暖房の利いた建物から外へ出たマイはあまりの寒さに体を縮ませた。冬の凍てついた夜空は薄雲もなく透きとおっていて、大きな満月が冴え冴えと輝いている。肩を高く張ったマイはマフラーに顔を埋め、足早に駅へと歩き出した。
(寒いなぁ……)
公立の一般入試を間近に控えたマイは体だけでなく心まで、二月の外気に熱を奪われていくような気がしていた。追い込みの授業で詰め込んだ数式や英単語がグルグルと頭を駆け巡っている。だがそれも、試験の時まで覚えていられるかは分からない。緊張して、ど忘れしてしまうこともあるだろう。そう思うとどうしようもない不安が募っていった。
塾から徒歩五分、駅へ着いたマイはバス停を一瞥してため息をついた。バス停には長い列が出来ており、座って帰るのはどう見ても無理そうである。頭の中で渦巻いている英単語や数式にうんざりしてしまったマイは首を振り、バスを諦めて徒歩で帰ることを決意した。
(……あれ?)
バス停を素通りしようとしたマイは列を成している人々の中に知った顔を発見して足を止めた。バスを待ちながら本を読んでいる相手はマイには気がつかず読書に熱中している。マイは茶色のダッフルコートの肩を叩き、久しぶりに会う人物に声をかけた。
「ユウ」
マイの家の隣の隣に住んでいる同級生、小笠原ユウはマイの声に反応して顔を上げた。マイはユウの肩を叩いた手を顔の横でひらひらと振る。
「何してんの? こんな時間に」
マイが問うとユウは手にしていた本を閉じてから掲げて見せた。その本を買いに出て来た、ということなのだろう。そう解釈したマイは納得して頷いた。
「マイこそ何してんの? こんな時間に」
ユウに問い返されたマイは塾の疲れを思い出して渇いた笑みを浮かべた。マイが塾だと答えるとユウは素っ気なく相槌を打つ。風はなかったが底冷えのする夜だったので、マイは早々に話を切り上げることにした。
「寒いし、帰るわ。じゃあね、ユウ」
「バス、使わないの?」
「気分転換に歩いて帰る」
「あ、そう」
マイが歩き出そうとすると最前列の辺りに並んでいたユウは惜しげもなくその場を離れた。ユウが並んでいた場所はすぐに詰められてしまい、もう空きはない。マイは隣に並んだユウを訝しく思いながら見上げた。
「何? どうしたの?」
「俺も歩いて帰る」
「えっ、何で急に。せっかく座れるところで待ってたのに」
「別に。どうでもいいじゃん」
まるで理由を問われることを嫌がっているようにユウはさっさと歩き出す。マイは首を傾げながらもユウの後を追った。ユウはのんびり歩いているので、追いついたマイも歩調を緩める。並んで歩きながら、マイはこっそりユウの顔色を窺った。
(……もうすぐ試験だっていうのに、ちっとも変わんないなぁ)
まだ試験が終わっていない受験生達は気を張っているためピリピリした雰囲気を有している。それはマイも同じだったのだがユウは平素と変わらない。呑気を通り越して落ち着き払っているユウを見ていると、マイは久しぶりにホッとしたような気分になった。
「……何?」
マイの視線に気がついたユウは嫌そうな表情をした。ユウのそんな表情すら懐かしく感じたマイは笑みを零す。
「よゆーだなぁと思って。ユウ、プレッシャーとか感じてないでしょ?」
「プレッシャーも何も、俺、推薦組だから」
「ウソ!? じゃあ、もう進路決まってんの?」
「うん。
「花郷って……」
言葉が続かず、マイは絶句した。花郷大学付属高校は偏差値六十の、「超」とはいかないまでも名門校である。ユウがそんな高校に推薦で入学するほど頭がいいとは露ほども思っていなかったマイは置いてけぼりをくらったような気分になった。
「そっかぁ、花郷かぁ……」
マイが寂しげに独白するとユウは視線だけを傾けてきた。ユウの視線に気が付いたマイは慌てて話を続ける。
「何で花郷に行こうと思ったの?」
「近いから」
「もしかして、それだけ?」
「うん。それだけ」
ユウが考える素振りも見せずに断言するのでマイは必死に追い込みをかけている自分がアホらしく思えてきた。マイの志望校は偏差値で言えば、五十に満たない普通の高校なのである。
「マイは? どこの高校受けるの?」
嫌な流れで話を振られたと感じたマイは小声で志望校の名を呟いた。
「霞ヶ原」
「ふうん。何で霞ヶ原?」
「近いし、制服がカワイイから」
「それは重要だな」
すでに名門校へ進学することが決まっている者にランクの低い高校の話をすることにマイは気が引けていたのだが、ユウの一言に全てを失念して瞠目した。
「えっ!? ユウでも女の子の制服とか気にしたりすんの?」
「……いや、そっちじゃなくて」
「あ、ああ、近いって方か。ビックリしたぁ」
マイが大袈裟に驚いたせいかユウは苦笑いを浮かべている。ユウの態度が笑いを誘ったのでマイもにやけた。
「もう色気づいちゃったのかと思っちゃったよ」
マイがいつもの調子でからかうとユウはすぐに笑みを消した。少し不服そうな表情をして黙りこくっているユウが色気づく姿を想像してみたマイは、あまりのそぐわなさに思わず吹き出す。ユウは突然ゲラゲラ笑い出したマイを気味が悪そうな目で見た。
「なに笑ってんだよ」
「別に? 何でもないよ。それより、寒いねぇ。お風呂入りたい」
ユウが本格的に怒り出す前にさらっと話題を変えたマイは鞄を小脇に抱えて両手に息を吐きかけた。二月の外気に晒されたマイの手はすでにかじかんでいて、吐き出す息も凍り付いてしまいそうなほど白い。それを見たユウは自分の左手から手袋を引き抜き、マイに差し出した。
「使えよ」
「かたっぽだけ?」
「……両方寄越せって?」
「うそうそ。ありがと、ユウ」
ユウに笑って見せたマイはさっそく手袋をはめた。温かくなった左手で鞄を持ち、マイは右隣にいるユウを仰ぐ。
「でもユウ、寒くない?」
問いかけには答えず、ユウは無言でマイの右手を取った。マイの手を握ったまま、ユウは自分のコートのポケットに手を突っ込む。するとそこは、手袋よりも温かかった。凍える寒さからは救われたものの、マイはユウの行動に多少の奇妙さを覚えて眉根を寄せる。
「カイロ入れてたんだ? でもユウ、この格好歩きづらいよ」
「じゃあ、もっと寄れば」
「うーん」
そういう問題かと思いながらもマイはユウに寄り添ってみた。ポケットの位置が低いのが幸いだが、近付いてみても歩き辛さは変わらない。しかし、かじかんだ手に温もりが心地よかったのでマイはユウの好意に甘えることにした。
「ねえ、ユウ」
「……何だよ」
「今どっちかがコケたらさ、道連れだよね」
ユウは呆れたような顔をしてマイを見た後、眉間に皺を寄せて空を仰いだ。考えるような短い間があってから、ユウは再びマイを見る。
「転ぶなよ」
「ユウこそコケないでよ?」
お互いに言葉を途切れさせた後、マイとユウは同時に吹き出した。ユウがおかしそうに笑っている顔を見るのは初めてかもしれないと思いながら、マイは不自然にならないよう目を逸らす。
(ユウと手つないで歩いてるなんて、変な感じ)
それはマイだけの思いではなく、ユウも同じなようだった。カイロのせいなのかもしれないが、ポケットの中のユウの手は少し汗ばんでいる。本当は照れくさいのだとユウの顔に書いてあったのでマイは密かに含み笑いを零した。いつもより距離が近いせいなのか、ユウはマイの些細な変化を見逃さなかった。
「どうせ帰ってからも勉強するんだろ? 手がかじかんでたら何も出来ないじゃん」
ユウが口にした言葉は言い訳じみた響きを伴っていた。自分でもそう思ったのか、ユウは難しい表情をしてあらぬ方向を見据えている。堪えきれなくなったマイは再び、声を上げて笑った。
「こんなに笑ったの久しぶり。何だかスッキリしちゃった」
塾を出た時に感じていた重圧感はどこへやら、マイは晴れ晴れとした気持ちでユウを仰いだ。励ましているつもりはなかったのか、ユウはキョトンとしている。それでもしっかり励まされたマイはポケットの中で触れている手に少し力をこめ、軽く握り返した。
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