに気楽でいいと頷いた。その反応を見た渡部が、今度は訝しそうな表情になる。

「もらったことあるのか? 本命のチョコ」

「あるけど……」

「相手、誰? もしかして倉科?」

「違うけど、言わない」

「何でだよ。気になるじゃん」

 渡部にしつこく尋ねられたもののユウは閉口した。国松と松丸の関係に白黒ついていない以上、今はまだ言うべきではない。そう思ったユウは何を訊かれても黙ったままでいたので、やがて渡部も諦めたようだった。

「人のことより今は自分のこと、か」

 ぼやくように独白を零し、渡部は窓際の自分の席へ戻って行った。ユウは窓際とは反対の廊下側へ顔を傾け、開きっぱなしになっている教室のドアから見える窓を見つめる。灰色の空から舞い降りてきている雪はさっきよりも大きくなっており、珍しく積もりそうな気配を漂わせていた。






 朝から振り出した雪は二時間目の授業が始まる頃には本降りになっており、昼休みの時点ですでに見慣れた風景が銀世界へと姿を変えていた。グラウンドにも積雪してしまったために運動部は練習が出来なくなり、校内で基礎トレーニングをしようにも場所がなくなってしまったため、サッカー部は休みになってしまったらしい。授業が終わると早々に帰宅しようとしていたユウは、渡部に呼び止められて教室に留まったままでいた。頼むから一緒に帰ってくれと、ひどく珍しい嘆願を受けたからである。その理由を、ユウは校門に佇む少女を見て理解した。

「北沢さん」

 ユウが声を上げると、こちらに気付いた北沢朝香は足下を滑らせないようゆっくりとした足取りで歩み寄って来た。ユウ達の通う花郷はなさと大学付属高等学校は男子校だが、今日はバレンタインデーなので彼女の他にも女子の姿がちらほらとある。

 ユウ達の前で歩みを止めた朝香は、持っていた小さな紙袋を無言で渡部に突き出した。引きつった笑みを浮かべてはいたが、渡部は「ありがとう」と言いながら受け取る。情調も何もないバレンタインデー特有の光景を目にしたユウは苦笑いをしたい気分になった。

「小笠原くんもいる?」

 朝香が顔を傾けてきたので甘いものが好きなユウは「いる」と答えた。余り物だからラッピングもしてないけどと断りながら、朝香は鞄をあさって何かを取り出す。出てきたそれは、プラスチックの容器に入ったゼリーだった。

「チョコじゃないの?」

「バレンタインだからチョコ贈らなきゃいけないってこともないでしょ」

 淡白なことを言ってのけ、ユウに容器を渡すと朝香は踵を返した。ユウはゼリーを鞄にしまい、それから無反応の渡部を振り返る。紙袋を受け取ったきりの体勢のまま、渡部は呆けたように朝香の背を見送っていた。

「渡部のもゼリー?」

 ユウが声をかけると渡部は我に返った様子で袋の中身を確認し始めた。きれいにラッピングはされているものの、出てきた物はユウがもらった物と同じである。この時期に見るゼリーは涼しげを通り越して寒々しい印象を与えるが、朝香の意図を察したユウは渡部がそのことを理解しているか試してみることにした。

「甘くないな」

「……俺、フルーツ大好きなんだけど」

 透明なゼリーの中に浮いているてんこ盛りのフルーツを見せびらかすようにして、渡部は苦笑いを浮かべた。渡部の負けだと思ったユウは、顔を背けて小さく吹き出す。笑ったのを見咎められないよう傘は傾けていたが、渡部にもすぐ知れてしまったようだった。だが彼は何も言わず、無言でゼリーを紙袋へと戻している。未だ降り続いている雪が露出している顔を凍りつかせてしまいそうだったので、ユウは渡部を促して歩き出した。






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